Healing Discourse

ヒーリング随感 [第26回] ミドル・パス

◎ヒーリング・タッチをイニシエート(秘儀伝授)するプロセスは、基本的に以下の6階梯から成り立っている。ここでいう秘儀(アルカナ)とは、目に見えず、言葉で正確に表現することもできない本質的教えを指す。ヒーリング・アーツにおいては、そうしたアルカナをタッチを通じて以身伝身で伝え、授けることができる。
 
[イニシエート・プロセス]
1.私と参加者が、手と手を柔らかく触れ合わせる手合わせ。
2.参加者が身体各部に私のヒーリング・タッチを受け、粒子的凝集と拡散の感覚/意識を、様々に感じ動いていく。
3.自分の手を間にはさんで、自分の腕に私からヒーリング・タッチを受ける。私のヒーリング・タッチの作用を、自らの手をフィルターにして感じ・受ける。このようにすると、ヒーリング波紋が手の内部を透過していく様子がハッキリわかるものだ。
4.今度は私の手を間にはさみ、自分の腕にヒーリング・タッチ。そして、ヒーリング・タッチ中の私の手がどんな風に波立つか、それを手と前腕の触覚で感じ取っていく。
5.自分の手を間にはさんで、私が他者にヒーリング・タッチしていくのを感じる。
6.私の手を間にはさんで他者にヒーリング・タッチ。

 こうした1つ1つのステップは、魂と魂の出会いであり、いやしの芸術の共同創造だ。

◎今にして思うのだが、心身修養の道を歩み始めた初期の頃、もしヒーリング・アーツの初歩の手の、ほんの数手でいいから学び修することが叶っていたなら、私がこれまで経てきた自己変容とヴィジョン(人生のエッセンス)探求・実現のプロセスは、遥かに少ない労力と遥かに短い時間で効率良く全(まっと)うできたはずだ。
 例えば、皮膚感覚に基づく身体の意識化、主観と客観の合致(仮想身体の禊祓い)、手足の中心におけるヒーリング・バランス、こういうマナを武道修業に伴い誰かにどこかで習うことができていたら・・・、今頃は武術の達人になっていたかもしれないと、冗談や誇張でなくそう思う。もちろん、当時ヒーリング・アーツはこの世にまだ存在しなかったわけだが。

◎中腰で、太い木の幹を抱くようなポーズをとって静かに立つ。そして数分〜数十分間、ひたすら呼吸を錬りながら内的感覚を研ぎ澄ませていく。中国武術を熱心に錬磨していた頃、そういうトレーニング法を毎日何度も行なった。
 足裏の平衡基準点として、拇指球(足の親指つけ根のふくらみ)の中心点、小指つけ根ふくらみの中心点、踵の中心点(踵骨隆起)の3点を設定する。全身のバランス変化は、両足6点に明瞭に表われる。
 呆れたことに、深く息を吐き、吸う、たったそれだけのことで、足裏3点にかかる重さの配分がころころ変わっていく。つまり、隙だらけになる。視線を動かすだけでも大きく変化する。
 逆に言えば、それだからこそ、武術諸流派で目の使い方をうるさく指導し、呼吸を錬ることを重視するわけだ。呼吸を錬るとは、足裏の重量配分を崩すことなく息をする方法を探し、それが普段の呼吸になるまで徹底的に修練する、という意味だ。
 こういうことを、かつての私は朧げに感じてはいたものの、上述の如く身体の具体性をもって明瞭に理会し、実際的修法を通じて心身一如で体現するまでには至らなかった。
 ゆえに、無理があり、無駄があった。多大な労力と時間を浪費し、身体各部にかなりの負担を強いてきた。ヒーリング・アーツを授かるようになっていろいろ調整してきているから、体も心も丈夫で元気だが、もしこれらの心身調律法を知らなければ、今頃はあちこちガタが来てボロボロになっていたであろうことは間違いない。

◎「右」とか「左」と思うだけでも、足裏の体重配分は変わる。「無心」が武術の極意とされるゆえんだ。
 無思考状態で各動作のコマンドがどこから発せられるかといえば、それは拇指(足の親指)の爪の内角付近にある太敦(たいとん)というヒーリング・ポイントだ。太敦とは「大いなる始まり」を意味する。肥田春充いわく、「正中心なんか本当はどうでもいい。大事なのは拇指だ」と。

◎中国武術では、まず静止状態で内的バランスを整え、息や思いなどによって足裏の体重配分比率が変化しないよう訓練する。固体的・スタティック(静的)な中心ではなく、流動・脈動のただ中における安定・動的中心を求める。そして、それを徐々に武術的な動きや力へと応用展開していく。
 打ったり蹴ったりすることは、武術という限られた世界のみで意味を成す特殊なスキルでしかない。が、その根本にある動的中心の術(わざ)には、前述の通り、立ち、息をし、見、何かを考える、そういった人の生のありとあらゆる営みを本質的に変容させる力が秘められている。

◎足に関する教え——大地の女神にちなみ、ガイア修法と仮称している——を実践すれば、その人の存在そのものが根本的に組み替えられ始める。「根本的」というのは単なる言葉の綾ではない。足は実際に人間の全身が載る土台だから、その土台のバランス関係を変えれば、必然的に全身各部の平衡状態が変化する。
 身体が組み替わるとは、これまでと同じ人間でなくなるという意味だ。より落ち着いて自信にあふれ、どっしりした泰山の重みと、変化自在の軽妙さとを兼ね備えるようになる。
 それだけなら誰しも歓迎するはずだが、厄介なことに、それ以前の古い自分・・・姑息で臆病で卑劣で鈍感な「我(われ)」にとって、変化とはイコール死にほかならない。だから怖れや不安が起こり、真理・真実から目を背け、逃げ出したくなってくる。
 エゴ(自我)を、排除あるいは超越すべきものとして否定的にとらえる<教え>も多いが、ヒーリング・アーツではそういうアプローチ法を採らない。
 ヒーリング・アーツは自我をいかなる意味でも否定しない。
 アンバランスなエゴこそが問題だ、ヒーリング・アーツはそのようにいう。そして、不均衡を手術的に除き去ろうとはせず、ただ崩れたバランスを整えていくための具体的手法を提示する。
 ヒーリングとは、バランスを取ることだ。動的平衡に入れば、超越(質的転換)は自然に起こる。

◎ブッダが説いた八正道の本質は、各自のあらゆる行為、思いにおいて、常に心身のバランスを取っていくことだ。八正道を誤解する人が多いようだが、ある既成の価値観・行動則を守りそこから外れないことに汲々(きゅうきゅう)とせよ、とブッダは教えていたわけではない。
 ブッダが強調した中道(ミドル・パス)とは、動的中心の教えにほかならない。そしてあらゆる動きの裡において中道を得るためには、まず上述の足裏の3つのポイントをどう活かすかを知る必要がある。

◎仏足は平らであるという(扁平足というのは誤伝)。平らとは、足のバランスがいかなる時も崩れない状態を指す。仏の意識(仏性)を心身に受け容れるためには、まず足を整えることが急務だ。
 足を整備するための修法はいろいろあるが、「よりよく、ダイナミックに生きる」ことに誠実な関心を抱くすべての人々に私がお勧めしたいのは、凝り固まった足のアーチの弾力性をまず回復させることだ。
 この部位がフレキシビリティを失うと、脚裏全体が縮んで強ばり、腰も萎縮して全身の老化が進むとされている。それが事実であることは、足のアーチに凝集・拡散の作用を起こしてみれば、自らの身体で確認できる。
 ヒーリング・タッチで足のアーチを圧縮すれば、直ちに腰が縮み、足の凝集をレット・オフした途端スーッと腰が伸びていく。例えば直立前屈姿勢をとり、爪先と踵の中間部を開放する。・・と、大抵の人はその場で直ちに腰が伸び、頭が床により近づいていく。上体がさらに折れ曲がるのではなく、腰椎全体が統一的に開いて腰が伸びる。ほとんどの人にとって、初めて体験する腰の伸び方だろう。
 何度か練修するうちに、足のアーチが伸縮して呼吸を始める。こうした足の呼吸が起こって初めて、私たちは大地との連動を実感できるようになる。

<2009.03.14>