Healing Discourse

1万回の「愛してる」を、君へ 2013.10.13〜14(絶食 DAY20〜21)

2013.10.13(断食 DAY20)
<朝>

 大好きな美佳、

 今朝、目が覚めると、昨日の不思議な振動感覚は消えていた。
 断食中は、こういうことがしょっちゅう起こる。何か新しい現象が始まったと思っても、それがずっと継続するとは限らない。

 今回、逮捕され、取り調べを受けてゆく中で、ジョルジュ・バタイユ、ロジェ・カイヨワらと岡本太郎が第2次世界大戦前のパリで秘密結社を結成し、研究・実践したという「正なる神聖と邪なる神聖」というテーマについて、深く考えさせられるものがあった。

 現代の世界では「法律」が神聖な、絶対的に正しいものであり、それに対立する価値を掲げるものは、犯罪者、異端者の烙印を捺され、邪なる神聖の信奉者として弾圧される。が、正と邪は1つのコインの表裏に過ぎず、両者セットで1つの大きな波(波形)を成す。そして、神聖の正邪は、時代の変転と共に、弁証法的に展開してゆく、というのがバタイユらの主張だ。

 取り調べの刑事らは違法捜査の可能性など、自分たちに都合が悪い場面になると、「法は絶対だ」「法を破れば罰せられるのは当然だ」と、バンバン書類を叩きながら、大声で口々にまくし立てる。そんな風に正論を振りかざし、かさにかかって大騒ぎする姿を静かに観[み]ていると、ものすごく薄っぺらで、人間的な自発性、自主性がまったく感じられない。
 この人たちは、「法」で認められていたのだから、江戸時代に隠れキリシタンを狩り出し、残酷な方法で拷問し、処刑したことは正しい、と本気で信じているのだろうか?
 古代ローマ帝国で、原始キリスト教徒らが、「法」に基づき、八ッ裂きにされたり、猛獣の餌食となるところを見世物にされたことをも、「正しい」と断ずるのだろうか?
 あるいは、ナチスドイツにおけるユダヤ人の大量虐殺は如何[いかん]?

 今回、私がA君と「共謀」して「密輸」を図ったとして罪に問われている「違法薬物」(いわゆる麻薬)について、友人らが手分けしてあれこれ調べたが、日本で規制されたのは数年前のことで、それ以前は輸入も所持も使用も自由だった、とのこと。
 そしていくら調べても、それがどのように有害で、実際にどういった健康被害が報告されているのか、わからない。
 有害さを証明する科学的データを、日本に限らず世界規模で調べたが、どこにも見当たらない。厚生労働省にも問い合わせたが、何のデータも持ち合わせないようだ。

「それ」の何が、どこが、いけないのか? 悪いのか? 「法で規制されたものだから、ダメなものはダメ」ではなく、もっとわかりやすく、合理的に、普通の頭脳と常識を備えた人間なら誰でもわかる「理由」を、まずはお聴かせいただきたい。

 私はこれから裁判にかけられ、罰せられようとしている。
 ところが、今回の件で迷惑を受けた者、被害を受けた人が、どこかにいなければならないと思うが、そんな人間はどこにも存在しない。
 実に奇妙な話だ。
 というわけで、私は、本質的に何が悪いのかもわからず、被害者もいないまま、裁かれようとしているわけだ。

 正と邪の神聖を、それぞれ奉ずる者は、価値観だけでなく、言葉の意味まで違うらしい。
 最初、警察での取り調べにあたり、私は「A君の件については、私の元で長く学んでいた人であり、私自身が全面的に責任を負う所存です」と話した。
 ところが取り調べが進み、A君だけでなく、他の友人らをも何とかして関連づけ、巻き込み、あたかも組織ぐるみの大犯罪のごとく事件を演出しようとしていることに対し、私が一貫して黙秘を貫くや、2人の取調官は、突如態度を豹変させ、「全面的に責任を負うといった、あの言葉はどうなった?」「やはり口先だけの人間だったか」など、私の人間性、尊厳を傷つけようと躍起[やっき]になって怒鳴り散らす。
 こちらは何が何だが、さっぱりわけがわからない。
 私にとり全面的に責任を負うとは私がA君の罪を引き受け、その罰を背負うことであり、それがかなわぬのであれば、A君と罰を分かち合い、苦しみを共にするということだ。
 有罪を宣告され刑を受けることに対し、それを逃れようとか、何の関わりもない友人らを売り渡してまで罰を軽減してもらおうとか、そんなことを私は一切考えない。

 これに対し、取調官にとっての「全面的に責任を負う」とは、相手の期待通りの答えを私がペラペラスラスラしゃべり、事件の全容(!)と背後の複雑な人間関係(!!)を、あらかじめ用意されたシナリオに従い、すべて明るみに出すこと、をどうやら意味するらしい。

 それにしても、逮捕状に記されている私の「容疑」を読んだら、誰でも笑い出すんじゃないかな?
 詳しくは記せないが、私がA君と「共謀」して麻薬をオランダより密輸せんと図り、郵便物に紛れこませて、スキポール空港より送り出し、さらにカタールのドーハ空港で積みかえさせて・・・云々と、飛行機発着の時刻まで細かく、長々と続き、最後に大阪空港に到着した後、「事情をしらぬ空港職員をして空港外に搬出せしめた」のだそうな。
 まさに、国際的密輸団の暗躍といったところだが、あにはからんや、実際にはA君が、こんな「大ごと」になろうとは思いもせず、インターネットのウェブサイトを通じてメールオーダーした、それだけのことじゃないか。私もA君も、これまでオランダにもカタールにも1度も行ったことがない。

 狂気とすら呼び得るほどの「これ」は、体制側の最後の悪あがきなのだと私は感じる。大いなる変容の時が近づいていることを、「これ」は、示すサインではあるまいか。
 そのように刑事らに告げたら、またもやウーンと腕組みして考え込んでいた。

 狂気の真っ只中に飛び込み、そこにまったき不動と静寂の中心を生み出すべく、私は今、ここに、こうしている。
 私みたいな人間にはこれまで会ったことがないと、逮捕以来、よく言われる。
 いつも王者のごとく堂々たる態度・姿勢で、手錠なんかちっとも恥じていないから、一体誰が主人で、誰が仕える者なのか・・・。

 美佳。わがいとしの君。
 私は今回の体験で・・・恥ずかしさを感じることが激減したよ。
 信じられないよね。
 遠くまで1人で買物に行ったはいいが、対面コーナーの店員にあれこれ話しかけられるのが恥ずかしくて何も買わずに帰ってきたりしていた、あの私が。

 オレもついにオジサンになったのかなあ。
 私の内面では「若々しさ」が燃え盛っているのだが。

美佳、1万回の「愛してる」を、君へ。

一行

2013.10.13(断食 DAY20)
<午後>

 愛する美佳、

 私は聖人でも賢者でもない。
 武道の達人でもなければ、すぐれた芸術家でもない。
 ただの人間、それだけ。
 君や友人らと共に、自らの内面に秘められた「何ものか」を真剣に探究し、他人からすれば小っぽけな下らないものと見えるかもしれない「それ」が1つ1つ花開くたび、お互いに喜び合い、讃え合い、祝福し合うことを、人生の無上の価値としてきた、ただそれだけの人間だ。
「それ」とは、創造性を指す。
 創造がなければ、人生はあまりにも虚しく、空っぽと感じられる。
 創造こそが、私たちに歓びと活気を与え、生きがいを感じさせる。
 世間に認められるとか、うまいとかヘタとか、そんなことは一切、関わりがない。
 個々人の内面より自然に湧き起こり、表現される、自分で自分に驚くような、創造性。
 あらゆる人が、宇宙の創造的力によって産み出されたのであり、したがってあらゆる人が創造性を生まれながらに備えている。
 それを表現する方法や方向性は、各自によってそれぞれ異なっているだろう。
 そうでなければ面白くない。
 誰もが皆、同じ価値観を持ち、同じことをやっている、そんな世界をイメージしただけでゾッとするではないか。そこには創造性のかけらもありはしない。

 神とは、創造せしもの、創造主、ではない。
 神が世界を創造したのではなく、神とは創造性そのものだ。
 神と世界とは別[わか]たれていない。
 神とは不断に起こり続ける創造性そのものに他ならない。
 神は世界であり、世界は神だ。

 そのような意味で、私は創造性という言葉を使っている。

美佳、華やかな愛を、君へ。

一行

2013.10.13(断食 DAY20)
<夕>

 大切な美佳、

 愛・・・が、私の裡[うち]より溢[あふ]れこぼれるのを感じる。否、私は愛そのものだ。
 この愛は、創造性と分かちがたく結びついている。創造性とは、愛だ。

 創造的な愛は、熱くない。
 冷淡ではないが、熱っぽく、盲目的になったりしない。そして、個人的な愛とも違う。

 あれこれ期待する私、何かを求めようとする私、思い悩む私、何かを感じている私。
 それら瞬間瞬間の「私」を・・・
 強調(意識)してはレット・オフすることを、常に心がけている。
 すると、サァーッと明るくなる。
 悩みや不安の影が一掃される。とても楽になる。
 これは薬物やハーブ等の作用にあらず。
 ちょっとしたコツのようなものだ。が、人生の質(クオリティ)を左右する重要なコツだ。

 レット・オフが鍵となる。
(掌芯などを)凝集してからレット・オフ。
(指などを)張ってからレット・オフ。
 いろんなやり方で「私」(自己存在感)へと働きかけることができる。

美佳。したたかな愛を君に。愛している。
心の底から。

一行

2013.10.13(断食 DAY20)
<夜>

 愛する美佳、

 以前、ヒーリング・ネットワーク・ウェブサイトのどこかに記したことだが、私はとりたてて何の取り柄[え]もない、まったく平凡な人間だ。
 高学歴なし、免許も資格もなし、報償を受けたことも、学校で賞状をいただいたことすらない。
 まったく、何もなし・・・。ここまで徹底すると、実にサッパリしたものだ。
 携帯電話も車も持っていないと知り、取り調べ担当官も驚き呆れていた。

 大空を行く雲のように、流れる水のように、自由闊達[かったつ]に生きてきた。その私が、今、自由を奪われ、人間性を剥奪され(何せ、ヒャクゴジュウサン番だからねえ)、社会的生命を(もしかすると肉体的生命も)抹消されようとしている。

 昔からそうだったが、私という存在それ自体が人々の内面にある「何か」を激しく喚起し、かき立てるようだ。
 私を大好きになる人がいる反面、強い憎悪を私に向ける者もいる。
 時に激しい火花を散らしてぶつかり合った刑事は、取り調べの最後にあたり、「理屈を並べられてカチンと来ることもあるけど、オレは高木さんが好きになったよ」と言った。
 私を嫌う人々は、私が「こうなった」と知って小躍りし、ザマアミロと手を叩いて喜ぶのだろう。
 それらの人々を喜ばせることができたのであれば、私はとても嬉しい。

 昔、セミナーなどを盛んにやっておった頃、ある日、1人の若者から電話がかかってきて、いわく、「先生、先生は僕のお父さんですよね?」
 ・・・当時、まだ未熟だった私はぐっと答えに詰まってしまったね。
 オレの知らないところで、子供ができていたのか。何せ、多くの魅力的な女性たちと愛し合ってきたからなあ・・・なんて、我知らず思考が枝分かれしながら広がっていった。
 が、さらに話を聴くうちに、
「先日、名古屋でテレポーテーションを見せてもらった者です」などと言い始めるではないか。当時は、まだ名古屋に1度も行ったことがなく、テレボーテーション(瞬間移動)なんて、昔も今もできやしない。
 こんな調子で、これまで1度も会ったことがないにも関わらず、なぜか私を敵視し、自らの妄想を重ねて私を批判する人もいれば、逆に私を強く慕う人もいる。
 一体どうなっているんだろうね。
 私にはわからない。

 まぁ、好きと嫌いは1つのコインの表裏だからね。
 大好き大好きと私に迫っていた人間が、受け入れられないと知るや、一変してストーカーと化し、長年に渡り無言電話をかけ続けたり、あれこれ嫌がらせしてきた実例は数知れない。
 一個人で、オレほどたくさんのストーカーに悩まされた人間も少ないんじゃなかろうか。
 女だけでなく、男のストーカーも、少なくなかったよね。

 それらの人々に対し、私は今、哀しみの入り交じった謝罪の気持ちを感じる。
 申し訳ない。
 当時、私のハートはまだ充分開かれ切ってなかった。
 私の度量はまだ小さく、狭く、あなた方の愛、あるいは憎しみを全面的に受け止めることができなかった。

美佳へ、束縛なき自由な愛を君へ。

一行

2013.10.13(断食 DAY20)
<夜(2)>

 愛する美佳、

 聖なるハーブの実験、実践を開始した頃、私は法を遵守し、法に背[そむ]かぬよう、常に細心の注意を払っていた。
 法で禁じられているものを使おうとは思わなかったし、覚醒剤とかヘロインなど、強い中毒性や有害な副作用が知られているものなどは、関心の対象外だった。

 10数年前、規制されてないハーブや薬物は、それほど多くはなかったが、決して少ないわけでもなく、それら自由に実験できる<聖なる扉>を触媒として、私は心身修養と霊的探究において大いなる成果をあげることができた。
 が、1つが禁止され、また1つ、さらに1つ・・・と、常識を守って誠実に使いさえすれば計り知れぬ可能性を秘めた世界が次々と閉ざされてゆく。

 抗議の声も、様々なデータの提出も、まったくかえりみられることがない。
 大麻を堂々と育てるべく、植物学者の知人の助けを借りて入念な栽培計画を作成し、免許取得を申請してもみたが、「ダメなものはダメ」との一方的理由で却下された。

 このたび私を取り調べた刑事は、当時どういったアプローチを私が聖なるハーブ類に対して取っていたかを聴き、「誰もがあなたのように高い目的意識を持ち、注意深くハーブや薬物と接するのであれば、社会的問題を引き起こすこともなく、規制ももっと緩やかなものとなっていたのではないか」と言っていた。

 が、弁護士の丸井先生もおっしゃっていたが、これ(厳しい規制)は時代の必然なのだろう。
 丸井先生からお聴きしたことだが、警察で使われているマークの1つは、大麻の花をシンボライズしたものであるといい、本来、大麻の神聖さを守るべき立場にある者が、今、盛んに大麻を弾圧し、抑圧しているという、この大いなる矛盾・・・。

 が、1つの極端に達した後は、必ずや反転[レット・オフ]が起こる。
 取り調べ時も、護送時も、私はいつも、レット・オフ波紋を解放し続けている。

美佳、颯爽[さっそう]とした愛を、君へ。

一行

2013.10.14(断食 DAY21)
<朝>

 愛する美佳、

 本日、断食21日目。
 体調は特に変化なし。
 左右の膝密珠を同時に起動させ、強烈無比な丹田パワーを発生させてみたいが、現在の体力では身体に余計な負荷がかかりそうなので控えている。

 本日も、取り調べの予定は入っていないそうだ。
 3連休だから、というわけでもなかろうが、3日も続けて放っておくというのは、効率の悪さを示す以外の何物でもなかろう。
 とはいえ、ないと思っていた取り調べが突然行なわれる、なんてことも珍しくないから、油断は禁物だ。

 本作における君への、そして人類へのメッセージも、現時点で伝えたいこと、伝えられることはほぼ書き尽くしたと感じている。
 法的な理由で詳しく記せない事柄も多くありはするが、それらは枝葉末節に属する部分であり、重要ではない。

 ここまで書いたところで、また例の微振動が始まった。
 肛門の左右にある密珠、坐骨結節の密珠などをざっと検証したが、あまりに膨大な内容のため、全容を把握することが難しい。

 そういえば、小笠原巡礼で得た坐骨密珠を寝技に応用すると面白かったよね。
 仰向けにて、上から覆いかぶさられるように強く押さえ込まれた状態で、この密珠を起動させると、相手はまるで、並べた丸棒の上を滑り転がってゆくみたいに、床に平行にスライドしながら崩れてしまう。
 押さえ込んでいる相手を引っくり返す、というのは柔道や柔術、レスリングなどでもよくある手だが、そのまま横滑りさせて崩すなんて、聴いたことがない。
 小笠原のビーチで、君と練修中、強い波にさらわれて、波打ち際を滑っていった、あの体験がそのまま龍宮拳の術[わざ]として表現されるなんて、実に不思議であり、神秘的だ。
 あの崩し術[わざ]が現われた瞬間、龍宮拳の独自性を強く実感し、計り知れぬ可能性が、このユニークな武術/心身練磨法に秘められていることを悟った。

 龍宮拳の様々な術について、まったく書き記してないものも多く、やや心残りではあるが、まあ「幻の術[わざ]」ということにしておこうじゃないか。
 中途半端に書くよりも、その方がかえって面白い。

美佳、喜びに満ちた愛を、君へ

一行

2013.10.14(断食 DAY21)
<夕>

 愛する美佳、

 本日でいったん打ち切りと決めたからか、昨日まで尽きることなく湧きあふれていた言葉が、まったく出てこない。

 ただ君への、そして、すべての生命[いのち]への愛と、・・・柔らかな金色[こんじき]の光[エクスタシー]に満たされている。

 大学に入りたての頃だったか、教室でアンケートがあり、その中に「将来、何になりたいですか」という質問があった。
 躊躇[ちゅうちょ]なく、「冒険者」と書き込んだが、そんな風に答えたのは、私1人だったろうね。

 君と一緒にいろんな冒険を楽しんだね。
 巡礼の冒険、愛の冒険、神々の世界の冒険・・・。

美佳、極まりなき愛を、君に捧げる。
愛してる。

一行

付記:
 上記を書き終えたところで、新しい術が現われた。
 正座して(慣れればいかなる姿勢でも行なえる)、両こめかみをはさむように片手の親指と中指で柔らかくヒーリング・タッチする。骨は押さえない。両こめかみの形(関係性)を感じてみると、前後・左右・上下のバランスが崩れているのがわかるだろう。
 そのバランスが崩れた両こめかみの形を、ただあるがままにヒーリング・タッチで感じる。わかりにくければ、片方ずつ、もう一方の手(指)で補助しつつ。
 すると・・・両こめかみが対称となるよう身体が勝手に動き、その結果、首のところからまるでドミノ倒しみたいに、途方もない開放感が全身へと広がっていった。
 これまで詰まっていると感じやすかった箇所、固くなりがちだった箇所、痛みが出やすかった箇所・・・などが、スーッと「通って」ゆくのをハッキリ感じた。
 53年の人生の中でためこんできた余計な重荷がすべて洗い流されてゆくような爽快感。

 これはスゴイ身体調律法だ。習熟すれば他者に対しても行なえるはずだ。

 1度やったくらいではすぐ元に戻る。
 また、ある姿勢で調律しても、動きの中ではまたもや崩れる。

 調律効果が大きいため、少しずつ試すべきだろう。
 全身のバランスを取りながら、龍の台[うてな]や熱鍼器[ねっしんき]なども適宜活用すれば、さらなる効果が期待できる。

 この術[わざ]を、美佳、君に捧げる。
 1人1人が自分自身の「調和」を、まず求めない限り、社会の、人類の、地球の調和は、あり得ない。

1万回の「愛してる」を、君へ

一行

——1万回の「愛してる」を、君へ・終——