Healing Discourse

1万回の「愛してる」を、君へ 2013.10.01〜04(絶食 DAY8〜11)

2013.10.01(断食 DAY8)#2
          <夜>

 愛する美佳、

 周囲の人も、だんだん心配になってきたようだ。
 私につき合って断食すると言い張っていた取り調べ担当の刑事は、数日で音[ね]をあげた。

 今日は病院へ連れてゆかれ、簡単なチェックを受けたが、「今のところ、何の問題もなし」とのことだった。
 が、病院だの取り調べだの、あれこれやっていたため、留置場に帰るのが遅くなった。

 今日はこれくらいにしておくよ。

愛しい美佳。
1万回の「愛してる」を、君へ。

一行

          

2013.10.02(断食 DAY9)
<午後>

 愛する美佳、

 昨日、1日中あちこち引き回されたせいか、夜、初めて「苦しみ」らしきものの片鱗[へんりん]を味わった。
 強い痛みではないのだが、何時間も延々、空腹感を強くしたような、空虚で、不快な感じに苛[さいな]まれ続けた。

 そうした苦しみのさ中にあって、なお、「私に与えられたすべてを受け入れます」と、祈ることができた。

 君を心配させようと思って、こんなことを記しているんじゃない。
 ただ、その時その時の、私のありのままを、君に伝えたいと思って書いている。

 安心してほしい。
 今朝起きたら、苦しみはすっかりなくなっていた。

 薄皮を1枚ずつはがされてゆくように、体力が失せてゆくのを感じ始めている。
 が、その分、気力、精神力が充実してゆく。
 これは、私にはとても心地良いことだ。

 留置場と取り調べが行なわれる別の警察署の間を車で行き来する間、街のいろんな光景が目に入ってくるのだが、今もこれから先も、私とは一切関わりのないものだと思うと、自分がまるで幽霊にでもなったみたいな、妙な気分だ。
 だから、大抵は目を閉じている。

 昨夕、留置場への帰途、ふと目を開けると、夕日に照り映える街路樹のイチョウが、生命の輝きをまといつつ踊っていた。

 美しい・・・・。
 思わず、みとれてしまったが、そんな風にして「外」の世界とつながったことが、その夜の苦しみの原因だったのかもしれない。

 今日は、検察庁へ連れてゆかれ、検事より取り調べがあるとのことだ。
 <死>に据わる者にとっては、「どうでもいい」ことだが。

 君への愛を綴る時間がなかなか取れないことだけが、もどかしい。

美佳、愛してる。
歓喜に雀躍[こおど]りする愛を、君に。

一行

2013.10.03(断食 DAY10)
<午前>

 愛する美佳、

 本日の警察取り調べは午後からとのことで、少し書く余裕ができた。

 昨日、生命の光に取り巻かれて踊るイチョウの木が苦しみの原因となって、云々と記したが、私を病院へ連れていった護送官も、やはりその後に気分が悪くなったと聴き、原因がハッキリわかった。
 院内感染だ。
 大きな病院内に、抗生物質さえ効かなくなった変種菌がうようよしていたのだろう。
 断食中に病院なんか行くもんじゃない。
 こうして書いていることといい、取り調べの刑事や検事と渡り合っていることといい、断食中の禁忌[きんき]をことごとく破っているといっていい状態だが、まあ仕方ないさ。
 昨日のイチョウの美は、むしろヒーリング作用を発していたのだと、改めてすべてのプロセスを想い起こしてみて、そう思う。

 さて、昨夜、東京からわざわざ駆けつけてくださった弁護士の丸井英弘先生と接見した。
 弁護士の世界では、名前のあとに「先生」をつけるのが通例らしいが、私はこれまで先生と呼ばれるにふさわしい弁護士と会ったことが1度もなかった。
 最初の弁護士なんか、尻尾を巻いて逃げ出してしまったものね。

 が、丸井先生は非常にユニークな人物で、自己保身に汲々とする小人[しょうじん]どもが多いこの世界にあって、自らの信念を貫いている稀有[けう]な人だと感じた。
 丸井先生、と素直に呼べる。

 あちらも驚かれていたが、広島とか原爆、音楽活動など、私たちがこれまで独自にやってきた様々なこととリンクし合い、響き合う部分が多く、いただいた御著書『地球維新2』の前半4~5分の1を今朝読んだが、その中にすでに20~30箇所ものシンクロニシティを発見した。
 この本には鳴門も重要な地名として出てくるが、鳴門といえば渦潮で有名であり、私たちのスライドショーで最近起こり始めた、画面が突然渦巻き始める現象(久高島巡礼最終回、またはボニン・ブルー第4部利島巡礼第1部)を強く想起させる。
 渦が巻いて龍宮の門が開く場面では、鈴を鳴らすようにしようと君と話し合ったのは、つい先日のことだ。
「鳴る門[と]」・・・・。

 ところで、今日もう1度丸井先生と接見することになったので、その際メッセージを託すつもりだが、君や友人たちはどうも誤解しているように思える。

 死ぬなとか、生きろとか、食べろとか、一体君らは何を勘違いしているのか?
 私は今、こうして生きているじゃないか。
 ただ闇雲に死を目指して、私は断食しているのではない。

 死は目的ではなく、可能性の1つに過ぎない。
 そんな先のことよりも、食を断っている今、一瞬一瞬が、私にとっては大切だ。

 何が何でも死んでやる、そんな駄々っ子[だだっこ]みたいなマネを、私はやっているんじゃない。
 それに、留置生活について、想像を絶するだの何だの、あれこれ憶測をたくましくするのは、どうかやめてもらいたい。

 それは、私のように自由奔放に生きてきた者が、いきなり檻の中にブチ込まれれば、さぞや不自由な生活を強いられているに違いないと同情したくなる気持ちもわかる。

 が、同情など一切必要ない。
 なぜなら、この状況を、私は楽しんでいるからだ。
 <樂[たのし]!!!>と、今も心の底から唱えることができる。
 私が楽しんでいるというのに、君たちがメソメソクヨクヨしていて、どうする?

 涙を振り払いなさい。
 莞爾[かんじ](ニッコリ)と、ほほえみなさい。
 私は、自分が逮捕されたことも、檻の中に閉じ込められていることも、手錠・腰縄をつけられあちこち引き回されることも、まったく・・・・まったく、苦にしてない。

 どこへ行くにも、どこにあっても常にスックと真っ直ぐ身を起こし、「随所に主[あるじ]となる」ことを心がけている。

 すでに私の父に話をしたようだが、これまで疎遠となりがちで、人生の根本問題について話し合ったことが1度もない父が、「大きなことを為[な]す者は、牢に入ったり出たりを繰り返して人間形成してゆく」だの「今は悪いとされていることが、後になって良いとされるようになることは、世の中にたくさんある」だの、あんなことを言ってくれるなんて、勘当[かんどう]されて当然くらいに思っていたから、本当にびっくり仰天した。

 どうか父に以下のように伝えてほしい。
 「あなたがこれまで私に贈ってくれた言葉の中で、最高のものです」と。

 話を戻す。
 私は、死そのものを目的として断食しているわけではないことを、改めて銘記してほしい。
 が、絶食の結果、死が訪れるのであれば、私はそれを全面的に受け入れる。従容[しょうよう]として。

 仮に、の話などしたくないが、世界が、大いなる<流れ>が、私に「生きよ!」と明確なメッセージを示し、私自身もそれに深く納得できるような状況の変化が訪れたなら、断食し続ける理由も自動的になくなる。
 しかし、先のことなどわからない。

 私は死に急ぎなど、決してしないよ。
 私はただ、楽しみたいだけだ。
 この最悪ともいえる状況を龍宮道(ヒーリング・アーツ)でヒーリングすることが可能か、面白がりつつ取り組んでいるところだ。

 丸井先生とお会いして、世の中にこんな人がいたのかと驚くと共に、私自身の未来像の選択肢がいくつか増えたように感じた。
 丸井先生とは、中村天風の話題で盛り上がったが、思いもかけぬところで中村天風が縁をつないでくれていたかと思うと、まさに感無量だ。
 これぞヒーリング・ネットワーク(いやしの絆、縁[えにし])というものか。

 今年の春、龍宮館(自宅)の端っこから奇妙な形の葉っぱが生え出てきたよね。
 それが少しずつ成長していって、ついに花をつけてあっとびっくり。
 10数年前、庭で1、2度育てたことがあるタバコではないか。
 種が風で飛んでいったのだろうが、10年以上もたってから、建物土台の垂直に近い切り立った部分に埋め込まれた排水用の塩ビパイプの口から、さりげなく新たな命の形を吹き出した生命力には驚かされた。

 タバコは、原産地である南北アメリカ大陸では、神々の世界との間を橋渡しするとされている神聖な植物であり、タバコの花言葉をインターネットで調べてみたら、「あなたは1人ではない」となっていた。
 まったく象徴的じゃないか。

 本日も空腹感なし。苦しみもなし。
 実にありがたい。

                          

美佳。抱えきれないほどの愛を、君へ。

一行

2013.10.04(断食 DAY11)
                            <午前>

 愛する美佳、

 昨夜、丸井先生から伝えられた君の言葉を思い起こしていると、急激に疲労感を覚えた。
 君たちは一体、なぜ、私を保釈させようとしたり、生かそうと右往左往しているのか?
 再び私にべったり依存し、私に頼り切り、私に何もかもやってもらうため・・・・ではないのか?

 弁護費用を友人たちが集めて支援してくれる、その気持ちはもちろんうれしいし、ありがたい。が、自分自身は何もせず、ただお金だけ出して、後の事は弁護士に任せきり——。
 そんな為体[ていたらく]では、本質的にこれまでと何1つ変わってないではないか。

 もちろん、法律の専門知識が必要な分野で、君たちにできることは、ほとんどあるまい。
 が、今回の件をきっかけとして、君たち1人1人が<自覚>を急激に深め、自立することならば・・・・「できる」はずだ!!

 甘えることしか知らない者、他者に頼ることしかできぬ者、自覚なき者、・・・・そんな者たちの元へなど、私は帰りたくない。
 無限の虚空へ、無限に落ち続けてゆくような、空虚な疲労感。

 が、夜、就寝前に龍宮道の基本調律法で腹に数分間働きかけ、今朝目覚めてみれば、気分爽快。新元気に満たされ、同時に新しいマナ(術[わざ]、叡智)も顕現した。

 美佳。
「頬をふくらませる」という場合の、「頬」とはどこか、今一度、タッチ感覚を元に確認してほしい。
 顔の真横を向いているわけではないことは、既に確認ずみだ。
 頭部を縦に断ち割り、顔を左右別々にとらえれば、その左右の顔は正面に対し、それぞれ斜めになっている。

 頬をへこませてみてごらん。
 顎[あご]は自然に開く。
 そして、一番へこんでいるところに、指先をさし込んでごらん。

 その、指先がさし込まれている場所を、上方から感じてゆく。
 次に下方からも感じてみる・・・・と、意外や、これまで思っていたよりも、ずいぶん下にあるとわかるだろう。

 今度は、顔の角度に注意しつつ、もう少し正確に、頬の位置、角度の感覚/意識を鮮明にしてゆく。
 その、一番へこむところが、頬をふくらませたり、へこませたりする際の中心であると認識し、指を当てたまま、実際に頬をふくらませたり、へこませたりしてみる。

 私はあっと驚いたね。

 思っていたより下にあっただけでなく、「斜め下」 を向いていた・・・・!?!?!
 でも考えてみれば当然のことだ。
 だって、耳のそばの顎関節から下顎先端にかけては、斜め下向きになっているじゃないか。

 この理会(全身まるごとでわかること)が訪れた瞬間、全身的な組み替えが始まった。

 ここ最近、左の首にずっと違和感を覚えていたのだが、首を回すなど違和感が生じた状態にて、頬の誤認知(仮想)を正すと・・・・たちまちスーッと楽になる。
 慣れぬうちは、片頬ずつで良い。
 頬の向きがわかりにくい時は、指で押さえながら頬をふくらませ、指を当てる位置、角度をいろいろ変えてみると、ある角度で最も強く指が押し返されることがわかるだろう。

 静止した状態で行なうことに習熟してきたら、今度はいろんな動作をゆっくりやりながら(必要ならば適宜動きを止め)、同時に指先のタッチを活かしながら、頬の正しい向きと位置を確認してゆく。

 すると、断然楽だ。自然だ。
 全身のつながりが途切れない。

 いろんな方面へ応用できる。
 ディジュリドゥー(オーストラリア先住民の管楽器)の循環呼吸しかり。
 肥田式強健術(ヒーリング・エクササイズ)のあらゆる動作しかり。

 頬の向きを、水平方向に仮想すると、顎で首、肩を持ちあげるような力が働き、余計なテンション(突っ張り感)が生じる。
 頬を斜め下向きに戻したとたん、首や肩がスーッと下がって楽になる。

 小笠原や伊豆七島の利島[としま]で野生のイルカと出会って以来、日常生活の中で私が時折頬をふくらませたりへこませたりしていたのを覚えているかい?
 君と一緒に笑ったものだが、私自身、一体なぜ自分がそんなことをしているのか、さっぱりわからなかった。
 イルカ語で私の身体にダウンロードされた『生命の法』の、これは1つなのかもしれない。

 利島での最終日のドルフィン・スイムにてようやく「通じ合う」ことができた、あのイルカの目が、表情が、鮮明によみがえってくる。
「ようやくお気づきかい?」
「リラックス、リラックス」
「すべては遊び、神の遊びだよ」、と。

 中世の騎士は、何か恥ずかしめを受けると、自ら息を止め、そのまま静かに死んでいったという。
 ジャック・マイヨールも同様にして自身の命を絶ったそうだが、それと比べれば多少の断食など何ほどのことかと思えてくる。

 もちろん、比較することには何の意味も、意義もない。
 現代インドの賢者OSHOは、「比較はみじめさを生む」と言った。
 マイヨールは息を止めて死ぬことはできても、食を断って死ぬことはできなかったかもしれない。

 インドで思い出したが、古代インドのマハヴィーラが創始したジャイナ教は、世界で唯一自殺を認めている宗教なのだそうだ。
 が、1つ条件があって、食を断って死ぬことが、その条件だ。
 私はジャイナ教についてはほとんど知らないが、絶食による自殺のみをマハヴィーラが認めた理由を推察することはできる。

一、死へと至るプロセスの中で、図り知れぬ浄化が幾度も起こり、人生を総括する時間も充分得られる。
二、やめようと思えば、いつでもやめられる(ただし、通常の食事を直ちにとってはならない。ショック死することがある)。
三、ゆっくりゆっくり、意識的に<死>へと近づいてゆくことで、<死>と全面的に向き合うことができる。

 私は、絶食死というのは、決して悪いものではないと思っている。
 食べたいのに食べるものがない、あるいは食道ガンなどで食べたくても食べられない、その結果としての餓死は、悲惨だろう。
 が、<死>を覚悟し、意識的に<死>へと一歩、一歩、ゆっくり近づいてゆくことは・・・・決して・・・・決して・・・・悪いものじゃない。

美佳、1万回の「愛してる」を、君へ。

一行