<桜浄土> 帰神撮影:高木一行 2014.04.04 帰神ミュージック:高木美佳

桜浄土 ライナーノーツ

高木一行

[ ]内はルビ。

 本作を、ウルグアイ第40代大統領ホセ・アルベルト・ムヒカ・コルダノ氏に捧げる。
 その勇気と聡明さ、不撓不屈の意志を讃えて。

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 日本人の桜好きは、今や諸外国でもあまねく知られるところとなっているらしい。
 そして、絢爛[けんらん]と咲き誇る桜の花に強い感銘を受ける人は、日本人だけに限ったことではないようだ。
「チェリー・ブロッサムを見に、日本へ行きたい」と真顔で語る人と、外国で何度も出合ったことがある。
 一体、桜の花の何が、私たち日本人の心をかくもとらえるのか。武士であり僧侶であり歌人でもあった西行(さいぎょう:1118〜1190)は、桜の花をこよなく愛したといい、彼の作歌の1つ、『願わくは 花の下[もと]にて春死なむ そのきさらぎの 望月[もちづき]の頃』でいう「花」とは、いうまでもなく桜の花を指す。ちなみに、西行がこの作品を詠んだのは、死の10年以上前のことだが、願いがまさにかなう形で、如月[きさらぎ]16日(望月は15日)に、静かに肉体を離れたことが、当時相当な話題となったらしい。 

 厳しい冬の間、葉をすべて落とし丸裸でじっと寒風に耐えていたものが、喜ばしい季節の到来を告げるかのごとく、生命[いのち]の歓喜を全身全霊で一気に吹き出す。
 春の到来に伴ってしばしば日本列島を吹き荒れる強風に、激しく揺さぶられ、波打ち、振るえ、渦巻きながら、桜の花々は歓喜と感謝の舞を乱舞し続ける。

 二元性を統合止揚する超越的な意識モードにて、形や動きの内面にある実存のエッセンスを写し撮ろうとする試みを、私たちは「帰神撮影」と呼んでいる。「帰神」とは古神道の用語で、元来は神々の意を伺い、託宣を得るための交神術を意味した。
 本作を帰神撮影した舞台は、近所の公園。龍宮館(自宅兼アトリエ兼合宿所兼サロン)から、車で数分もかからない。
 前日から強い風が吹き、冷たい雨もたっぷり降り、もう散り始めているかと思ったが、どうやら今年の桜はかなり「しぶとい」らしい。
 突発的に起こる強風をむしろ楽しむかのように、梢[こずえ]まるごとでザワザワ揺さぶられ、しなりながら・・・・生命の歓喜にうち振るえている、踊っている、流れ渦巻いている。
 桜の花の海にどっぷりつかりながら、禊[みそぎ]祓[はら]われる爽快。
 私が提唱してきたヒーリング・アーツでは、表面的な個々の事象(部分)に注意を向ける一般的な視覚のあり方を「見る」と表記し、部分にとらわれない総括的でトータルな「みえ方」を「観る」と別に記して、両者の違いを強調している。
 視覚を、「見る」ことから「観る」ことへとシフトさせる具体的方法については、旧ヒーリング・ネットワークのウェブサイト内に詳述してあるから、関心のある方はそちらを参照されたい。※)
 私は、人類が潜在的に有する視覚の可能性について語っている。近い将来、誰もがごく当たり前のように備えるであろう、新たな「み方」「みえ方」。
 百年前、ゴッホを理解できる者は、画家仲間ですら1人もいなかった。生前のゴッホに比べれば、 私たちを取り巻く状況は、「ずっとマシ」といえるかもしれない。ちょっとした訓練で(おそらくは〕誰でも新しい視覚体験を獲得することができ、それによってありふれた日常の光景に、深遠さ(深み)、清冽(クリアー)さ、美、が多層的に備わるようになる。
 それは、人生を計り知れず豊かにする。
 そのような意味において、私は「芸術」という言葉を使っている。

 私が言う芸術とは、特別な才能ある者だけが関わることができる特殊な技能とか、それによって生み出された作品、あるいは有閑階級の趣味・嗜好などを・・・まったく「意味しない」。
 まあ、堅苦しいことは抜きにして、子供みたいに素直な心で、無邪気に目をぱっと観開[みひら]き、作品と向かい合っていただきたい。
 視覚をダイレクトに変容させる何らかの手段とアクセス可能な(いわば)特権階級的な立場にある方は、是非それを活用しつつ、諸々の帰神フォト作品と向かい合われるがよい。その真の凄さ(というよりは凄まじさ)、意味を直ちに理会(全身全霊でわかること)あるいは直感することが、できるはずだ。
「命をかけて撮っている」と私が言うのは、決して比喩とか誇張では、ない。
 私の生き方、生き様そのものが、写真として表現され、写し出される。百万言を費やすよりも遥かに饒舌に、雄弁に、私という人間の「在りよう」、私とはいかなる人間であるかを、1つ1つの作品が物語っている。
 芸術の本質とは、自らの魂を、ただあるがままに、さらけ出すことだ。

 本作を貫いて流れる音楽は、この作品のために妻の美佳が創作したオリジナル楽曲だ。
 視覚と聴覚のクロスオーバーによる、新たな芸術体験を、心ゆくまでお楽しみいただきたい。 

 あちこちで凝集したり、放射状に広がったり、波打ったり、流れたり、振るえたり、渦巻いたり、・・・しているのは一体どういうわけか、どんな仕掛けか、などといかめしく詰問したもうな。
 別に種も仕掛けもありはしない。
 私はヒーリング・アーツの応用である龍宮道の原理を使って、人体の螺旋原理に基づき、舞いながら帰神撮影している。
 そうした私の動きが、自然界の構成原理である螺旋構造と響き合い、写真画像に反映されてくる。ただ、それだけのことだ。
「それだけ」のことではあるが、写真表現の手法としては、これまでになかった、まったく新しいものといえるかもしれない。私は「手法」など、まったく意識することなく、ただ身体が自然に舞い動くに任せて撮っているだけなのだが。

 晴れているのに時おり小雨がぱらつく、そんな奇妙な天気の中で、夢中になって帰神撮影に没頭したから、レンズに水滴がついていることにも、まったく気づかなかった。そんな細かいところに、私はまったく頓着しない。構図とか、ピントとか、全然気にかけない。
 私はただ、作品を通じて「生命[いのち]の意思」を、人々に伝えようとしている。
 私は、地球生命のメッセンジャーだ。

 我らは、歓喜と感謝に満たされる!!!

<2014.05.11 蚯蚓出[みみずいずる]>

ヒーリング・フォトグラフ、アーティクル。