Healing Sound

ヒーリング・エッセイ 第1回 ヒーリング・タッチ

 ヒーリング・タッチ体験について書いてみます。

 かしわ手の音が鳴り響くと、あたりに一瞬サッと緊張が走りました。その場の雰囲気が一変し、馴染みのあるわが家の一室が、神聖さを帯びた聖地のような超越的フィールドに変わってしまいます。
 私の夫である高木一行は、長年の修練により、ほぼ一瞬のうちに意識レベルをシフトさせて心身統合状態へ入ることができます。そういう時には、よく見知ったはずの夫がまったくの別人になったように思え、神韻縹渺(しんいんひょうびょう)として、間近にいると体が震え出してしまうこともあるほどです。
          
 一呼吸おいた後、正座した私の肩に夫の手が後ろからそっと、柔らかく置かれました。手と肩が触れあったとたん、全身がビリビリ感応し、ある種の電気的、磁気的な交流が起こるように感じられるから不思議です。まるで初めて親密に触れあった恋人同士のように、その瞬間のときめきと感動はいつもフレッシュです。

 ヒーリング・アーツ入門者は、まずヒーリング・タッチから学んでいきます。ヒーリング・タッチとはいかなるものか、それを言葉にすることはとてもむずかしいものです。触れあえば一瞬のうちにわかることが、どんなに言葉をつくしても、文字にすると途端に大きな距離が生まれてしまうのです。

 私の肩に乗っている夫の指は、まるでフワフワの羽毛のように軽く、繊細であるにもかかわらず、なぜかしっかりした力強さ、頼もしさがあります。
 まもなく私の肩が、突如として存在感をありありと現わしはじめました。まるで、それまで肩など存在しなかったかのようで、「私の肩って、こんな場所にあって、しかもこんなに厚みがあったの?」と、ふと自分の肩を見て確認してしまいます。自分では、もっと前についていて、薄っぺらなものだと思いこんでいました。

 ヒーリング・タッチの触れあいによって生まれる波は、身体の外へは動きません。すべて体の中に浸透してきます。肩の中で行ったり来たりするその波は、それまで完全な静寂に包まれていた肩という空間の中に鳴らされた、複雑な波長を持つ音のようです。
 気持ちのよい衝撃波が肩の中を突きぬけ、波と波同士がぶつかりあい、そこからまた新しい波が生まれる。いくつもの波が出会って、溶けあい、揺さぶりあい、交錯しながら、精妙なハーモニーを奏ではじめるのです。

 単純な波形を持つひとつの音の上に、つぎつぎと倍音が積み重ねられていくと、音に豊かな質感がそなわるようになります。そんなふうに、触れあった部分そのものから、豊かな響きの共鳴を自在に引き起こす力が、ヒーリング・タッチにはあります。「触れるか触れないかという程度の軽さ」で触れあうことで、この神秘的ないやしの共振が起こるのです。

「倍音」というのは一般には聞き慣れない言葉ですが、私たちのまわりで鳴っている自然の音には、実はほとんど倍音が含まれていて、人間の声も例外ではありません。電気的に合成された音には倍音がまったくないものもありますが、例えば時計の時報を聞けば、誰でも単調で電気的、無機的な音と感じるでしょう。
 倍音の組み合わせによって、ピアノならピアノ、ヴァイオリンならヴァイオリンの音色というように、音に決定的な特質がそなわるようになります。調和した響きの和音も、倍音列がもとになって構成されています。
 打楽器のように、誰でも叩けば簡単に音が出るような楽器ですら、叩く人によって出てくる音色にはびっくりするくらい差があります。一流の打楽器演奏家が鳴らす音には、深みと温かさ、鋭さ、透明感があり、遠くまでよく響く抜けのよさがあります。
 これとまったく同様に、人間の器を広げ、無限の可能性をひらくことができるのが、ヒーリング・タッチなのです。それはひとりの人間という楽器を、一気にグレードアップさせてしまう秘術といえるのではないでしょうか。
 
 夫のヒーリング・タッチは、決して停滞したり、単調になったりしません。自信と確信に満ちた流麗な音楽のように、もっとも適切なテンポとリズム、軽さと深さ、強弱、波の大きさをそなえ、そして波と波の間に忽然と現われるまったき静寂があります。その間合いは、音楽でいえば音と音の間に存在している空白の時間に相当します。この空白にどれだけ意識がこもっているかで、音楽の「ノリ」、グルーヴ感が決まるのです。頭で考えたのではとても追いつけない、絶妙なタイミング。
 音楽の場合、音が鳴っている時を「オン」とすれば、空白の時間は「オフ」ととらえられます。普通はオンばかりに意識がいってしまい、オフがおろそかになりがちです。けれど、このオフをコントロールできないと、音楽演奏はぎこちないものとなってしまうのです。
 夫のヒーリング・タッチは、オンとオフの完璧なバランスのもとに成り立っています。空白の時間、その手はピクリとも動かず、私の肩に置かれています。時が永遠に止まったように感じられる中で、体も、心の働きも、思考も、静まり返った湖面のように動かなくなります。そしてある時には、静寂の中、裡[うち]側から突き動かされるように、自然な動きが体自身から現われてくることもあります。それは、普段の自分ならやろうと思ってもできない、滑らかで、しなやかで、細やかな動きです。

 いやしの波紋が、徐々に魂の深みにまで浸透してくるにしたがい、私はより軽く、自由な世界へと解き放たれていきます。自分の肩がこれほどの気持ちよさに満たされるとは、実際に体験してみなければとても信じられないほどです。
 肩の中のこわばりが、少しずつヴェールをはぐようにほどかれていくと、重荷をひとつずつ降ろしていくような安堵感に包まれていきました。
「なぜこんなにも、よけいな重荷を背負って生きているのだろう・・・」そんな思いがふと心をよぎります。肩のこわばりは、確かに「重荷を背負う」感覚と直結しているようです。二の腕にいたる三角筋にまで夫のタッチがおよぶと、そこまでが肩であるという認識・実感を生理的に体で理会できます。
「ああ、なんて肩身がせまかったんだろう・・・」と、ため息とともに喜びの声が思わず出てしまいました。実際の肩はとても広かったのです。
 おもしろいことに、肩に施術を受けているだけなのに、子宮にまでズンズンと気持ちよさが響いてきます。子宮の中で小さなみずみずしい粒子たちが、ある一定のリズムを持って活発に振動しているかのようです。この気持ちよさ、エクスタシーこそ、いやしの原動力なのではないでしょうか? ただ存在しているだけで、ものすごく気持ちがいい。何のこだわりも、執着もなくなってしまいます。たとえ一時ではあっても、こんな境地を味わってしまえば、以前の自分と同じではいられません。
 徐々にまわりの空間と自分、そして夫との境がなくなり、融合して、全宇宙と一体となっていくかのような歓喜に包まれていきました。体の裡にピッタリと意識がおさまっている充実感、安心感を感じると同時に、肉体の枠組みを飛び出して、自由に羽ばたいているような実感があります。こんなにもダイナミックな瞑想の体験があるでしょうか?

 肩へのヒーリング・タッチを受けることおよそ15分。やがて奇跡の手が私の肩から離れると、全身におよんだヒーリング波の余韻に導かれるかのように、私はその場に崩れおちてしまいました。「ああ・・・」ため息以外、何の言葉も出ません。ただあるがままの自分がいて、生きていることにたいする感謝と感動に満たされています。深い内的宇宙へのトリップが、このヒーリング・タッチによって起こったのです。それは誇張でも何でもなく、ただありのままの事実です。
 夫の手と指は、時にやさしく、軽く、まるで触れられてすらいないのではないかと思えるほどの柔らかさで、時には全身をしっかりと包容されているかのように強く逞しい力を感じさせるタッチで、私の肩と一体化していました。磁石か吸盤でくっついているかのように、吸いついて離れない不思議な手なのです。

 その日の夜中、熟睡していた私は、体中を貫くようなエクスタシーに打ち震えながら、布団の中で目覚めました。全身がビクビクと痙攣し、脈打っています。ヒーリング・タッチをたっぷり受けると、時にこういうことが起こります。自分の体の内側で、陰と陽とが出会って爆発し、まるで宇宙との交合が起こったかのような、すさまじい体験です。
 その強烈な気持ちよさの余韻にひたりつつ、私はまた静かに目を閉じて深い眠りにつきました・・・。

 数日前のヒーリング・タッチ体験をできるだけ詳細に書こうとしてみましたが、やはり言葉で表現できないもどかしさ、歯がゆさは拭いきれません。しかも、ヒーリング・アーツの経験は1度たりと同じものはなく、毎回まったく違っています。その度に、私は新しい自分と出会い、生まれ変わります。自分の中に眠っていて、自分でも気づかない、それまで隠されていた可能性がひらかれていくのです。私の生活は日々、そんな奇跡の連続です。

<2008.05.08>

 付記
 約2年前、私は上記のように書いた。今、これをあらためて読み返しながら、同時に夫からヒーリング・タッチを受け、自分がかつて記した一言一言を丹念にチェックしてみた。そして驚くべきことに、すべて「その通り(事実そのまま)」であると確認した。 <2010.3.30>