Healing Discourse

グノーティ・セアウトン [第9回] 腹と腰

 寛ぐことを拒絶して、岩のように頑なに強ばった箇所が、私たちの身体には数えきれないほど存在する。深浅大小、様々だ。
 それらはすべて、私たちの行ない(Doing)に端を発している。私たち自身が、それらの凝りを作り出したのだ。頭で考えて何らかの動作をすると、必ずブロック(凝り)が発生する。なぜなら、頭は自分(頭)自身を中心として物事を判断し、計画し、指示を出すからだ。だが頭は人体の中心部では、明らかにない。

 女性の子宮がなぜその位置にあるかといえば、そこが胎児にとっても母親にとっても、最も安全で効率的な場所だからだ。母親は、自らの身体の中心に胎児を包み抱えることによって、妊娠中の行動を最もスムーズにすることができる。身体の物理的中心点から遠い場所に子宮があったなら、妊娠している女性たちはちょっとした軽い運動でさえ大変な重労働と感じるに違いない。

 ブロックの別名を「カルマ」という。カルマとは、作為的な行ない、すること、Doingの産物だ。ゆえにブッダは、あらゆる行ないへの執着から手を離し(レット・オフ)、Beingの裡へと入る道を説いた。それによって人は苦しみから解放されると教えた。
「(しようと)する」コマンドを細やかな粒子レベルで感じ取り、それを強調してからレット・オフすれば、巻き取り感覚の中から、まったく新たな「なされること」が起こってくる。
 その時、行なう者はいない。ただ「それ」だけが、そこにある。この内発的・自律的な動きの中で、作為的行動によって生じたブロックが柔らかく溶け始める。
 これがヒーリングだ。それは、よりトータル(全体的)になっていくプロセスだ。そのプロセスの一瞬一瞬が、健康感や解放(開放)感、静謐さ、バランス感覚によって彩られている。

 フォーミュラだ。

[フォーミュラ1]
 ヒーリング・タッチにて、腹を腹そのもので感じよ。同じく、腰を腰そのもので感じよ。
 日常生活のあらゆる体勢において執り行ない、生活そのものを禊祓っていく。

 手を振りほどく修法から入り(もちろん手首の真の角度に注意しつつ)、かしわ手を打って手の粒子感覚を活性化させる。試しに、手に凝集のコマンドを発してから、それをレット・オフしてみる。粒子的拡散感覚が、手から腕、さらには全身へと拡がっていったろうか?
 その手をそっと腹に直接密着させ、柔らかになでさすりながら移動させつつ、腹を腹そのもので感じていく。最初は下腹に範囲を絞って取り組むとよいだろう。
 性器から恥骨を経て下腹へと移動していくとわかりやすい。まずは、下腹の中央部、腹直筋があるあたりを感じてみよう。その位置はどこだ? 角度はどうなっている? 時には掌と下腹とが触れ合っている箇所を観て、視覚と触覚を重ね合わせていく。

 最初から腹そのものを感じるのが難しければ、まず触れている手の方を意識する(感じる)ことから始める。手の意識(覚醒度)が高まっていくと、火が燃え移るように、あるいは鏡に映るように、腹の意識がパッと目覚める。
 この修法を初めて執り行なう人は、そこにあるがままのリアルな下腹の位置・角度を、下腹そのもので感じるというタッタそれだけのことが、かくも難事であるという事実に驚きを禁じ得ないことだろう。
 あなた方の現在のヒーリング・タッチの力量では、この修法によって拓かれる境地を充分に味わい尽くすことはできないかもしれない。しかしあなたが、「自分はどうやらとんでもない状況に陥っているらしいぞ」と、薄々でも気づくことができたなら、私のこれまでの努力は充分報われたことになる。

 長年に渡って丹田を探求し続けた結果として、「丹田なんて本当に実在するのか?」という深刻な懐疑に陥った人たちと、私はこれまで何度も出会ったことがある。
 私が相手の下っ腹とヒーリング・タッチでそっと触れ合えば、直ちに劇的な変化が起こる。ぶっちがいにクロスしていた仮想の腹とマコトの腹とが重なる時、頼もしい力強い緊張がキューッと下腹にこもってくる。
 それに伴い、自分の全存在感が変わる。姿勢も変わる。表面的ポーズ(姿態)が変わるのではない。身体内部のバランス関係が根本的に変容するのだ。
「理会」が自ずから起こって、たいていの人は大笑いし始める。・・・そもそもハラの自覚がないというのに、自分は一生懸命ハラを錬ろうとしていた。ハラの位置と角度さえ正確に把握していないのに、やれ丹田だ、腹式呼吸だと騒ぎ立てていた。
 彼らの笑いの中には、様々な要素が複雑に絡み合っている。「触れ合いによる認識」というシンプルにして明快な解答に対する驚き、長い歳月(中には数十年以上に渡って熱心に丹田の鍛練を続けてきた人もいる!)を無駄に費やしてきたことへの悔恨と自らに対する嘲り、そして「だが一生知らないままでいるよりは、今こうして理会できたのは何とありがたいことか!」という感謝と新たな希望・・・。

 下腹が意識化された状態にシフトすると、これまでより明らかに強い力が出せるようになる。2~3ヶ月ほど前のことだったか、下腹を充分意識化した体勢で壁に肩をそっと当て、足を軽く踏ん張ると、木造二階建ての自宅全体に力があまねく行き渡っていくのがはっきりした手応えとして感じられると同時に、家がきしむ音がして、壁の位置が少し移動した。
 妻に腹力の何たるかを示すために行なったのだが、もう少し力を入れれば、家の枠組みそのものが変形し始めただろう。わが家にはそういう「粗相」の跡が何箇所か残っている。手を密着させた状態で瞬間的な力を加えれば、抵抗感なしに壁にスポッと穴が打ち抜けることもある。
 さすがの私も、自分の家を自分で壊すのはあまりに馬鹿らしいから、それ以上の力を試したことはない。それに私は、怪力よりも繊細で柔らかな力の使い方に関心がある。壊すのなんて大した術(わざ)じゃない。活かすことこそ、困難でありながら、なおかつチャレンジしがいのある道だ。

 下腹の意識が洗練されてくると、それは徐々に範囲を狭めていき、ついには1点へと集約する。それを古人は丹田と呼んだ。
 丹田の位置には諸説あって一定しないが、私自身のこれまでの観察によれば、丹田の位置には個人差があるようだ。ヒーリング・アーツでは臍下のある1点を丹田と定義しているが、初心者にとってはそんな小さなものはなきに等しいから、臍と恥骨の間の広いエリアで最初のうちは構わない。それだけでも、思いもかけなかったような素晴らしい効果をあげていくことができる。

 丹田とは、要するに身体の自己調整・自己修復機能を発動させるためのボタンの1つだ。だから、どんなことでもいい・・・歯を磨くのでも、デスクワークでも、武術の練修でも、絵筆をとってキャンバスに向かい合っていても、あるいはセックスするのでも・・・・下腹と触れ合ってそこを意識化すれば、行為の質と量が直ちに変わる。
 ハラの意識化を土台に据えれば、生きていくことのあらゆる場面が即ヒーリングとなる。それが「生活そのものを禊祓う」というフォーミュラが意味するものだ。

 同様にして、腰ともヒーリング・タッチで触れ合っていく。臍の後ろあたりの、腰が自然に反っているあたりを目印にするとよい。丹田同様、広いエリアから働きかけていけば、熟達に従って自然に焦点が現われてくる。
 この腰の中心点とは、東洋医学の「命門(めいもん)」のツボに合致するものと私は考えている。命門は、第2・第3腰椎の間(を目印とする皮膚面上)にあるとする説が現在では一般的なようだ。が、そこをヒーリング・タッチで活性化させても、「命の門」という名にふさわしいほどの変化を私は特に感じない。それに私は姿勢(骨格構造)を変えて、臍の裏にあたる位置を腰椎全体の上から下まで、自在に変化させることができる。この場合、いかなる基準をもって臍の裏を決定すればよいのか?

 私の経験によれば、ツボの名称にはすべて意味がある。例えば掌の中心にある「労宮」は、「ねぎらい・いたわりの神聖なみたまや」という名が示す通り、ストレス(苦労)が凝りとなって現われる場所だが、そこをヒーリング・タッチで意識化すれば、直ちに胸の中がふわりと柔らかく溶け拡がっていき、深い深い安堵感が得られる。まさに労(ねぎら)いと労(いたわ)りのポイントだ。

 腰の中心が覚醒すると、自然に腰が「入る」(ということは、それまで腰が抜けていたわけだ)。それによって背骨が自然に無理なくスックと立つ。
 腰は自然に反るが、私たちが「腰を反らせよう」として造った姿勢とは、形も力の入り方もまったく異なっている。どこにも無理がない。楽である。いかなる動作にも、全身すべてが総動員で関わるようになる。
 外側から見ても、内的実感においても、「威風堂々」という言葉が最もしっくり来る体勢となる。それと比較すると、これまでは随分「屈していた」ものだと感じるだろう。それもおそらくは、「卑」しく「屈」していたのではないか? 腰の力が抜け、前方の空間に意識が投げ出された状態を、私は卑屈と呼ぶ。仰臥し、頭でリズムを取りつつ上半身を起こしたり倒したりすることを繰り返すいわゆる腹筋運動は、この意味で卑屈増長法といえるだろう。

 動き回りながら腰を意識化すると、動作の質が直ちに変容して軽霊自在な動きが顕われてくる。腰は動作の中枢であり、速度と関係しているのだ。
 そしてこの動きとは、単に手や足を動かすことばかりでなく、身体内のあらゆる生命活動(呼吸や血流、内臓の働き)をすべて含んでいる。ゆえに「命門」の名は、腰の中心にこそ最もふさわしいと私は強く感じる。
 理屈はさておき、腰をヒーリング・タッチで覚醒させれば、たちまち全心身が活き活きしてくる。あらゆる箇所が、正しい場所に収まって過不足なく働いているという実感が生じる。
 楽だ。楽しい。
 姿勢を作為的に変えたり、腹に力を入れたりといった「すること(Doing)」は、まったく関わっていない。ただ触れ合い、感じているだけだ。

 腰から独立した腹、腹と無関係な腰などというものは、元来あり得ない。両者は常に分かちがたく連動し合っている。
 下腹を意識化する時、必ず腰が反って緊張する。腰を意識化すれば、臍下を中心とする強い緊張が自ずから腹に生じる。
 腰は活動と関わり、腹は休息・静止に関連する。
 腰と腹の意識をクロスオーバーすれば、私たちの想像を絶する現象が起こる。が、腰腹(ようふく)を同時に均等に意識化して、腰と腹の間(ま)を覚醒させるには、少しばかり時間がかかる。独習ともなれば、特にそうだ。だからあまりに欲張るのはやめて、まずは腹と腰に交互に働きかけていくことから始めよう。

 * * * * * * *

 原初の人類がいかなる存在であったか、個体発生が系統発生を繰り返すという原理を少し敷延(ふえん)すれば、小さな子供の中に、我々のはるか大昔の祖先を特徴づけたものに関するいくばくかの洞察を見出せるかもしれない。
 子供たちは、ひっきりなしに問い続けている。・・・・これはなに? あれはなに?・・・・・おそらく原始人類たちも、他の動物と比較すると異常なほどの、飽くなき好奇心の持ち主だったのではないか? 
 現代の親たちは子供の途切れることのない質問に対して、ただ名前を与えることをもって答えようとしている。「あれはなに?・・・電車だよ」、「これはなに?・・・靴よ」。
 しかし原初の人類はまったく違っていたろう。彼らは子供に、自分自身で触れ合うことを促したはずだ。体で触れ合えないものとは、心を使って触れ合うことを教えただろう。
 彼女/彼らは、成人になっても問い続けることをやめなかったに違いない。驚きの目を瞠(みは)りながら外側の世界へと探検の足を伸ばしていくと同時に(そして均等に)、自らの身体のすみずみまでくまなく触れ合い、自分自身を通じて宇宙を知るための作業に没頭したことだろう。私たちがちょうど今やっているみたいに・・・。

 この回、最後のフォーミュラだ。

[フォーミュラ2]
 汝の探求の矛先を、汝自身の生ける身体へと、レット・オフを使って向け換えよ。汝自らに問うことを思い出せ!

 1日放置すれば、仮想はその分強化される。だから、自らの身体を意識化していく作業は、1日でも早く着手した方がよい。
 何らかの特殊なことを「する」のであれば、結果としてそれが有害であった、ということも起こり得る。他の道を歩んでいる人には無効という可能性もある。
 だが、これは「(頭で考えて)する」ことには一切関わっていない。意識的な触れ合いを通じて、自分自身と出会い、知り合っていくプロセスについて、私は語っている。
 それこそが真の「自分探し」だ。自らの身体を放置したままで、一体どこに自分を探そうというのか?

——グノーティ・セアウトン 終——

<2007.07.06>