Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第5章 沈黙のコミュニオン 〜OSHO〜 第1回 スピリチュアル・マスター

 1985年10月28日、インドの神秘家・OSHO(旧名、バグワン・シュリ・ラジニーシ)、ノースカロライナのシャーロッテで逮捕さる——。
 全世界に波紋を巻き起こしたこのニュースは、日本においてもさまざまなメディアを通じ繰り返し報道されたから、ご存知の読者諸氏も多いことだろう。OSHOがどこへ行くにも手錠と足鎖につながれて引き立てられていくという、異様な光景を目にされた方も多いと思う(通常、凶悪な殺人犯ですらこうした非人道的な扱いを受けることはない)。
 ところが、後に米国連邦検事・チャールズ・ターナーが告白しているように、OSHOを何らかの犯罪に連座させる証拠はまったくなかったのであり、アメリカ政府はなぜ彼が逮捕されたのか、その理由さえ示すことができなかったのである。にもかかわらず、彼はいかなる逮捕状の提示も、また正当な理由の告示もなしに、銃をもって留置された。
 だが監獄から監獄、そして監獄から空港へと連行されるOSHOを待っていたのは、ふりそそがれる花、花、花だった。石ひとつ投げられはしなかった。いかなる場合にも決して揺るがぬその途方もない優美さ、そして内なる光輝が、これまで彼の名前すら聞いたことがなかった多くの人々の心を魅きつけたのである。保安官や看守たちの中にさえ、家族そろってOSHOの祝福を受けようとする者がいたという。
 彼にいかがわしい宗教的詐欺師のイメージを押しつけようとしたアメリカ政府の目論見は、完全に裏目に出てしまったかのように見えた。
 だが保釈を拒否されたOSHOは連邦政府の役人によっていずこかに拉致され、弁護士たちの必至の捜索にもかかわらず、彼の消息は数日間完全に途絶えた。この空白の期間、OSHOに一体何が起こったのか?
 その衝撃的な真実については後述するが、このときアメリカ政府自身の手によってなされたといわれる恐るべき謀略が直接の原因となって、彼は1990年1月19日、インドのプーナ(現プネー)で亡くなっている。
 自らを「自由の国」と呼び、憲法における自由を誇らしげに強調するアメリカ合衆国が、その偽善の仮面をかなぐり捨て、独裁者の本性をむき出しにしてまで押し潰そうとしたこの男、OSHOとは一体何者なのか? ただ単に弟子たちに語りかけ、あるいは沈黙して座っているというだけで、体勢側にあれほどの奥深い恐怖を喚起させた彼のエネルギーの源泉とは何だったのか?
 ——幾度[いくたび]も生命の危険にさらされながら、敢然として、あくまでも真理を説き続けることにその全生涯を捧げた偉大なる導師[マスター]。私も、スピリチュアルな領域に関して、OSHOの講話録から多くを学んだ。
 OSHOの死後、私は追悼の意を込め、彼の軌跡の概略とその仕事[ワーク]のエッセンスを紹介する記事を、学研『ムー』誌1990年9月号へ寄稿した。以下に、その記事を(若干の加筆修正を加えつつ)、3回に分けてご紹介する。

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 さて、物語は、現代とはまったく異なる時間と空間にまで及ぶ。なぜならラジニーシの歴史は、真理を求めてこの地球上に繰り返し繰り返し生を受けた、神秘的な巡礼の歴史であり、その足跡が世界中のさまざまな秘教的伝統のなかに記されているといわれているからだ。
 2つ前の過去生において、ラジニーシはチベットのマスターであり、チベットにある秘密の寺院には、彼の黄金の像が今も安置されているという。この事実は、チベット仏教(ラマ教)における最高指導者のひとり、ラマ・カルマパ(ダライ・ラマ、パンチェン・ラマとともに三位一体をなす)によっても証言されており、ラマ・カルマパは1972年、ヒマラヤ山麓のシッキム王国で、「ラジニーシこそ仏陀以来最大の神性の化身であり、世界を導くことのできる唯一の現存する人物である」と宣言している。
 前回の過去生は700年前で、彼は山中に神秘教団を率い、106才になるまで数多くの弟子たちに働きかけていたということだ。そのマスターは死を前にして、「究極の覚醒」へと達する21日間の断食に入った。しかし彼には最終的に永遠のなかへと消え去るまえに、もう一度だけ生を受けることができるという選択があったのである。彼は東洋と西洋、肉体と魂、物質主義と精神主義との間に統合をもたらすという、大いなる可能性を未来に見た。そして彼の周りには、いまだ道の途上にあって助けを必要としている大勢の者たちがいた。
 幾多の生にわたり、力の限りめざしてきた究極の成就を目前にして、彼は今一度人間の肉体に戻る決心をした。そして純粋な愛と慈悲から、彼は弟子たちに再び戻ってきて彼らと真理を分かち合い、彼らの意識を「目覚め」の境地にまで導くことを約束したのであった。そのための方策として、断食18日目にその賢者は殺された。

 ・・・そして700年が過ぎ、約束が成就されるときが来た。彼は1931年12月11日、インド中部のクチワダという小さな村で、ラジニーシ・チャンドラ・モハンとして生まれた。
 最初の3日間、子供は泣きもせず、少しも乳を口にしなかったという。それはあたかも、7世紀を隔てた21日間の断食を完結しているかのごとくだった。
 ラジニーシはごく幼い頃から、真理への渇きをはっきりと表わしていた。特に「死」というものに取りつかれていたという点で、彼は子供としては一風変わっていたといえよう。誰かが死んだと聞くが早いか彼はもうそこにいて、何が起こっているのかを見守っているのが常であったということだ。
 またラジニーシは、自分自身の死と直面するための手段として、洪水で危険きわまりない河を泳ぎ渡ったり、20メートル以上の鉄橋から氾濫する河に飛び込んだりするという無謀な実験を好んで行なった。
 15~21才までの7年間は、ラジニーシにとって集中的な実験の期間であったといえる。断食や奇妙な時間に食事をする試み、河のなかや森で瞑想したり、雨に打たれての瞑想、オカルト的な事象やヨーガの呼吸制御の実験、また魔術や念動など、彼の探究はあらゆるレベルで進行した。
 まだ思春期の少年だというのに、ときとして有名な学者や僧侶、パンディット(神学者)たちを相手どった公開討論の場に招かれることもあった。その痛烈な弁論と鋭い質問によって、彼はあなどりがたい論客と見なされていたのである。
 だが永遠なるものを求める探究がただならぬ激しさに達するにつれ、ラジニーシは疑いや恐ろしいほどの不安感、虚無感にさいなまれることとなった。食欲はすっかり消え失せてしまい、彼は命を保つために無理やり食べ、無理やり飲まねばならなかった。肉体の実在感があまりにも稀薄だったので、自分の頭がまだそこにあるかどうかを確かめるために、頭を壁にぶつけねばならなかった。自分自身との接触を失わないために、毎朝毎夕、十数キロも走り続けた。
 何もかもがあまりにも脈絡を欠いてきたので、ひとつの文章を完結させることですら困難だった。文章の途中で、彼は自分が何を言おうとしていたのかを忘れ、道の真ん中で、自分がどこへ行こうとしていたのかを忘れた。
 彼は自分の部屋にひきこもらなければならず、こうした危機的な状態はまるまる1年間続いた。
 その後ラジニーシは、6ヶ月の間に6度、肉体から離脱するという現象を体験している。彼の胸毛は白くなり、肉体と霊的実存との間の微妙な絆が断たれてしまったために、それまで一度も病気にかかったことさえなかった彼の肉体は、このときから常に周囲の人々の心配の種となった。

 そして1953年3月21日、ついに意識の爆発が21才の青年をおおいつくすときがきた。ラジニーシは次のように語っている。
「その少し前、7日前に私は自分自身に働きかけることをやめた。努力というもののむなしさ全体を見る瞬間がやってくる。できることはすべてやったが何も起こらない。人間として可能なことはすべてやった。だとすれば他に何ができる? 完全な絶望のなかで人はすべての探究を落とす。そしてその探究がやんだその日、私が何かを探し求めてはいなかったその日、私が何かが起こることを期待していなかったその日、それは起こり始めた」
 どこからともなく新しいエネルギーが湧き起こってきた。それはどこでもないところから、そして至るところからやってきた。
「私はとても激しくそれを求めていた。私はそれはとても遠くにあるものだと思っていた。それはとても近くに、身近にあった。ただ私が探し求めていたために、近くを見ることができなくなっていたのだ。努力がやんだその日、私もやんだ・・・」
 何かが生まれつつあった。その7日間は、途方もない変容、全面的な変換の期間だった。
 そして最後の日、全面的に新しいエネルギ一、新しい光と新たな喜びの現存は、ほとんど耐え難いほど強烈になった。
「一切の経典は死んで見え、この体験のために使われてきた一切の言葉は、ひどく色あせて血の気もなく見えた。これはそれほどにも生き生きとしていた。まるで至福の潮流のようだった。その日一日不思議な気の遠くなるような素晴らしさだった。そしてそれは、こっばみじんに吹き飛んでしまうような体験だった」
 何かがひどく切迫していた。何かが起ころうとしていた。『これが自分の死になるのだろうか?』・・・しかし恐怖はなかった。彼にはその用意ができていた。
 その夜ラジニーシは、麻酔をかけられたかのように眠りについた。だがそれは、実に不思議な眠りであった。身体は眠っているのに、彼は醒めていたのである。
「・・・まるで2つの方向、2つの次元に引き裂かれたかのようだった。まるで両極が完全にひとつに集中したかのようだった。まるで私は同時に2つの極であるかのようだった。肯定と否定が出会っていた。眠りと覚醒が出会っていた。死と生が出会っていた」
 数時間後、彼の眼は突然開いた。あたり一面には・・・光と、喜びと、エクスタシーの巨大な波動の嵐が脈動している。
 大空のもとで星とともに、樹々とともに、大地とともにありたいという強烈な衝動が湧いてきて、ラジニーシは部屋から飛び出し、通りに出た。彼はすぐそばの庭園に向かって歩いていったが、その歩みはあたかも重力が消えてしまったかのような、全面的に新しい歩みだった。
「まるで何かのエネルギーが私を運んでいるかのようだった。私は何か、別のエネルギーの手のなかにあった。初めて私は独りではなかった。初めて私はもはや個ではなかった。初めて水滴は大洋に至り、大洋に落ちたのだ。今や大洋全体が私のものだった。私は大洋だった。何の限界もなかった。途方もない力が湧いてきた。まるで何でも、どんなことでもできそうだった・・・。私はいなかった。ただ力だけがそこにあった」
 そして彼がその庭に入った途端、すべてが輝き始めた。いたるところにその天啓、その祝福があった。彼は初めて樹を見ることができた。その緑を、その生命を、その流れる樹液そのものを。小さな草の1本さえも、実に美しかった。
 周囲を見回すと、1本の樹が途方もなく輝いていた。モールシュリーの樹だった。ラジニーシがその樹のもとに座るとものごとが落ち着き始め、そして全宇宙が祝福となった——。

 ここでこの<光明=悟り>というものが、理論的に説明できるような概念ではないということをお断わりしておく必要がある。光明[エンライトンメント]とは論理や言葉を超越したできごとであり、それについて定義することはできない。それは、自我=精神活動が完全に停止した静謐さのなかでのみ体験される事象なのだ。
 蓄が花開くように、人間のなかに隠されている究極の潜在的可能性が顕在化する——。それは種子が花という何か信じ難いようなものに変容するという点では奇跡だが、ひとつの進化プロセスの最終到達点と考えれば、そこには奇跡的なものなど何もない。
 ラジニーシも、光明が「すでに現存するものである」ことを、繰り返し強調している。それは我々の実在の本性そのものであり、どこか未来で達成されるべきものではないのだ、と。
 後年、彼は次のように弟子たちに語っている。
「光明を得た人というのは、誰か山の頂上にたどり着いた人間、梯子の一番上に到達した人間のことではない。あなた方は皆、梯子のぼりだ。あなた方は梯子を必要とする。悟りというのは、梯子の最終段ではない。悟りというのはその梯子から降りること、永久に降りてしまって、もうそれ以上どんな梯子も求めないこと、自然になることなのだ」と。

<2012.02.06 東風解凍(とうふうこおりをとく)>