Healing Discourse

ヒーリング・アーツの世界 第2回 いのちの術[わざ]のマンダラ

 日本語で「気持ち」とか「気分」といわれるものを、身体内空間という微細粒子の集合場に起こる波紋としてとらえる・・・そういう革新を自己認識に対してもたらせば、心身に様々な流体的変化を引き起こすことが、意のままにできるようになる。これがヒーリング・アーツの基礎原理だ。
 ヒーリング・タッチ、ヒーリング・バランス、ヒーリング・ストレッチ、ヒーリング・サウンドなど、様々な<道>がヒーリング・アーツにはある。道とは、術[わざ]の体系であり、探究者が歩むプロセスであり、生きることそのものにほかならない。
 道を通じて、私たちは活気を与えられ、叡知を身につけ、より健康でトータル(全体的)になり、新たな力を得る。そして、道は外側の世界のどこかではなく、私たち1人1人の内面にある。

 ヒーリング・アーツの一例を、以下にごく簡潔に述べてみよう。体を動かすことを差しはさみながら書いていく。

 まず、両手をうやうやしくそっと合わせ、合掌の形を取る。そして、かしわ手の音を四囲に響かせる。弱々しいかしわ手では何の効果もない。鋭さの中にも円みのある音を発生させる。それがポイントだ。
 それから、手を軟らかくしなやかに振っていく。
 この、「手を振る」という「行為そのもの」を、粒子的に体認するなら、それをふわりと粒子状にほどくことができる。つまり、塊としての手を振っているのでなく、かしわ手によって活性化された手の粒子感覚(しびれ)を、自分は今振っているのだと、自己認識を改めてみる。
 するとどうなるか?
 より柔らかくなる。より円(まろ)やかに滑らかになる。より軽やかになる。・・・ほどける、とそれをいう。
「動き」がそうなるのではない。
「動いている自分」そのものが、瞬時にほどけ和らぐのだ。行為の器が大きくなる、という言い方もできるだろう。手を振るといったシンプルな動作をほどくことから始め、段階を追って修練を進めつつ、徐々に日常生活の様々な場面へと応用していく。

 やがて、思いがけないものまでほどく能力が身についてくる。
 怒り、ねたみ、そねみ、痛み、憎しみ、不安、悲しみ、恐怖・・・・・。そういったものを生理・心理の両面でほどくことが、実際に可能となってくる。
 例えば、不安につきまとわれた時、「ほどきの法」を修する・・・と、頭や胸、みぞおちの奥で感じる不快なモヤモヤやかたまりが、ふわりと微細粒子へと解体され、サラリと消え失せてしまう。

 自分という存在感に細かい穴がたくさん空[あ]き、風通しがよくなる感じ。
 行為のさ中においても、終始リラックスして寛いでいる(動中の静)。
 動きのアルファ(始点)からオメガ(終点)まで、無数の微細な隙間が生じる。あたかも引っ張り伸ばしたゴム紐全体が、次の瞬間、無数の超微細粒子に分解されるかのように。
 こういう状態が、ヒーリング・アーツで「ほどけ」と呼ばれるものだ。ヒーリング・アーツには、ほどけを呼び招くためのいろいろなやり方、練修法がある。いずれもシンプルでありながら、巧妙かつ鮮烈なものばかりだ。

 私たちの身体には、たくさんのノット(結び目、エネルギー凝滞)が複雑に絡み合って伏在している。これらをブロックという。ブロックが生じて抑圧された箇所には、息が充分通わない。血流が不足して慢性の酸欠状態となり、神経も圧迫されるから生理的・心理的情報の正しいやり取りが、脳との間で妨げられる。
 ブロックが増殖すると、人は心身の不調和を感じ始め、それがさらに昂進して一定限度を越えれば様々な病気となって表われる。ブロックは、心理的には凝滞感、閉塞感、不自由さ、重苦しさとして感じられる。
 ブロックは、私たちの健全な生活を妨げるマイナス因子であり、我々の心身に内蔵された本来の能力が発揮されることを文字通りブロックする。こうした心身のもつれを感覚的に探り当て、ほどいていくことから、ヒーリング・アーツの修養はスタートする。

 ヒーリング・アーツの有機的な生命感覚を、シンプルな術(わざ)で例示してみよう。

 片腕の前腕(肘と手首の間)に、もう一方の手で柔らかく触れてみる。
 何を感じるだろうか?
 ・・・・・・「腕」・・・・・・・?
 だが、それは単なる言葉だ。身体のパーツにつけられたかりそめの名称に過ぎない。あなたが今、実際に「感じて」いるものとは違う。
 先入観を脇に置き、心を鎮めて向かい合ってみれば、「そこ(前腕と掌の接触面)」で起こっているのは、温かさや微妙な圧力といった「感覚」であることがわかるはずだ。

 今度は、もう少し注意深くアプローチしてみる。
 まず、前腕の皮膚ともう一方の掌の皮膚とをそっと密着させる。接触面各部の触圧に強弱の差がないよう、細心の注意を払う。そして、「触れる」ことと「触れられる」こととを、同時に感じる。
 こういう新しい「触れ合い」方の中へと意識的に入っていく時、未知の感覚/意識がどこからともなく浮かび上がってくる。
 まず、手や腕の「空間としての形」がありありと感じられる。そこが透明になったみたいに、体の内部空間に意識が染み透っていく。いわゆる深部(固有)感覚だ。
 タッチ曲面を介して、互いが互いを映し合うような位置関係に手と腕を置けば、体感を通じての精妙なコミュニケーションも可能となる。つまり、自分自身あるいは他者の身体と語り合えるようになる、ということだ。
 波紋が、皮膚の言語だ。皮膚は波紋によって対話する。波紋を通じて、驚くほど多様な情報が皮膚間でやり取りされる。波紋同士の出会いが、次々と新たな波を生み出していき、精妙な音楽の如きものとなる。

 生命の質感を活き活きと湛えた「温もり」が、息づき、振るえ、揺らぎ、流れ、巡る。このようにして生命そのものと触れ合い、触発し合う、そうした営みを、私は「ヒーリング・タッチ」と仮に名づけて呼んでいる。
 ヒーリング・アーツ入門者は、まずヒーリング・タッチを伝授される。すべてはここから始まる。そして、常にここに戻ってくる。
 例えば、あなたが丹田を鍛えたいと思ったら、丹田の位置とそれ自体の感覚が、生理的実感を伴って身体上にマッピングされていなければならない。さもないと、頭で考えただけの架空の丹田に働きかけることになってしまう。
 丹田とは身体的現実であり、解剖学的位置を正確に特定できるものだ。にも関わらず、何となくこのあたりだろうと「想像した(考えた)」だけの仮想丹田に向かって一生懸命働きかけても、空想の寄せ集めは何一つ実[み](現実的効果)を結ばない。
 身体の客観と主観がピタリ合致している状態を、ヒーリング・アーツでは「感じている」という。身体という形(空間)の中で、心が鋭く目覚めている。心と体が合致し、統合している。
 人間のいかなる活動であれ、最大効率を発揮するためには、身体と心を合わせて使う必要がある。ヒーリング・タッチによって、体と精神を正しく重ね合わせ、融合させることができる。すると、何をやっても最小の努力で最大の効果があがるようになる。

 ヒーリング・タッチには、様々な応用展開の可能性が秘められている。ヒーリング・タッチは、あらゆる道を内包する種子だ。
 例えば、上述した前腕とのヒーリング・タッチにおいて、「触圧に偏りがないよう調整する」ためには、手のどこを中心点として使うかを知らねばならない。
「体の形を内的に感じる」ためには、鏡同士で映し合うような感覚/意識の特殊な運用法が必要だ。
 こういう心身の平衡に関する学びに焦点を当てれば、「ヒーリング・バランス」という新たな道が姿を表わし始める。それは、ダイナミズムのただ中にあってあらゆる動きを超越していこうとする中庸の道だ。
 中道とは、統一の別名といえる。心身が高度に統合されていくに従い、私たちはより楽になり、より活力に充ち、より優れた能力を心身両面で発揮できるようになる。

 ここから一転、視座を改め、今度はヒーリング・タッチの意識面を強調すれば、また別の新しい世界が拓かれてくる。
 ヒーリング・タッチにおいては、術者も受け手も、意識の変容を感じる。賑やかなのに静まり返っているような不思議な落ち着きがある。どこまでも拡がり開けると同時に、どんどん体の内面に充実して納まっていく。熟睡しているような深いくつろぎと明晰な目覚め、その両方の質が溶け合っている。
 こうした対立の止揚を、意識変容という方向性から探っていこうとする道、それが「ヒーリング・メディテーション」だ。ヒーリング・メディテーションは意識のアートだ。意識を映し合い、響き合わせていく術[わざ]。

 同じヒーリング原理を性愛へと応用すれば、愛の芸術「ヒーリング・セックス」が表われる。その時、超越性とエクスタシーとは同義語だ。ヒーリング・セックスは、恋人たちのための官能的ないやしの世界だ。そこでは、愛の言葉でいやしが語られる。
 このヒーリング・セックスが昇華されれば、「ヒーリング・ラブ」となる。ヒーリング・ラブの道において探究者たちは、愛の様々な宇宙的表現(陰陽の道)を実践的に学び、ついには関係性を超えた絶対愛へと到ろうとする。イエスが「神は愛なり」と唱えた境地がそれだ。

 このほかにも、心身錬磨に主眼を置けば「ヒーリング・エクササイズ」となり、ヒーリング原理に基づいて筆をとれば「ヒーリング・カリグラフィー(書道)」ともなり、あるいは「ヒーリング・イラストレーション」、「ヒーリング・マーシャルアーツ(いやしの武術)」など、いやしの道は様々な表現をとって変化自在に現われる。
 各人各様の道があっていい。すでに何人かの人々が、ヒーリング・アーツの修養を通じて独自のユニークな道を啓発され始めている。
 それぞれの道は独立して存在するものではなく、複雑に交錯し合い、多元的なネットワーキングを形成していく。
 ヒーリング・アーツは完成され、固定化され、硬直化した無機的システムではなく、今も生きて盛んに成長を続ける生命の巨木なのだ。

 かくして、ヒーリング・アーツの各修法は互いが互いを映し合いつつ、マンダラのような多元世界を次々と産み出していく。
 ヒーリング・アーツによって精細に磨かれた感性は、日常のありふれたものごとの中に満ちあふれる美的生命を敏感にとらえる。
 一挙手一投足がヒーリング・アーツによって律されるようになれば、そこから自ずと韻律・活気が生じてくる。他者と深いレベルでつながり、いやし合い、高め合い、助け合うことができるようにもなる。
 そのようにして私たちの生[せい]は、豊かに成熟し続ける不断の創造となる。
 その時、生きることが即、いやしの道だ。

<2010.04.14 鴻雁北(こうがんかえる)>