Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第2章 超越へのジャンプ 〜田中守平(太霊道)〜 第3回 艱風難雨

 守平が小学校助教員となった明治33年、清国で義和団の変が勃発。
 風雲急を告げる東アジア。英雄たちのための舞台が用意されつつあることを、燃え上がる雄志を抱く守平は、鋭敏に感じ取っていたことだろう。世界一統の使命へと駆り立てる力動[ドライヴ]を、胸の裡の喜ばしき高鳴りとして、しばしば感じたはずだ。
 そうした、人知を超えた意図の如きものにせき立てられ、彼は幾度も自問と自答を繰り返す。
 ・・・・この大事な時に、自分はこんなところで一体、何をグズグズやっているのか?
 ここは自分がいるべき場所ではない。
 もっと大きな世界で、心と体を鍛えたい。
 人生を、そして世界を、遠く深く徹観する叡知を身につけたい。
 そして社会国家のため、一身一命を捧げ尽くしたい。
 ・・・青春の苦悩と焦り・・・。
 ついに守平は、わずか数ヶ月で教職をなげうった。そして家出同然にして、飄然、東都遊学の途[みち]にのぼったのである。

 彼は、ひたすら両親の健在と家運の隆盛とを祈りつつ、故郷の山川に別れを告げ、多治見町より汽車に投じた。この時、生まれて初めて汽笛の音を聴き、一種異様の感に撃たれたという。
 後年の守平は、当時を述懐していわく、
「いよいよ今十余時間も経たば、困ったも困らぬもなし、新橋へは着きぬべし。東京へ着きたるその上は、まずいかにして勉学の端緒[いとぐち]を開かんかということの、差し当たりわが胸を騒がすなり」
 故郷の空は、刻一刻、遠ざかる。
「我に二本の健脚と二本の鉄腕あり。幼弱ながら、この健脚とこの鉄腕とを働かせなば、よもわれ独りの生活くらい、出来得ぬことあらざるべし」
「いかに困難あればとて、恐らくは死に勝る困難はあらざるべく、いかに四辺八方襲い寄する艱浪難濤[かんろうなんとう]のあらばとて、我すでに郷関を出ずるに際し、誓って死を決意せる上からは、あたかも勇士の陣頭に立てるが如く、死! 死! 死! 死といえる唯一の武器だにあらば、いかに塵世の波浪が高くかつ強くとも、いかに艱苦が我が身をまとうとも、あたかも乱麻を断つ快刀の如かるべし」
 様々なもの想いにふけるうち、汽車は疾風のように馳せ行く。
 ああ、轟きが高くなった。これが鉄橋というものか。ああ、にわかに暗くなった。ここはトンネルであろう。ああ、あの高い峰、あれぞ絵で見た富士の山に違いない・・・。
 イザこれよりは独立独歩、苦学に身を起こさんと満腔の熱血溢れる男児を乗せた汽車は、最終駅・新橋に到着した。
 こうして守平は、希望の地・東京に着いたが、故郷を出る時懐中にあった金額は、わずか5円70銭あまり。途中で汽車賃その他を支払って、今は残すところ90銭のみ。
 方角さえわからぬ帝都のただ中で、誰一人頼る人もおらず、知人もなく、前途に横たわる大いなる困難の幕が、ここに開かれたのであった。

 2本の鉄腕と2本の健脚を誇ってはみても、身に何らの技術も持たず、ただ志のみ高いこの青年を雇おうとする者は誰もなかった。東京市中ありとあらゆる方面を歩き回り、身体は綿のように力が入らず、両脚は棒のようになり、百方職を求めることに腐心したが、結果はどこも不採用だった。
 日を過ぎ月を重ねて、はや10月下旬。秋の深まりと共にうらさびしい物悲しさがあたりに満ち、冷風が肌を刺すようになっても、服装を改めるすべもなく、寝食共にこれを得難く、ホームレス生活を送ること40日以上。
 ある日、新聞の職業紹介欄に、「某伯爵家にて謹厳実直な書生1名入用。希望者来社のこと」とあるのを見つけ、早朝新聞社に疲れた足を運んだ。
 応募者は数十名の多きに達したが、審査の結果、意外にも守平が選ばれ、その伯爵家に雇われることとなったのである。
 外憂内剛・至誠謹直なる守平は、大いに同家の信を博し、資を給して通学までさせてもらえることになった。彼は欣喜雀躍、ますます同家のために奮励怠らなかった。
 ところが、信を得たのは幸か不幸か、献身的な日常の勤労・行動により、守平は特別な望みを嘱[しょく]されるまでになり、かつ当年16歳なる紅顔の美少年、その眉目秀麗なるは同家令嬢の懸想[けそう]するところとなって、彼を養嗣子として迎える議が起こったのである。
 しかし、ひたすら勉学することにのみ憧れる守平は、この話を聴くとひどく侮辱されたように感じ、「我、あに婦女子のために志を曲ぐるものならんや。我、あに位禄のために他人の性を冒すをあえてせんや」と、人が止めるのにも耳を貸さず、同家を辞して飛び出し、再び宿るに家なき浮浪生活に戻ったのであった。
 こうした、身を投げ出すような人生のジャンプを、その後も守平は繰り返していく。直情径行、とそれを呼び、後先考えぬ軽率な行動と冷笑することはたやすい。そうやって私たちは、岡本太郎のいわゆる「危険に賭ける」生き方から遠ざかっていく。
 危険に背を向け、安全を手にする。それを正しいこと、当然のことと、現代社会の誰もが思っている。が、安全と引き換えに、自分が生命力の活発な燃焼、すなわち活力を代価として支払い続けていることに、私たちの大半は気づかない。
 
 明治33年師走。往来の人も何となく忙しげに見える年の暮れ。
 2ヶ月で伯爵家を去った守平は、つてを求めてからくも大蔵省印刷局の臨時雇いとなった。
 仕事の内容は、印刷局で毎日発行する官報の下折りだったが、勤務はすべて夜間に限られ、午後9時より翌朝7時に到る10時間、塵埃に満ちた工場の叩き庭で立ちっぱなしという極めて過酷なものだった。賃金は腕次第ということだったが、最初熟練しないうちは、10時間でわずかに3銭5厘を得たのみであったという。
 が、守平はへこたれない。一意専心、作業熟達に腐心し、たちまち群輩を抜きんでて、常に第1位の成績を占めるまでになった。
 守平の手は相当速く、正確に動いたのではなかろうか? 後年彼が創始した霊子顕動法を行なってみれば、それがよくわかる。顕動法とは、守平の「手」によって産み出されたヒーリング芸術といえる。楽しみながら舞う(実践する)ことで、クリエイティヴな活力が産み出される、そういう超越的な神楽舞だ。
 
 こうして帝都の第1年を送った守平は、翌明治34年より国民英学会及び数学院に通学した。が、当時の月収わずかに45円。したがって、衣食さえ満足に得ることもできず、極めて惨憺たる生活の中で、小閑を惜しんで勉学に努めたのである。
 ほとんど不眠不食ともいうべき生活を続けること、明治33年より36年に到る約3年の久しきに渡り、その間1日として仕事を休んだことはなかった。というより、たちまち襲い来る生活難が、とうてい休暇の余裕を持つことを許さなかったのである。
 しかも、一面学業に怠りなく、分陰を惜しんで勉強に励み続けたのだから、その意志の強さと向学心には感嘆のほかない。
 当時の日記によれば、夜間眠るのは週1回(土曜日は官報が休みであったため)、それ以外は朝7時に統計局を出て英学会に急ぎ、12時に帰宅して2時まで眠る。3時から5時まで数学院で学び、6時に帰って1時間眠ると、もう出勤時間であった。
 食事は、半斤2銭5厘の食パンに水、2銭の焼き芋と夜食に1銭5厘の甘食で、1日の食費が6銭を越えたことがなかったという。
 こうした艱難辛苦の歳月は流れるように過ぎ去り、明治36年、守平は知人の紹介により、内閣統計局吏員の職を得る。ここに初めて、人間らしい睡眠と食事をとることができるようになったが、薄給であることに変わりなく、ただ勤務のかたわら、ひたすら研学に余念のない守平であった。

 この頃、ユーラシアの東では何が起こっていたか?
 地図を見ればわかるが、清国(中国)の遼東半島は、ロシア領への海の入り口にあたっている。ロシアはドイツを誘い、日本進出の出ばなをくじこうとした。「南満州一帯を放棄することを勧告する。もし応じなければ・・・」というわけだ。
 強大な軍事力を背景とするこの三国干渉に背を向けられる力は、当時の日本にはどこにもなかった。さらにロシアは、満州の永久占領を表明。特に日本に対して、最も無遠慮に挑戦的態度を取り始めた。
 しかも、これに対する日本当局の姿勢は優柔不断を極めたため、様々な議論が巷に満ち、あるいは対露同志会の運動となり、七博士の意見書発表となり、国論の沸騰はその頂点に達した。

 その頃、守平は統計局通勤のかたわら、日本大学と東京外語学校に通学しつつあった。
 満州問題についてつぶさに研究を重ねた彼は、とうてい平和解決の望みなしとの結論を得た。が、若干19歳の一青年に何ができるだろう? 
 彼は、暗雲が日本を覆っていくのを、ただ手をこまねいて傍観するしかなかった。
 だらけた政治家連中を揺さぶり起こすには、どうすればよいのか? 
 煩悶の日々・・・・。そして守平は、ついに驚くべき行動を決意したのである。

<2010.3.26 櫻始開(さくらはじめてひらく)>