Healing Discourse

ヒーリング随感2 第20回 いのちの舞

◎前回、新趣向のスライドショーに対する友人たちからのフィードバックを2例、ご紹介した。
 あれを読み、「何と大げさな」とか「おべんちゃらだ」と眉を顰[ひそ]め、やれ「カルトだ」「催眠術だ」、いや「洗脳だ」「ドラッグだ」など、重苦しい濁った考えをあれこれ巡らせ首が固く詰まった方は、あなた自身もお持ちの観の目のポテンシャリティを、著しく低く過小評価してしまっている。
 私は脳(マインド)を洗うことにはまったく興味がないし、ドラッグを使わずともあんな風に深く感じることは、実際に可能だ。
 視覚を変容させるメドゥーサ修法が、そのコツをいまだ得てない者にとって非常に不可解に感じられるのは、それが視覚と体性感覚のクロスオーバー(シネセシア=感覚複合)を引き起こす術[わざ]だからだ。
 触覚的にみる、とはいかなる状態か、それを本当に知るためには、実際に体験してみる以外、道はない。

◎無理に強制するつもりはまったくないから、どうかご安心を。
 が、目(眼球)を柔らかく繊細に振動させる見(観)方の研究・修練・実践は、ヒーリング・アーツに限らずなんぴとの人生においても必ずや大いに役立つはずだ。ゆえに私たちは、それを力強く、万人に向け説いている。
 世界そのものの裡にひそむ<美>を、ダイレクトに観(感)じる能力は、生きる歓びをはかりしれないほど豊かにしてくれる。人生の達人とは、秘められし美の輝きをみいだすに至った人々だ。
 私もたった今、見[けん]の目(普通の集約的なみ方)と観の目(非常に細やかで柔らかく、立体的、開放的なみえ方)とを交互に換えつつ、前回及び前々回のスライドショーに正対[せいたい]する実験を、改めて行なってみた。

◎観の目に切り替える・・・と、本当に「その場」に身を置いているような強烈な臨場感が、じわじわっじわーっと、写真それ自身の内部から染み出てくることに、我ながらかなり驚いた。手を伸ばせば、その世界と直接触れ合うことさえできそうなほどの生々しさ。立体感。
 これが、視覚と触覚のクロスオーバー、と私が呼ぶものだ。宮本武蔵は『五輪書』で、それを観の目と呼んだ。

◎スライドショーは、次々と移り変わっていくから、静止した対象で充分練修を積んできてない人は、ついていくことさえ難しかろう。そういう場合は、自分向きのレベルまでいったん後退すればいい。レット・オフを使って退けば、退行すらも有益な学びの糧と化す。
 メドゥーサ修法の練修用に、キナバタンガンで撮影したヒーリング・フォトを2点、掲げておく。

早朝のキナバタンガン。この写真の奥行きが感じられるようになってきたなら、あなたも「観え」始めている。

シャクティ・パット(頭へのヒーリング・タッチ)を修するブタオザル君。実際には、意識を別けて統合することは、猿にはできないらしいが。

◎最近『ムー』誌上で発表したヒーリング・フォーミュラ(目の斜めをヒーリング・タッチで意識化)を、皆さんはすでにインストールされたろうか?
 あの修法をクロスオーバーすることで、観の目(メドゥーサ修法)のバージョンアップが自動的に起こり、さらに細やかに超立体的にリアルに生々しく、「観える」ようになる。
 私が語っているのは、普通の視力とも動態視力とも違う、別様のみ方・みえ方だ。
 武術家(武術を熱心に、真剣に修めつつある人)なら誰でもご存知だろうが、速い動きがみえるようになることと、自らが速く動けるようになることとは、常に相対応し合いながら発達していく。
 同様に、観の目で動く時には、非常に細やかで優雅な動作が自然に現われてくる。修練を重ねるうち、それは生命[いのち]そのものの舞へと昇華されていく。
 ヒーリング・アーツとは、いのちの舞だ。

◎目は斜めに顔についている。
 人の顔を真横からみると、目の一部がみえる。つまり、目は斜めに顔についている。
 目頭と目尻に、人さし指と中指の先でヒーリング・タッチし、それぞれの触れ合いが顔のどの箇所で起こっているか、顔そのものの皮膚感覚で感じ、互いの位置関係を調べてみるといい。それは確かに「斜め」であるとわかるだろう(顔が正面を向いている場合)。
 ちょっと「考えて」みて、「ああそうだった。なるほど」とわかった気になり、「まあ、そんなことは当たり前か」と放念してしまう。そんな粗忽な態度を、自らの身体に対し取り続けるのは、いかにも勿体ないことだ。せっかくの素晴らしいあなたの可能性が、みすみす埋[うず]もれたままになってしまう。

◎目は斜め、乳首の生え方も斜め、左右の腹直筋もそれぞれ斜め(ついでにいっておくが、頬も斜め、のども斜めだ。武術家はこの意味がわかると狂喜する)。
 この厳然たる客観的事実を、ヒーリング・タッチで主観的に意識化(心身統合)する・・・と、私たちの心身にはどんなことが起こるのだろうか? 
 相承会で私から直伝を受けた人たちが、いろんなリポートを寄越してくれている。以下に抜粋するので、「斜め」に関する教えを真剣に探求してみようと思う人は、繰り返し熟読し参考にしていただきたい。

<FB[フィードバック]1>
 先日は、ヒーリング・タッチの素晴らしさを改めて実感するのと同時に、自分がこんなにも仮想して生きているということにも気づかされ、ショックと驚きの連続でした。
 メドゥーサ修法で目の角度が意識されたときは、実際の目の角度は正面よりも外側を向いていたことや、視界も、前方だけでなく横方向にもパーッと広がっていくことを感じ、驚きました。目の角度が意識されると、目元が自然に緩んでいき、優しい顔になっていくようにも感じました。これまで目は正面を向いているものと仮想していたことが分かり、それによって視界もかなり狭くなってしまっていました。
 また、小鼻や鼻筋とも触れ合っていくと(編注:鼻すじも小鼻も斜めについている)、実際の小鼻のふくらみや大きさ、角度などが意識されていき、鼻からの呼吸が楽にスムーズに行なえました。鼻筋も実際より高く仮想していたようでした。目や鼻が意識されると、顔がとても立体的なものとして実感されました。<R.I 女性・大阪府>

<FB2>
●目について
 目尻と目頭と触れ合い、「斜め」であることを意識する・・・・・。確かにご指摘を受けると、目そのものを平面的に捉えていました。身体において、板のように平面になっているところはどこにも見当たらず、すべてが斜めであり、曲線となっています。
 目尻と目頭に焦点をあて、触れ合い、身体の感覚に基づいて認識された途端、ガクッと姿勢が変わり、身体の内に意識が収まり、心身が統一され、まるで別人になったかの如くに、自分の存在感が変わってしまいました。普段感じることのできない目の「丸み」すら感じられ、視界も明るくハッキリとしてきました。
「これは尋常ではないぞ・・・!」
 この修法を実践したときの偽らざる感想です。「尋常ではない」とは、ひとつは、目をあまりにも平面的に捉えていたこと。もうひとつは、この修法により顕われる心身の状態です。
 ここまで激しく、深く心身が統一されたことは、これまでなかったのではないでしょうか。目は、身体の中でもかなり敏感な部分ですし、また「見る」という行為は、普通主に自分の身体から外に向けられているものだと思うので、それが身体(目)の内に収まったときの反動というのか、衝撃が大きいのかもしれません。

●乳首について
 ヒーリング・タッチで、自らの乳首としっかり触れ合いました。そもそも乳首は、身体の正面ではなく、外側に向いています。それがヒーリング・タッチによって正しく意識された途端、胸が内側からパカッ!と開かれました。
 本来は、もっと楽で清々しいはずの胸が、乳首の仮想により狭められ、窮屈に押し込められていたのだと、身体を通じて強く認識された瞬間でした。
 呼吸もスムーズになり、何よりも気持ちが晴々として、清らかさに包まれる、というよりも、胸から清らかさが溢れ出してくるようです。

●腹直筋について
 まず腹直筋の形が、これほどまでに複雑だとは思っていませんでした。平べったいものを簡単に湾曲させたようなものとは、まったく違います。
 肋骨下部中央の剣状突起から恥骨まで、腹直筋とゆっくり丁寧に触れ合っていくと、なだらかにカーブしている中にも山や谷になっている部分があり、特に臍から恥骨に至るカーブは相当なものです。
 触れ合っていくうちに、腹直筋の太さも、かなり細いと思い込んでいたことがわかり、仮想の酷さに驚くばかりでした。
 腹直筋中央から脇腹方向に(腹直筋のみに)触れ合っていくと、やはりそれは曲線を描いており、それを身体を以って意識していきました。
 相承会では、まず右側の腹直筋と触れ合っていったのですが、身体中央から右にバカッと(身体が)開かれ、右側だけに意識が満たされ、充実し、逆に左側はスカスカで、そのアンバランスさに少し気持ちが悪くなってしまいました。
 すぐさま左の腹直筋とも触れ合い、意識化し、バランスを取ると、私の心身は、まるで異世界に足を踏み入れたような感覚となりました。
 またヒーリング・エクササイズ(旧・肥田式強健術)の任意の型をとり、腹直筋の斜めを意識していくと、ガクッ、ガクッと全身の姿勢が変わり、本来あるべき姿勢へと自ずと整えられ、神聖で、濃密で、統一された状態へと、自ずと導かれていきました。あまりの感動・凄さに、しばし言葉もありませんでした。<M.K 男性・岡山県>

<FB3>
 ヒーリング・タッチで、目の両端と触れ合っていくと、今まで、前方を平面で切り取るように見ていたことを感じました。目とその周辺にかなり不自然な力が加わっており、その状態で見ていると、文字通り視野狭窄になっていくようでした。
 目の左右が平面上にないことがわかり始めると、徐々に見るものが立体的で、生き生きとした色彩を帯び、思考が晴れていく爽快感を覚えました。

 乳首も、かなり頑なに正面向きであると思い込んでいました。それが解消されはじめると、ハートが開き、無駄に思考することが少なく、直接的に物事を感じ、動くことが促進されていくようでした。
 大胸筋をかなり無理な方向に引っ張るように使っているのが感じられ、それまで感じることのなかった痛みが周辺に出てきました。今まで無感覚だったものに、感覚の灯がともり始めたように思います。

 腹直筋の斜めを意識すると、腰椎がとても楽になり、その結果、内臓などの位置がより良いバランスを取るように変化しているようで、全身的に”楽”が広がっていくかのようでした。背中側との対応も良く感じられました。

 全般に、平面から立体に感覚が変化することで、情報量が劇的に増加しているのを感じます。全身の組み換えが促進されるようで、開放感の一方、相承会の翌日、翌々日は全身に痛みが現われてきて、今までのアンバランスさを改めて認識することとなりました。
 体の正中線上に扉の開く部分があって、平面状に閉じていたところが、ヒーリング・タッチで触れ合うことで、平面ではないと感じられ始めると、その扉が開いていくかのような開放感・充実感があります。<T.K 男性・東京都>

◎ヒーリング・タッチの要訣(ゆっくり柔らかく粒子的に・対置的に直交させ合う・形を触覚的に感じる)については、これまでディスコースで何度も述べてきたので、ここには繰り返さない。
 目頭と目尻に指先でタッチするような場合、その実際の触れ合いが起こっている皮膚面上で、上記の3要訣がすべて守られているかどうか、厳密に精密にチェックすることが、まずは必要だ。
 指先のわずかな皮膚面でも、真に要訣(神界の叡知)にしたがえば、そこに満身の「勢い」が自ずから反映・集約してくる。
 これが、「一所懸命」という言葉が元々意味していた「状態」だ。小さな面積に、命の重みをぐぐっとかけることができるかどうか(小手先の力は一切入れない)。
 以下にご紹介するムービーは、指先でヒーリング・タッチし、そこに命を込め、互いの生命を共振させていく様子だ。単なるイメージではなく、生理的実感を伴いつつ。主観・客観融合的に。
 ムービーとも観の目を使って向き合えば、ヒーリング・タッチとは一方から他方への移動ではなく、同時相照的な響き合いであることがよくおわかりになるだろう。
 指先で目にタッチする際も、こういう触れ合い方をしなければならない。

 さらにムービーをもう1つ。腰腹相照原理を使い、多数を相手に戯れ、自由に舞っていく。
 腰の各椎間板(関節)から起こした波紋を、腹直筋を使って統合し、自在に操る。キナバタンガン巡礼から還ってきたら、いつの間にか自然にできるようになっていた。
 流れている音楽は、高木美佳の『海神[わたつみ]』。
 ムービー1、2共に、2010年8月撮影。相承会の一場面だ。

◎キナバタンガンを旅[ヒーリング・トリップ]していたと思ったら、ハッと気づくと超越道場/神殿へと移し替えられ、ヒーリング・アーツを学んでいた・・・。
 そういうのを、「時間と空間を越える(ジャンプする)」と私たちは呼び、楽しんでいる。時空の連続性を超越する術[アート]。
 次回は、再びマレーシアに舞い戻り、旅の印象をいくつか、直感的に順不同で、綴ってみる。

<2010.09.21>

@コタキナバルの街角。腰かけの間[ま]に腰かける。