Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第6章 聖なる中心の道 〜肥田春充〜 第4回(最終回) 強健術・ザ・ムービー

 春充が初めて正中心に開眼した際の模様を、第2回でご紹介した。
 その、新たに体得した作用を、足の踏みつけを使って強大な力を生み出す気合応用強健術へと応用したところ、床板が何の抵抗もなく足の形に踏み抜けた。さらに、2度、3度と板を踏み抜き、4度目には床下に渡された太い丸太までが、踵の形を残してヘシ折れてしまった。
 その時の、足型に踏み抜かれた分厚い杉板と、真っ二つに折れた根太を撮影したムービーを以下にご紹介する。動画として記録された資料は、おそらくこれが唯一のものだろう。実は、撮影者は私だ。
 場所は伊豆の肥田邸(撮影年月日:昭和60年10月6日)。解説しているのは春充の嫡子(養子)・肥田通夫[みちお]氏。
 画質、音声ともに拙劣だが、当時の家庭用ビデオカメラ(カメラとレコーダーが分かれているセパレート・タイプ)ではこれが精いっぱいだった。ご了承いただきたい。

 あれらの「遺物」を、私も実際に手に取ってみたが、板も丸太も老朽化してない頑丈なものだった。特に根太[ねだ]はかなり密度の高い、重く堅い材質で、それがあんな風に踏み折られてしまうのだから、中心力の凄まじさがよくわかる。
 遺憾ながら、当時は今ほど感性が開かれておらず、これらの破壊物から感じ取れるものもわずかだったが、足型に踏み抜けた板の真ん中を貫いて無限に伸びる、透明な細い細い1本の真っ直ぐな線、というよりもビームのような感触が、強く印象に残っている。その線それ自体には、力[パワー]の痕跡のようなものは一切感じられなかったが。
 その後まもなく、漏電による火災で肥田邸が全焼し、これら中心力の証[あかし]は、その他の貴重な遺品、資料類と共に灰燼に帰した。

 次にご覧いただくのは、肥田春充が示演する肥田式強健術の型だ。
 春充を支援していた郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)が、昭和11(1936)年に撮影。春充54歳。
 著作権を有するグンゼ株式会社より、自由に使用して構わない旨、許諾を得てある。同社(資料課)には、春充に関する様々な資料をご提供いただくなど、非常にお世話になった。大変ありがたいことである。

 春充がここで演じている姿勢、動きを正確に再現できる人は、当然ながら正中心を得ている。その人は、姿勢を極[き]めるだけで、一瞬にして思考機能を機械的に停止させ、目の前の世界が燦然と命の霊光を放ち始める絶妙・陶酔の境地を、自由自在に味わうことができるはずだ。
 が、強健術の型は簡単に真似できそうに見えて、これがなかなか難しい。否、至難の業[わざ]だ。
 ムービーを観ながら、一緒にやってみればすぐわかる。
 悠然と演じているように見えるが、どうしてどうして、物凄い速さだ。というより、速いとか遅いという相対性を越えた速度というべきか。たちまち、遅れを取ってしまう。
 準備動作から本運動へと移る瞬間は、いかに優れた動体視力の持ち主でもとらえることができないだろう。連続性が、そこにはないからだ。
 春充が中心力と呼んだ原理に、現代的な視点から別の呼び名をつけるとしたら、インプロージョン(爆縮、内破)が最もふさわしいと思う。
 強健術では元来、準備動作と本運動の間に、呼吸停止3秒間を置くことになっている(熟練するに従い短くなる)。この3秒の呼吸停止の間に、不可思議な位相の転換(内破)が起こり、力も意識も、自らの内面へと向かって圧縮され始めるのだ。私が内破という言葉によって指し示そうとしているのは、トランプの札をひっくり返すような単純な反転ではなく、テニスボールのどこにも裂け目がないのに表と裏が瞬時にひっくり返るような超越的反転感覚だ。

 ディスコースの『ヒーリング随感2』第1617回で、肥田式強健術に対する現在の私の考え方、立場について初めて公に記した。その際に述べた、強健術の基本姿勢に対して春充が付した解剖学的説明は間違っていた、との意見に、今も変わりはない。
 と同時に、肥田春充に対する尊敬の念も、まったく変わってない。
 個人的に、強健術の研究を今もなお、続けている。その奥行きは、ますます深まりつつあり、その輝き、その魅力は、いよいよ増すばかりだ。真剣な関心を寄せる人々と強健術の素晴らしさを分かち合うことも、少しずつ始めた。

『ヒーリング随感2』で、春充の肉声を添えて述べたように、流派・流儀としての肥田式強健術は、春充一代で途絶えた。というより、そもそも流儀ですら最初からなかった。春充は強健術伝授のための団体も作らなかった。
 流派や団体が存在しないのだから、それを継承する者もいない。創始者自身がそう断言するのだから間違いなかろう。
 ならば・・・過去は過去として去らしめようではないか。
 宗家とか家元とか、そんなどうでもいい、春充が嫌った些末で表面的な事柄に囚われることなく、私たち1人1人が肥田春充の精神[スピリット]や強健術のエッセンスを汲み取り、自らの人生に活かしながら、社会に貢献しようと志すこと。すなわち、「魂の継承者」として独り立つこと。・・・それこそが、肥田春充が望んだことではあるまいか?

 そういえば、「春充」をどう読むのか、実はわからない。
 肥田通夫氏に尋ねたところ、「はるみつ」との答えが帰ってきたが、論拠は「義母がハルミツと呼んでいたから」という曖昧なものだった。
 春充が心友と呼び、絶対の信任を捧げた平田内蔵吉[くらきち]の著書においても、春充に「はるみつ」とルビが振ってある。
 が、実兄・川合山月の著書では「はるみち」になっている。
 私は「はるみち」で統一してきたが、実際のところは不明だ。
 どうやら春充自身が、どう呼ばれようが、意に介してなかった節がある。
 ・・・・・・「その人」の名前すらわからない。
 蜃気楼[ミラージュ]を、私たちは追いかけていたのかもしれない。

 しかし、肥田式強健術の精髄、魂が、今、私自身の裡にある。
 それは今、私独自のオリジナルな表現様式をとって、「活きた道」として、成長・発展しつつある。
 楽しい。
 素晴らしい。
 ありがたい。
 神聖さの極みだ。
 聖なる中心の道。

——聖なる中心の道・終——

<2013.05.05 立夏>