Healing Discourse

グノーティ・セアウトン [第3回] 主観と客観のすれ違い

 私はあなた方のショックをできるだけ和らげるべく、ゆっくり・・・とてもゆっくり進んでいる。

 掌を下にした左手首を、右手の親指と人さし指で上から柔らかくはさむ。そして、目を閉じて手首の角度を感じてみる。

 大体感じがつかめたなら、目を開けて確認してみよう。
 ・・・・・・・??????!!!!!!!!?!?!?!?!?!?
 驚いただろう。それが「身体の仮想」だ。目を閉じて確かに感じていたはずの角度は、実際と比べると大きく傾いていたはずだ。位置さえ違っていたろう。違うどころの話じゃない。意識的には、存在の次元そのものが異なっている。肉体方面から記述するなら、脳の中で構築される触覚体験が、神経ネットワークの歪みによって生じるノイズのためにデフォルメされてしまっている。

 前回、手首は前腕を直角に横断しているわけではないことを学んだ。手首は斜めであるという事実を、自らの身体で確かめた。
 にも関わらず、ちょっと掌の向きを変えただけで、仮想の手首が直ちに戻ってくる。この仮想は一朝一夕で消え失せてしまうような安易なものではない。なぜならそれは、文字通り我々の「思い込み」にほかならないからだ。

 私たちは、手首は(前腕に対して)真横に折れるものと、誰もが同じように「思い込んで」いる。毎日すぐ目の前で見ているのに、誰一人として「ちょっとおかしいんじゃないか?」と言い出さない。
 上記の修法(しゅうほう)を何度も繰り返し練修した人は、手首は斜めであるという目前の事実に対して、頭の中であらがおうとしている抵抗感や、手首に触れている指が無意識のうちに手首を真横にしようとする微妙な動きなどに気づかれたかもしれない。私たちの「思い込み」は明確な自己防衛本能を備えていて、機会あるごとに私たちの意識を曇らせて目を真実から逸らさせ、そこに接近しようとする私たちの努力をあらゆるやり方で妨害しようとする。

 手首に注意を戻そう。
 前回学んだように、触れ合っている箇所を触覚で感じようとする。頭から眺めるのではなく、触れ合っている場所そのものと一体化して、「感じる」のだ。1箇所ずつ丁寧に行ない、しかる後に両者をクロスオーバーさせる段階に入る。
 いきなりクロスオーバーを成功させることは難しい。クロスオーバーとは、2つの異なる箇所の意識(感覚)を正しい配分で相互作用させ合うことにより、まったく新たな種類の意識を産み出す錬金術的プロセスだ。
 この場合、まずは手首の一方(A)を100%しっかり意識し(感じ)、そこに10%の意識を残しておいて、もう一方(B)に90%の意識を移すことから始めてみる。90%が10%を振り返る。AがBを見送る。次はBに20%残して70%を元に戻す(Aは80%になる)など、足したり引いたり、また元に戻したりを繰り返しつつ、徐々に両者がフィフティ・フィフティとなる地点を目指していく。
 AとBを両方同時に意識するとは、離れた地点から両者を客観的に眺めるという意味ではない。ABそれぞれを、同時に主観的に感じるのだ。これが「ヒーリング・バランス」の術(アート)だ。

 両者のバランスを取るためには、2つに向かって同時にジャンプする。それには、ちょっとした勇気がいる。この時は、突然自分の足元が消えうせてしまうような感じがする。引き裂かれてしまいそうだ。飛んでしまったら、自分という人間がなくなってしまうのではないか・・・そんな何とも言えない頼りなさ、不安感を覚える。
 AにせよBにせよ、自分はこれまで常にどちらかに属していた。どちらかの側にいることだけは確かだった。他方を意識するとしても、それはあくまで、一方を基盤にした上でのことだった。
 しかし今や、自分と相手という対立はない。自分はAとBのどちらでもある。そして同時にAでもBでもない。

 主体的意識が異なった位置を同時に占める時、「静かで透明な」爆発が起こる。意識の量子的跳躍が起こる。艶めかしいほどのリアリティを備えた手首の<無形の形>が空間に出現し始める。
 今、ごく一部とはいえ、あなたの心があなたの体と出会っている。あなたの体があなたの心と出会っている。
 心身統合とは、特別な修業によって達成される非日常的な状態などでは、本来ない。心と体が分離していることこそ、そもそも不自然な状態であって、その不自然を自然と思い込んでいる事実に気づきさえすれば、真実は自ずから顕(あら)われる。
 思いきって新しい意識世界へと飛び込む以外に、真実の我と出会う方法はない。自らを知るためには、ジャンプするしかない。難しいことは何もない。ただ、両者の触覚を各々の場所そのもので感じている状態を、同時に、均等に、意識するのだ。テクニック的にはそれほど難しくないが、ちょっとした度胸と信頼は必要だ。

 クロスオーバーのやり方を、もう一度、今度は少し別の角度から、説明しよう。
 クロスオーバーに備えて2つの地点間を行き来する際は、常にどちらか一方に主体(見る者という感覚)があって、もう一方を客体(他者)として感じている。これは、どちらかに常に50%以上の意識があることを示している。50%を超える時、そこに「主体」、「自分」という感覚が生じるのだ。
 両者を50%ずつにした時、両方に主体があって、お互い同時に相手を意識し、相手から意識されている。・・・・・と、クオンタム・リープ(量子的跳躍)が起こる。生命の力が爆発する。
 それが<たまふり>だ! ヒーリングだ!
 
 さて、ヒーリング・タッチによって「手首」が現われたなら、次は手首から手へと、感覚と心を拡げていってみよう。触手を伸ばすようにして、手首に最も近い部分から指先へと、順次感じ取っていく。
 その前に、「手首」をより正確に把握しておくことが必要だろう。これまで尺骨及び橈骨の茎状突起と触れ合うことを便宜上行なってきた。が、それは厳密には「手首」ではない。
 前回ご紹介した写真で、手首周辺の骨格構造を丁寧に確かめた人はすでに理会されていると思うが、手の骨は橈骨のみと関節をなしているのだ。
 それが真の手首だ。にもかかわらず、多くの人は手の骨が尺骨ともつながっていると仮想しているのではないだろうか? 

 この事実を「自分の体で」理会した時、まるで手かせが取り払われたような大いなる解放感が全身で感じられる。人を拘束するため両手首を縄で縛ったり、手錠をかけることには意味があるのだ。
 古武道や合気道の師範、プロの整体師・療術家などでも、手首が仮想になったままの人は意外と多い。そういう人たちは「手」を通して真剣な修練を長年積み重ねてきているから、仮想身体に気づいた時のショックも大きいが、喜びもまたひとしおだ。感激のあまり泣き出す人もいる。

 厳密にいえば手首とは、扉の蝶番のように直線的に折れ曲がるものではない。だが今は、橈骨と手の間の角度に着目して論を進めていく。
 手首を正確に感じるために、今度は掌側と甲側から手首(橈骨と手の間)を指ではさむようにヒーリング・タッチし、触れ合っている感触をクロスオーバーして、指の間の空間を感じてみる。
 手首そのものとなり、その手首から真の手があるべきおおよその正しい方向を意識した途端、手首から溢れ出た透明な流れが、これが自分の手とは思いもつかないような場所に、思いもつかない角度で、思いがけない流動感覚とともに、「手」の形ならざる形を空間に形作っていく。
 それに伴い、手が物理的にみるみる形を換えていく。パーツは同じで組み立て方も基本的に同じなのだが、全体のメリハリ、つまり緊張と弛緩のバランスがまったく変わってくる。
 手が土台(骨)から新たに組み直されていく。あなたはもう覚えていないだろうが、幼少の頃のようなしなやかで流動的な手が戻ってくる。もちろん、かつての無垢な手そのままではなく、経験を積み、傷つき、ゆがみねじくれた末に、ようやく緩み開かれた手だ。
 そういう手には優美さと威厳が備わっている。そんな手のみが、真のいやしの力を発揮することができる。
 ところで、私がしばしば使っている「流れ」とは、「何となくそういう気がする」とか「気のせい」、「気の迷い」などと世間一般でいう時の「気」、またはそれに準じる曖昧模糊としたものとはまったく異なるので、ご注意いただきたい。
 あまりにもリアルで生々しく感じるので、初めて体験する人の多くが思わず驚きの声を上げる。体の中を軽やかな液体が流れるみたいに感じる。その流れに体が持っていかれるような感覚とともに、身体が自然に動き出す人も多い。

 練修を重ね、上記のような状態の中で、少なくとも短時間なら落ち着くことができるようになったら、手を元のように前腕全体から真っ直ぐ生えているものと「仮想しようとして」みるといい。
 粒子レベルでさえ、嫌らしいゴリゴリした軋轢(あつれき)が手や手首、腕全体に起こってくる。体全体が固くなり始める。実際に真っ直ぐにしてしまったら大変だ。さっきまであれほど生き生きとしていた流れが、どんより曇って停滞してしまう。やがて、指に鈍い重さを感じ始めるだろう。
 ・・・・・・・・・帰ってくるといい。
 手を真っ直ぐにしようとする(不自然な)コマンドを再確認し、つまり病をわずかに重くして、そしてレット・オフするのだ。
 スーッと、まるで故郷に帰るみたいな、あるいは納まるべきところに納まったという感覚とともに、再び生き生きとしたリアルな手が顕われてくる。戻ってきてみれば、これほど自然で当たり前の状態は他にあり得ないことが、生理的に直ちに理会できるだろう。つい先ほどまでの仮想状態がひどく不自然なものであったことが納得できるだろう。
 しかし、そういう理会はいつも仮想が正された後で初めて訪れる。それ以前にはものごとの真実が見えない。感じられない。意識的に仮想の中に入ったり出たりを繰り返すことによってのみ、仮想世界の構造が少しずつ理会できるようになってくる。

 手を意図的に斜めにすると、外見上、自然な手と似ているように見えるが、本質的にまったく異なるものなので注意が必要だ。(マインドが)わざと手を曲げる時には、まず指先に力が入る。そんなやり方では、仮想の上にさらに仮想を積み上げることになる。真の手首から真の手が現われる際は、手首側から指へと向かう流れが起きる。
 手首の仮想状態が長く続きすぎると、さしも頑丈な我々の体もついにほころび始め、関節炎やリウマチなど諸種の病を発症するに至る。私は実験として、数週間~数ヶ月間わざと手首を仮想状態にして生活することで、それを確かめてきた。

 私はかつて、自らの仮想身体について理会し始めた時、電撃に打たれたような衝撃を受けるとともに、これは果たして自分だけが陥っている個人的な状態なのか、それとも他の人も似たような状況に置かれているのか、それを切実に知りたいと思った。
 ヒーリング・タッチを使っていろいろな人で確かめたところ、驚くべきことに、少なくとも私が調べた限りでは、誰もが皆一様に手は前腕から真っ直ぐ生えているものと仮想していたのだ。
 個人の仮想身体は社会的合意に基づいており、同時に個人の仮想身体が社会的合意を強化する。手首の仮想という<病>が、社会・・・もしかすると文明レベルで、広く人々の間に蔓延していることは、鞄(かばん)やトランク等の把手(とって)を観ればわかる。
 ほとんどの把手が、手首が前腕と直角であるという前提に基づいて作られている。腕から真っ直ぐにぶら下げて持つ構造になっている。仮想の手首に基づいてデザインされた鞄を使えば、仮想がどんどん強化されていく。身体の自然な構造に則ったヒーリング・デザインへと変更することは、それほど難しいことではないはずだ。

 アーティストや職人ならずとも、私たちは日々の生活の中で手を使わないことの方がむしろ少ないのではなかろうか? 周知の通り、「手」は私たちをヒトたらしめている最大の要素の1つだ。手は全身と連動し、全身の状態が端的に手に表われる。
 あらゆる人にとって、自分の本来の手を取り戻すことが、まず何をおいても最優先の課題だ。いかに優れた技術を学び、修練しようとも、術(わざ)というソフトウェアをインストールするべきハードウエア(手)が仮想状態に置かれている限り、身につくものなど高が知れているではないか。
 手の仮想をほどけば、その手を使って全身各部の仮想を発見し、自然な状態へと戻していくことができるようになる。
 手は私たちの体の中で最も敏感な部位の1つであり、最も操作しやすい箇所でもある。だから、手をほどくこと(手ほどき)から始め、熟達後も常に手に戻ってくることだ。
 私は今でも、自分の手から多くのことを教わり続けている。

<2007.06.06 芒種(ぼうしゅ)>