Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第1章 通身是手眼 〜井上仲子(筋骨矯正術)〜 第1章 第8回 「直」へのオマージュ

 仲子70歳の頃に撮られた写真だ。観の目で向かい合ってみよう。

 突き通すように鋭い眼光。そして、意志が強そうな、キリッと締まった唇。
 老いも若きも、彼女を母のように慕ったという。何か大いなる、まるで大地そのもののエッセンスの如き圧倒的な慈愛の感覚・・・女神的なるもの・・・を、おそらく人々は仲子のタッチを通じて直・感(ダイレクトに感応)し、鑽仰の気持ちを抱かずにはいられなかったのだろう。
 彼女の手にも注目したい。手相(手の動きによってできる皺)に沿って、内にそっと指が柔らかくまとめられている。天命に帰依し、惟神(かんながら)の道に生きる人のみが、こういう手を自ずから体現する。

 70歳を超えてなお、意気壮者をしのぐものがあったといい、例によって日曜以外は毎日、夜明け前から深夜まで、治療に没頭していた。
 患者の半数近くは無料施術。僧侶に対しても無償だったから、いつもたくさんの雲水たちが井上家に出入りしていたそうだ。相当な収入があったが、そのほとんどを寺社や慈善団体等に寄付してしまうので、家の経済状態は常に逼迫していたという。
 その頃の仲子を知る人々が、次のように書き記している。

「仲子先生は至誠の方でありました。天性非凡な方が至誠をもって熱心に治療をされるのですから、それが人間離れするのは当然のことです」(小沼奈美・教育家)
「刀自はこの治療に対して、強い信念を持っておられた。そして、その信念は体験と信仰に基礎づけられたもので、いかなる難病も治ると固く信じてかかられたようです。この信念に患者は心打たれ、治ることを信じてお任せするに至るのであって、私も始めより何らの疑惑を抱かず、安心して治療を願った一人です。・・・(中略)・・・
 謙遜の人、信念の人、意志の人、義の人、仲子刀自の生涯には、隠れたる善行、美徳のたくさんにあったことと思います」(田中都吉・特命全権大使)
「その親切なること、あたかも菩薩の如く、その慈愛の深きや慈母の子を愛するに似たり。それに反して、この療法を施すに至っては、これまた鬼の如き気風を現わし、身体姿勢の用い方に当たっては、特に厳密に教示し、もしその指揮に従わざる者は直ちに謝絶するの有り様で、老衲の如きもこの叱責を受けしことは、今なお耳底に存せるを覚ゆ」(岩田佛眼・圓蔵寺住職)
「患者に対してもなかなか厳しく、控室で待っている時でもその姿勢に注意されて、曲がった姿勢をしていることは許されませんでした。もし、横座りでもして新聞を見ていようものなら、『○○さん、その姿勢は何ですか。あなたは毎日ここへ何をしに来られますか』と注意されるのです。ですから、皆平素の姿勢にも注意するようになり、したがってお治療の効果も一層著しくなるのでした」(岡田久次郎・商店主)

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「直」の一文字が大好きだったという井上仲子に、オマージュとして、「直」を主題(テーマ)とするヒーリング修法を捧げ、読者の皆さんと共に、奉納の気持ちをもって実修してみたい。

「真っ直ぐにする」という意図を抜きにして、腰を反らせたり丹田に力を込めたりしてはいけないと、前回伸べた。
 さもないと、必ず歪む(腰だけでなく全身が反ってしまう)。
 ごく常識的なことと思うが、正しい姿勢を探求する人々の多くにあって、等閑に付されている事柄ではなかろうか? 姿勢術の一大権威・肥田春充も、「皆、上体(みぞおちから上)が後ろに反り過ぎている」と嘆いていたそうだ。

「真っ直ぐ」とは、そもそもいかなる内的感覚を指すのだろう? 例えば、壁に絵をかける時、それが真っ直ぐかどうか、私たちは何をもって判断しているのだろうか?
 直角とか平行とか、そういう客観的定義に関わることでなく、パッと観て、真っ直ぐか傾いているかを直ちに「感じる」主観的バランス感覚について、私はあなた方に問いかけている。
 
 人とは、天と地をつなぐものだ。天、人、地の3つの要素をまとめて、古代中国のタオイストたちは<三才>と呼んだ。彼女/彼らにとって、三才のバランスが常に完全に取れていることこそ、生(ライフ)の究極の目標にほかならなかった。
 人間にとって三才(天・人・地)とは、身体内を天地に貫くスジ(ライン)、すなわち人体の中心線のことだ。キリストが、「(細く狭い)神の国へと到る道」と言ったものだ。
 
 身体内に真っ直ぐ柱を通すためのフォーミュラは、以下の通り。
 
[フォーミュラ]
 真っ直ぐ立っている直線と向かい合う。目の高さに視点を定め、外側の姿勢を一切変えることなく、上や下へと意識を移していく。

 これは、「プロローグ」や「幕間1」で説いたメドゥーサ修法の応用的一法だ。レベル2〜4へと、段階的に修練を進めていく。
 今回は、準備練修を中心に説明しよう。その後の応用展開については、いくつかのヒントのみ記しておく。
 壁の隅とか、柱の角などを活用すれば、日常生活の中でいつでも実践する機会がある。地面(床)から真っ直ぐ立つ垂直線は、周囲を見渡せばいくらでも見つけられるだろう。
 最初に、選んだ直線とくっつかんばかりに向かい合って立ち、自分の両目の間(ナジオン:『ボルネオ巡礼:2009』で詳述)の高さに印をつける(シールなどを貼ればよい)。そして、数歩下がる。以上、準備姿勢。
 外側の姿勢を一切変えず、ただ眼球のみをゆっくり動かして、印の上下へと視点を移していく。視点を粒子的に移動させることがコツだ。
 身体内を真っ直ぐに上下する大まかな流れが、少しずつ感じられるようになるだろう。と同時に、通りが悪い箇所、曲がっている箇所も、だんだん明らかになってくるはずだ。

 上記の準備練修に充分慣れてきたら、水平(量的)・垂直(質的)両次元での様々なヴァリエーションを試み、修法の多層的熟成を図る。いくつかの応用例を簡潔にご紹介すると、

●部屋で行なっている時など、床からさらに下、天上からさらに上へと、垂直線をそのまま延長して観ようとする。
●右目と左目を均等に使う。
●目の高さから、同時に上と下を観ようとするのも面白い。意識がパッと天地に割れる。
●多くの人は、体の感覚や力の入り方が左右で随分違っていることを、初めてありありと自覚するようになるだろう。その偏差を正すにはどうすればいいか? いろいろな態勢(腰を落とす、左または右を向く、立ち方を変える、など)で、外側の垂直線を「観る」ことで、体内の「柱」がどんどん真っ直ぐに整えられていく。
●視線を上下させつつ、視点への凝視をレット・オフ。
●次は、眼球(視点)を一切動かすことなく、視界の中で意識のみを垂直に移動させる。上へ、下へ、あるいは上下に開き、または上下から閉じる。方向性の反転は、レット・オフによって引き起こす。
●例えば、椅子に座った態勢で、上体を反らせ、背もたれにもたれかかる。その際にも、全身の中心線そのものは一切傾かない。全身あらゆる場所に、中心線と平行に真っ直ぐの線(床と垂直の線)が通っている。これを古神道では「直霊(ナホヒ)」といい、禊祓いの基本とされる。ナホヒとは、『古事記』が語るところによれば、伊弉諾尊(イザナキノミコト)の禊によって産み出された神だ。この直霊を全身に普(あまね)く受け容れ、通すためには、どういう工夫をすればよいか? 
●真っ直ぐ立てた棒に円筒を通し、それを手に持って上下に振る。それによって起こる波紋を、全身各所に響き合わせていくのも面白い。様々な態勢(寝たポーズも含む)で修する。

 これらが一通りできるようになったら、次の課題は、「身体内のどこで天地(上下)を分け、天地を結ぶか」、ということになるだろう。「観ることの根本中心点とはどこか?」と言い換えてもいい。
 三才の感覚が身体内で判然としてくるに従い、人体の物理的重心部が、腰と腹の間あたりに自覚され始める。「そこ」が、天と地が別れ、出会う場だ。天と地のセックス(天地交媾)が起こる所だ。

 この心身の最根本たる中心部を目覚めさせることは、ヒーリング・アーツ上級者にとっても些か難しい。そこで、まずは腹の焦点(力が集約する場所=丹田)を探求していくことをお勧めする。
 仲子も、臍下丹田を重視していた。下腹のあたりを撫でながら、よく次のように言っていたそうだ。
「ここが大事ですぞ。昔は腹が出来ているとか胸の広い人じゃとか言うていましたが、この頃ではあの人は頭がいいというて褒める。この次はどこへ昇っていきますじゃ。この腹が大切ですぞ、ここへ力を入れておいでなされ」、と。

<2009.10.09 鴻雁来(こうがんきたる)>