Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第2章 超越へのジャンプ 〜田中守平(太霊道)〜 第5回 絶食修養

 ナチスドイツの強制収容所を生き延びた人々の語るところによれば、誰もが怖れ、避けようとする「餓え」とは、実はそれほど辛く苦しいものではないという。
 始めのうちこそ、無力感や身体内外の痛みなどに苛[さいな]まれもする。が、そうした状態にもじき慣れてしまい、苦しさも不快感も忘れるそうだ。
 私自身の経験に照らして、まったくその通りと思う。
 食べることをやめた当初、体が猛烈に反発し、何とか食べさせようとやっきになるのがよくわかる。
 腹の奥底から、引きずり込むような猛烈な「食欲」が沸き起こってくる。いつもいつも、気づいてみると食べ物のことばかり考えていたりする。
「夢の中にまで食べ物が出てくる」とは、私の指導下で長短各種(1日〜1月程度)の断食を自発的に試みた人々が、口をそろえ報告していることだ。
 胃がギリギリ絞り上げられるかの如く、強く鋭い痛みが腹部に起こることも、特に断食初心者の場合、よくある。
 初めての人は慌て、不安に駆られる、が、大丈夫だ。じっと静かに耐えしのいでおれば、30分〜数時間くらいで収まる。
 空腹の苦しみがあまりにも耐えがたい場合、ごく少量の薄い粥(または重湯)を、ゆっくり時間をかけて補食するよう、太霊道断食法では教えている。決して無理をしてはいけない。する必要もない。
 体のシステムが大きく切り替わっていくのだから、あれこれ変化が起こってくるのも当然だ。そういう適応の時期を過ぎると、かなり楽になる。
 おおむね1週間くらいで、飢餓感に常につきまとわれることがやむ。3〜4週間も経つ頃には、食欲自体、ほとんど感じなくなってくる。
 あなたは、自分自身を食べ始めたのだ。

 そんな苦しい思いをしてまでなぜ断食するかといえば、それに見合うだけの素晴らしい効果が、当然、あるからにほかならない。
 断食とは、苦しみのための苦しみを求める自虐行ではない。我慢比べでも感覚鈍磨法でもない。
 たった1日食べない、それだけで、体がどれほどスッキリ気持ちよくなるものか、心がすがすがしくなるものか、実際に体験してみなければとうてい信じられまい。ちょっとした胃腸病なら、数日の断食だけで治ってしまうほどだ(ただし、絶食前後のプロセスを含め、ルールに厳密に従い正しく行なわねばならない)。
 断食すると、心も体も、飛び上がらんばかりに軽くなる。
 さらに、頭の働きが活発となり、明晰に、筋道立てて考えられるようになる。
 食べ過ぎると、頭にもやがかかったようになってハッキリ思考できなくなるものだが、その逆もまた真なりだ。断食は、頭脳を明らかに活性化する。
 さらに、感覚も非常にクリアーに、繊細になる。遠くのかすかな物音が、耳のすぐそばで大きく響いて驚いたり、普段は気づかない、気づけない繊細・精妙な体感がありありと感じられたりする。田中守平は、恵那山中での絶食修養中、5町(約5百メートル)ばかり先をキツネが通るのが、匂いでわかったという。
 さらに、断食によって味覚がリセットされる。断食後に味わう食べ物(ごくシンプルなもので結構)の妙味といったら、とても言葉では言い表わせないほどの感・動だ。
 さらに、長く断食して感性が極度に精錬されると、「生命」そのものの感覚がわかるようになってくる。それは、息の流れに乗って身体を出入りしている。
「死」を非常に間近に感じるようにもなるだろう。
 さらに、さらに、さらに・・・・・。キリがない。

 こんな風に、面白いこと・気持ちいいこと・楽しいことがいっぱい起こるから、いったん断食の素晴らしさを覚えた者は、2回目以降、エントリー時の苦しさを苦しさと、あまり感じなくなる。苦痛の程度・頻度・持続時間も、絶食体験を重ねて慣れれば慣れるほど、どんどん減じていく。
 守平は、その著書(口述)『太霊道断食法講義録』において、熟達すればまったく痛苦を感じることなく断食できるようになる、と述べている。空腹感すら、下腹に正しく力を入れることでコントロールできるという。
 このテキストには、断食の実践法と注意・要領などが、季節や場所による体験・効果の違いに至るまで、実に詳細・丁寧に説き尽くされている。それらは、実際に様々な条件下で実験してみて初めて気づき得[う]るような事柄ばかりであり、田中守平という人は生前、本当に数多くの断食をシステマティックに実行し、後進のため道を切り拓いたのだとよくわかる。
『太霊道断食法講義録』は、私が絶食修養を実践する上で大いに参考となり、励ましともなった書だ。田中守平という人物が「本物」であり、誠実でもあると直感し、信じることができたからこそ、3ヶ月も連続して食を断つという、一般の目には蛮行とも映りかねない実験に、私は安んじてわが全心身を委ねきることができたのだ。
 この本は、専門の古書店にもほとんど出回らない希少なものらしいが、ヒーリング・ネットワークでデジタル化の作業をすでに終えており、著作権や版権の問題もクリアーしているので、近いうちに本ウェブサイト上で無償公開し、真摯熱誠な探求者たちと分かち合っていきたいと考えている。注)

 私が思うに、断食(太霊道断食法)の最大の難関は、「退屈」だ。
 温泉にのんびりつかり、スパでゆったりトリートメントを受け、読書やテレビで暇つぶし・・・。そういう呑気なやり方をする御流儀もあるらしいが、太霊道断食法はまったく違う。
 入浴は、水浴のみ(日光浴は推奨)。
 1日数回の霊子顕動法と呼吸法、それから任意に行なう正座冥想。
 それ以外、1日中、何もしない。本も雑誌も新聞も一切読まない。現代であれば、テレビ、インターネット、携帯電話などとも、しばし縁を切る。 常時、沈黙を心がける。 言うまでもなく禁酒・禁煙。あれこれ考えることもしない。外出も禁止。
 病人でもないのに、そうやって何もせず長期間じっとリトリート(隠遁)するという、ただそれだけのことが、実際にやってみなければとてもわからないだろうが、強固な意志の継続を必要とする大変な難行・苦行なのだ。
 初心の内は、わずか1日の断食が、おそろしく長く感じられる。それが2日、3日と続くと、もう居ても立ってもいられないほどだ。
 が、そんな落ち着きのなさが極限にまで達した時、不思議な反転現象が起こる。外へ遠くへと拡がり延びていくべく、あなたを様々なやり方で駆り立てていた衝動が、くるりとひっくり返って、正反対の方向・・・自らの内面の最奥・・・をめざし始めるのだ。
 超越へのジャンプが起こり、あなたは「賑やかに沸き返る静謐さ」というパラドックスの中へと沈潜していく。それがあなたの裡に満ちると同時に、あなたはそれに呑み込まれる。 
 これは、ヒーリング・アーツで「レット・オフ」と呼ばれている状態/現象であり、断食が本当に面白くなるのは、ここからだ。
 
 これほどの厳格さを太霊道断食法が要求するのは、その目的とするところが、単なる心身の健やかさのみでなく、「霊」的な覚醒・成長にあるからだ。
 生[せい]の裡に秘め隠されし、未知なる領域(エソテリカ)の開顕。
 守平の場合、「それ」は、ある夜、正座冥想している最中に、突然始まったという。
 体が非常な勢いで勝手に動き出し、止めようとするとますます激しく自動する。その状態が午後11時頃から、翌朝5時頃まで続いたそうだ。
 守平は、そういったことが起こり得るとはまったく知らなかったらしい。さぞかし、びっくり仰天したことだろう。
 が、同時に、「任せても安心」という確信めいた触感を、動きそのものの中に直感したはずだ。実際、動きに委ねれば委ねるほど、どんどん楽に、気持ちよくなっていく。それは、全身的な浄化プロセスにほかならないのだ。
 約6時間にも及ぶ奇妙な自動運動。終わると、体はさながら綿のようにグニャグニャになり、自動が自然に止まると同時に深い眠りに落ち、目覚めるとすでに夕闇が迫っていた。
 さらに夜に入ると同様な自動現象が起こり、その時間も前夜とほとんど一致していた。そんな状況が、約1週間連続したのである。
 こうした特殊な身体の運動様態を、ヒーリング・アーツではSTM(Spontaneous Tuning Movement)と呼んでいる。あらわれ方は、人によってそれぞれ違う。
 気持ちよく体があれこれ動いて軽く調律される程度のSTMならば、誰でも比較的短期間で体験・修得できる。が、断食などの特別な修養の真っ最中にしばしば、突発的に発現する自動運動は、まったく別種のものといっても過言ではない。
「彼方なるもの」に通ずる神秘の門が、忽として開かれる。
 その時、身の裡へと忍びやかに流れ込んでくる波紋複合体には、想像を絶する艶めかしい生命の触感が伴っている。
 信じられないほど、滑らかに、精妙に、絶妙に、全身が自由自在に流動する。体が動くというよりも、生命の動きがダイレクトに体感される。
 そういう高次レベルのSTMを、古人は「霊動」と呼んだ。
 太霊道霊子顕動法とは、守平が恵那山中での体験を元に編み出した霊動誘発法だ。
 
 そして、奇跡は断食第15日目に起こった。
 風が枝葉を揺さぶって騒ぐその夜、真っ暗がりの中に端座した守平がふと冥想の目を開いて、前方を見るともなしに眺めると、・・・不思議なるかな、星明かりさえない闇にも関わらず、風に揉まれる檜林の小枝の先が動くのまでが、瞭然と眼底に映るではないか! 
 彼は、自らこの現象を疑って幾度か見直してみたが、見えるはずがないものが確かにみえる。さらに周囲を見渡してみると、すべてをハッキリみることができるのである。
 図らずも顕[あら]われた暗中透視の奇跡は、守平自身にとっても実に意外だったということだが、これに勇気を得てさらに冥想に励むこと数日、第2の奇跡が続いて起こる。

 その日はことに寒風が吹きすさび、吐く息も凍って散るほどであった。
 暁光が霊山の頂に残った雪を薄桃色に染める頃、守平は沈思の座を立った。20日間に及ぶ断食が、身体を著しく疲弊させたかと思いきや、いっこうに疲れを感じないどころか、逆に心身は爽快な気分で満たされていた。
 そして、彼が何気なく足を踏みしめると、フワリと体が宙に浮かび上がった。
「これは・・・」と怪しんで再び足に力を入れると、またフワリと軽く飛び上がる。
 歩いてみると、その歩みの速いことは驚くばかりで、6、7里(1里は約4キロメートル)はある岩根岨角[がんこんそかく]累々たる山道渓谷の難所を1時間ばかりで走破した後も、まったく疲労を覚えなかったそうだ。
 守平は、この奇跡に再び自ら舌を巻いたのであった。 
 その後も、遙か彼方にあるものをみ通し、遠方の小山の梢でさえずる小鳥の羽音を耳元で聴き、もしくは冥想中、遠く離れた場所の情景が判然と脳裏に描かれるなど、 筆舌に尽くしがたい不可思議な現象が続出したという。
「まったく自己が人間なるか否かを疑う状態をあらわした」・・・そんな風に、守平は後に述懐している。まさに「神児」の面目躍如、とでもいったところか。

<2010.11.22 小雪>

注:『太霊道断食法講義録』へのアクセスはこちら