Healing Discourse

ドラゴンズ・ボディ [第1回] ワンフィンガー・ゼン

 フォーミュラだ。

[フォーミュラ1]
 指1本を柔らかにふわりと伸ばす。それをさらに伸ばそうとするコマンドを意識化してレット・オフ。

 外見はほとんど変化しない。が、実践者の目(瞳)を観れば、どれくらいできているか、すぐわかる。
 意識状態の変化は、直ちに目に表われる。レット・オフによって意識が内向し、「瞑想」へとシフトした瞬間、まぶたが柔らかく大きく見開かれ、瞳が静止して、波一つ立たない水面のように目が澄み渡る。
 その時には、心もまたシーン!と静まり返っている。真の「静寂」をこれまでに感じた経験が、あなた方にはおありだろうか? 静寂とは音の不在ではない。複雑精妙な響きが中和し合っているゼロポイントのことだ。

 瞳がキョロキョロ動くのは、マインド(思考)がせわしなく動き回っていることを示す。頻繁にまばたきするとしたら、意識の変容を受け入れることができずに内的流れをブツ切りにしている。目が硬く強ばってまばたきしないのは、変化を頑なに拒んでいるのだ。そういう目の持ち主は、心も体も硬い。硬くすれば変わらずにすむ。変わるためには、流れるためには、動くためには、柔らかさが必要だ。
 様々な目の状態が心身にいかなる影響を及ぼすものか、自分でシミュレートしながら研究してみれば、柔らかで力まない目の大切さが自ずから理会できるだろう。そういう目を体現するには、まず粒子状に目を力ませようとしてそのコマンドを感じ取り、レット・オフすればよい。

 フォーミュラに戻ろう。
 この修法は奥が深い。少し習熟すれば、指1本をそっと伸ばしてレット・オフするだけで、直ちに瞑想的意識状態に入れるようになる。
 私は内なる探求の旅路を歩み始めた当初、瞑想のために毎日1時間近く座ることを日課にしていたことがある。時折、何かがうまくいって、静寂に包まれた深遠な内的境地が拓かれた。ごく稀にしか訪れないものだが、それは大いなる祝福のギフトを携えていた。
 それと同質の、ただし過去とは比べ物にならないほど精緻に輝く奥深い世界が、指1本のレット・オフで今は瞬間的に拓かれる。
 指から起こった超微細な波紋が、あっという間に全身に満ち拡がったと思った次の瞬間、それはくるりと(それ自身の内で)向きを転じ、虚数的性質を持つスペースならざるスペースが拓かれ始める。

 弦をつま弾(び)くが如く、指を軽く張ってオフにすることを繰り返せば、そのたびごとに意識はどんどん深まっていく。
 各指によって、オフの質感が異なっていることにあなたが気づくのは、それほど先のことではあるまい。あまりに繊細すぎて私たちの耳ではとらえられない、しかし全身の内的感覚で感じられる「音なき音」が鳴っているのだ。各指によって起こる音の感覚は、それぞれ違う。

 意識とは単一なものではない。千変万化の感触を備えている。
 様々な意識波を心身一如で起こし、それらをダイナミックに統合(クロスオーバー)すれば、骨の髄の奥まで透明に透き通る実感とともに、意識が心身の内奥に収まるように深まっていく。いにしえの中国人が「洗髄」と呼んだのは、こういう境地だったのだろうか・・・。

 指さ(そうと)してレット・オフ。
 私の元に期せずして顕現したこのシンプルな修法を実践していると、時折「一指禅(いっしぜん)」という言葉が浮かんでくるから不思議だ。
 中国河南省少林寺には、かつて一指禅なる修法が存在したと聞く。少林寺は禅と少林武術発祥の地だ。そこでゼンの名を冠して行なわれていたメソッドとは、一体いかなるものだったのだろうか? 静けさの中に、武術的な気迫と限りない繊細さを同時に秘めた、そんな手法だったに違いない。
 この新しい修法は、少林寺の一指禅とは物質次元におけるつながりを何も持たない。が、ゼンの名に恥じないだけの深みが、ここには確かにある。

 この修法の効果をもっと味わいたければ、それを受け取るための「手」をさらに開く必要がある。そのための手順を説明しよう。

[フォーミュラ2]
 正座し、今の自分なりに精一杯のやり方で体を柔らかくしなやかに動かしていく。両手は掌を下にして股(もも)の上に置いておく。この手を粒子状に凝集→レット・オフ。

 まずかしわ手を打ち、下腹、そして腰とヒーリング・タッチで触れ合い、そこをその場所そのもので丁寧に感じる作業から入る。ヒーリング・アーツを練修する時は、いつもここから始めて、最後はここに戻ってくるようにするといい。腰と腹は身体の二大センター(初学ではエリア)であり、それらを礎(いしずえ)とすれば、全身のバランスを取りながら、最も効率的に練修を進めていくことができるからだ。
 それによって、常に満足のいく成果があがるようになることはもちろん、身体の一部が過剰に開かれすぎて後で反動が来るといったマイナス効果を防止することもできる。

 さて、この修法もなかなか面白い。これまでは振っている手を凝集→レット・オフするやり方で練修してきたが、手を動かさない態勢で同様に行なうと、どういう違いがあるだろうか? 
 ちょっとしたバリエーションだろうくらいに軽く考えて行なった人は、かなり驚いただろう。
 本修法によって、普通に私たちが「緩む」と呼んでいる状態と、レット・オフによって体の奥底から柔らかく緩みほどけていく状態との違いを、はっきり識別することができる。
 キラキラと煌(きら)めきながら、粒子のかたまりが粉々に振り砕かれていくにつれ、内的な透明感がより増していく。より柔らかくなっていく。さらに軽やかになる。液体が流れるように全身がしなやかに動き始める。

 再び、手を凝集→レット・オフ。
 片手だけで行なったり、両手をクロスオーバーしたり、同じ手の内でも毎回異なるエリアを中心に凝集→レット・オフするなど、自分自身の創意工夫を加え、ただしヒーリング・アーツの原則から逸脱することなく、自由自在に修法と遊び戯れるのだ。「遊ぶ」という言葉には、元来、神々とのリーラ(聖なる戯れ)という意味があった。沖縄の儀礼では、今でもそういう言葉遣いをするという。

 修法の細部を改めてチェックしてみよう。
 掌を股に強く押しつけて粒子感覚を抑圧していないだろうか? かといって、強ばらせて持ち上げてもダメだ。「柔らかく触れ合う」のだ。触れ合いというあり方(Being)の中に、全身丸ごとで溶け込んでいくのだ。触れ合いの中で寛ぐ。
 手を凝集→レット・オフするたびに、より小さく、より柔らかく、より細やかに・・・。そしてついには、一切の力も思念も加わらない、純粋な意識の方向性(コマンド)のみが揺れ動く状態へと入っていく。
 何かを加えるのではない。積み重ねるのではない。逆に、余計な重さや力みという夾雑物(きょうざつぶつ)を除いていくのだ。すると、限りなく精妙な霊的波紋が湧き出してくるようになる。
 私のいう霊的とは、超越的という意味だ。二元性を越えている。右と左、男と女、光と闇、生と死、過去と未来、原因と結果、こういう相対的な区分けが存在しない。それらが渾然一体となって融け合っている。あらゆる二元性がそこから生み出され、そこへ還っていく。
 だが、いかに言葉を重ねても、この境地を正確に描写することは不可能だ。ゆえに私は、あなた方がそれを自ら体験できるよう、道を指し示している。

 修法に戻る。

[フォーミュラ3]
 どんなことでもいいから、自分が普段していることを普段通りにやりながら、手をそっと凝集→レット・オフしてみる。

 走りながら行なえば、走ることが即<たまふり>となる。あるいは音楽を聴きながら、手を凝集→レット・オフしてみるのもいい。外側の世界に音を求めて意識を拡げていた状態が反転し、今は自分の内部で音が鳴っているだろう。自分が音そのものとなっている。
 何かを見ながら、味わいながら、香りをかぎながら、恋人と触れ合いながら・・・・手をそっと凝集→レット・オフ。・・・・このシンプルなフォーミュラによって、どれほど繊細で豊穰な世界が拓かれ得るものか、自ら実際に行なって体験してみなければ、想像さえできないだろう。
 ほどければほどけるほど、私たちはより鮮烈に、トータル(全面的)に生きられるようになる。この事実を、あなた方は自らの心身で実感し始めていらっしゃるだろうか?

 ヒーリング・アーツのさらなる深奥を極めたいと思うのであれば、まずは自らの心身を、超越的叡知を受け取り、実践するにふさわしい状態へとチューンナップするべく、徹底的な禊祓(みそぎはら)いを行なわねばならない。禊祓いといっても、偏屈な仰々しい要素は、少なくともヒーリング・アーツにおいてはまったくない。そんなものは、私だって願い下げだ。
 この「ドラゴンズ・ボディ」シリーズでは、ヒーリング・アーツ流の禊祓い法をいろいろ伝授していこうと思っている。より深く、より繊細に緩み開かれ、流れることを可能とするための修法であり、龍のようにしなやかな心身を体現する術(わざ)だ。

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 昨日は、温泉郷として有名な湯来(ゆき)町に、妻と2人で蛍狩りに行ってきた。
 実は、好きこのんで温泉に入りたがる人間の心理が、きのうまで私にはさっぱり理会できなかった。家の風呂に入るのと大して違いはないではないか。
 昨日、行きつけの旅館・河鹿荘で露天風呂に入りながら、ふと思いついてヒーリング・アーツをやってみることにした。自分の前腕にヒーリング・タッチし、手を凝集→レット・オフしてみる。・・・・・・と、粒子状に開かれた身体に、温泉の熱がしみ込んでくる! 粒子的な温かさの感覚が身体内に拡がっていくのが、ハッキリわかるではないか。
 面白くなってきて、すぐそばを流れる渓流の轟々たる響きを全身で感じつつ、体のあちこちを凝集→レット・オフしていった。
 湯の中でゆらりゆらりと揺れながら、手を粒子状に凝集→レット・オフ・・・・・・中の骨がバラリとほどかれるように手が緩む。粒子状に緩んだところに、粒子状に熱(温かさ)がしみ込んでくる。それと共に全身が蕩(とろ)けていって、極楽世界に浮かんでいるかのようだ。
 さらにヒーリング・ストレッチを試したところ・・・体の内部を、温かい流れが柔らかく移動していった。生命の実感を伴った生ける流動だ。私の心身は直ちに、活発なたまふり状態に入っていった。
 温泉の楽しさを、こうして私は初めて理会した。こういう境地、あるいはその一端を、人々は温泉で味わっているのに違いない。開放的雰囲気によって自然にレット・オフが起こるのだろう。
 ヒーリング・アーツをクロスオーバーすれば、温泉の楽しさを確実に、最大限に引き出すことができる。これまで想像したこともなかったような深(ディープ)さで、温泉の効果を感じることができるはずだ。

 先ほど、家の風呂に入りながら同じことをやってみた。まあ悪くはなかったが、たまふりの度合いにはっきりした違いがあった。やはり、「家の風呂とは違う」ということだろう。
 どこかの温泉でヒーリング・アーツの相承会を執り行なうのも面白そうだ。機会があれば試してみよう。

<2007.07.09>