太靈道断食法講義録 第5回

第2節 聖黙の要領

 我らがまったく個性我を脱却し、意志表示をも超脱して、聖黙の状態ますます深きに至る時、自己の姿が3の字の形になって見ゆるようになる。そして、その3の字が次第に拡大されて、ついには無限大となり、聖黙実修者は寒さも暑さも感じることなく、ただ3あるのみに至る。さらに、寒さ暑さ等の感覚にとどまらず、何物をも知覚しない状態になってくる。
 これは、真靈顕現の境地に入る道程であり、それより進めば真に顕現の状態となるのである。この状態となった時は、よく問に応じて答え、少しも凝滞なきに至るのである。
 これは、大正十年五月の入山において行ない、さらに九月の入山においても行なった事柄であるが、この境地に入っている予に向かって、入山の人々より何らかの問いが発せられた場合、その問のいまだ終わらざるにも関わらず、すこぶる急速に、かつ峻厳に応答をなし、それが一々首肯にあたらざるはないと、人々をして驚嘆せしめたそうである。これは顕現状態に入れる予としては何ら知るところなく、それを目撃した人の話を総合して初めて知り得たような次第である。
 もちろん、これは1日くらいの断食によりて実現することは不可能である。少なくとも1、2週の断食によりて靈力の旺盛なるに至り、聖黙を修する時は、数分ないし数十分にしてその境地に入り得ることは、予自身も経験し、確認するところである。
 しかし、かかる靈的修法は、決して予1人独占を称すべきものではなく、一般の人々も極めて慎重なる注意の元に、断食と聖黙の修養を重ねて怠らざる限りは、ついに顕現状態に入ることが可能でなければならないと思う。ただ従来において、完全にその境地に入り得た人がなかったということだけは事実である。

第8章 断食と法唱
第1節 法唱の意義

 法唱を継続すること長きに及べば、その発声によって靈的に、精神的に、また身体的に、何とも形容することのできない、妙融なるある特殊の感を生ずるに至るのである。それはあたかも、微妙なる音楽によって惹きつけられるような心地に導かれゆくのみならず、体温も血流も細胞の活動もまた、普通と異なるに至るのである。
 このことは反対に考えてみれば、かえって理解を容易ならしむるであろう。すなわち、我らが汽車に乗りて旅行する時、その軋る音によって不快な感を生ずるのみならず、心臓の鼓動にまで変化を及ぼすものである。かくのごとく、音というものは人間の肉体に、精神にまた靈にまで深い関係を有するものである。
 太靈道の法唱は、音楽でもなくまた歌謡でもないが、人間そのものの自然の調節に適った声音である。
 漫然とこれを考える時は、法唱は必ずしも「全真太靈」に限るには及ばないようである。しかし、無意味なことを唱えるのであっては、そこに真の力がこもることとはならない。で、その内容のほとんど超限であるべき「全真太靈」を唱えることになっている。「全真太靈」を太靈道の法唱として、太靈との融会を熱求し、太靈を賛美し、太靈を渇仰するすべてを現わすものは、「全真太靈」のほかには適切なものがないのである。
 今、太靈道以外の法唱について一考するに、「南無阿弥陀仏」の名号、「南無妙法蓮華経」の唱題のごときは、音律的に見る時は、どうしても適当なものであるとは言い難いのである。ただナムアミダブツと読む時には、1音の連続になるが、そう呼んだのでは意味をなさないことになる。もしこれを、意味を表わすためにナム、アミダ、ブツと読む時には、2音、3音、2音となって、音律的に見て不完全である。少なくともこれは、音律と意味が一致していないのである。南無妙法蓮華経についても、同一のことが言い得るのであって、2つとも完全なものではないのである。題目だけを唱えて、信仰の全部を表わそうとするような人も見受けられるが、それだけでは実際の意味を表わすには不完全であり、実際においてもその意味を表わしていないのである。
 翻って太靈道の法唱について考察するに、「全真太靈」の法唱を多数の人々が齊しく音唱する時は、心臓等に故障がある人のごときは、自然に治癒するに至るのは、実験して誤りのないところである。しかも、その音唱を断食の際長く続ける時は、音唱する人の脈拍もそれに一致するに至る。
 何の故にこの法唱がこうした働きをなすかというに、太靈の意義と法唱の音律とが完全に一致しているからである。かくて、その法唱のいずれの字を取り出してみても、太靈との関係を適切に現わしているのみならず、いずれも2音ずつよりなって、音律の上からいっても、実によく整っているのである。世にいまだかくのごとく音律上の整形を持ち、絶対の意義を適切に現わした法唱はなかったのである。

第2節 音唱、黙唱

 いまだ道に入らざる人が、法唱が音唱さるるのを聞いたならば、異様な感を持つことがあるかもしれない。しかし、唱えることが異様だとしたら、すべての歌唱も異様なりということになる。それが異様でないとしたならば、法唱に限って異様だということはないはずである。要するにそれは耳慣れないからであろう。
 しかして前にも述べたごとく、法唱によって靈的に、精神的に、身体的にもたらすところの効果は実に大なるものがある。人々は法唱をもって、ただ一時的にその場において唱うるものであると思うかもしれないが、事実自分の唱うる法唱の影響は、宇宙全体の機制と相感応しているのである。1度唱えた法唱の影響と印象とは、決してその場限りに消滅すべきものではない。その唱える声音は、我らの聴覚にはその場限りに消え去るであろうが、その音波は宇宙に広がり、またそれが環境のすべてに与えた印象は永久に滅すべきものではないのである。
 音唱はかかる性質のものである上に、一定の意義と音律とをもっている言葉を唱えるということは、実にその意義の深甚なるを思わせらるるのである。法唱の音唱は、人の心身を支配して、ただちに靈に融合する妙機を与えるものである。靈との融合を欲する人々にとっては、必要欠くべからざること論をまたない。
 しからば法唱を黙唱する結果はどうかというに、音律によって環境の種々相に影響することはないが、あたかも思念と同一の意味において、音唱と等しく絶対及び宇宙と相感応するのである。場合によりては、音唱よりもかえって深くそして莫大なる効果をもたらすことがある。
 要するに、法唱が音唱であれ黙唱であれ、それをして太靈との融会を図る妙機たらしめんとするには、その法唱の意義と音律との一致を得たものとしなければならない。この意味から見る時、太靈道の法唱たる「全真太靈」は、実に適切であり、他にこれに代えるべき何物もないという理由が確乎として存するのである。

第9章 断食と顕動

 断食と顕動との関係を述べるに先立ちて、それはすでに断食と生理作用との節における講述と相関連することを一言しておきたい。すなわち、靈子作能というものは、断食中においては消化吸収の方面に用いられる必要がないために、体内に充満するに至り、顕動作用となって旺盛に発動するものである。ここでは顕動作用について繰り返して縷述することをなさず、顕動に関して現意識と超意識との関係を講述することにしよう。

第1節 現意識

 およそ顕動作用は、有意識の場合においても発動するものであることは、修靈者のすでに熟知することでもあり、また有意識の状態のもとにありては、その作用の遅速緩急強弱等を、意識によって支配し得るものなることは周知の事実である。
 すなわち、意識ある場合には、その意識によりて作用の遅速・強弱を自由に支配し得るものである。したがって、この現意識顕動のもとにありては、意識によりて作用が支配され得るために、治病等に向かってその作用を応用することも自由であるわけになる。
 その他の応用にありては、それほど自由に行くことは期しがたい。これはどうしても、さらに進んだ超意識顕動の応用によらなければならないのである。
 けれどもこの顕動の効果については、超我の修養が相当にできている者であれば、仮に現意識の状態における靈能のみによりても、相当の効果をあげ得るものである。
 その現意識状態の深化を図り、その状態のもとにおける靈能を増進させることは、断食によりて初めて可能であるといわなければならない。

第2節 超意識

 前節に述べたる現意識顕動が進められ、深められて超意識顕動になると、顕動の発動する手掌はまったく超意識的に疾患部に行き、あるいはそこに密着さるに至ることがあり、知らず識らずの間に患部を押擦する状態になることもある。以上は、超意識顕動の場合にその作用が治病の方面に働く時の状態を述べたのであるが、この超意識の顕動は、真靈格の発動及び全靈の顕現の道程にあるものにして、究竟はその境地にまで進まねばならぬものである。
 則ちこれは真靈の発動、全真のそ顕現に至る道程にあるがゆえに、そこにまで達するには自ずから階段を経なければならないのである。しかしてこの階段なるものが、すなわち断食である。
 靈子法の体得なき者にして断食を行いたる時、あるいは疾患者にして施法を受けたる時に、超意識顕動を起こして、無意識のうちに治病の形式を取ることがある。
 作用の体得なき者にしてすでにかかる現象ある以上、靈子法体得者にして超意識顕動を発動し得べきことはもちろんである。顕動の性質としては、現意識顕動より超意識顕動に進むべきものであって、その修養の適切な方法は断食にありということになるのである。

第10章 断食中の注意

 断食を行なうといえども、断食中において守るべき種々の注意なる欠く時は、その成果をして無効・無意義ならしむることあるのみならず、ひいては様々な故障及び弊害をさえ生ずることあるがため、次にその注意事項について講述することにする。

第1節 天候の注意

 天候と人間の生命とは、密接なる関係を有するものであって、好天の時には気分において晴れ晴れしさを感ずるのみならず、すべて体組織・体細胞等の上にも影響して、身体の機能がすべて敏活旺盛に赴くのである。
 これに反して、曇天・雨天等の場合においては、憂鬱な鈍重な不快感を覚え、体組織にも不良の変化を生ぜしむるのである。
 断食中においては、すべての体組織すべての精神作用が著しく微妙な感受性と作用とを増進するようになっているため、天候との関係においても一層密接の度を加うることになるのである。しからば断食を行なうにはいかなる天候を選ぶべきかというに、なるべくならば快晴の日をもってよしとなすのである。とはいうものの、日光の照射があまりに強烈なる日は適当ではない。なぜというに、こうした日には心が自然と散乱しやすい状態にあるがゆえのみならず、疲労を覚えることもしたがって多いのである。
 されば、好天気といっても空には多少の白雲があって、日光の照射を和らげるくらいの日を最も理想的とするのである。ただし、短期断食、特に1日の断食においては都合の良い薄日和を選ぶことができるとしても、長期の断食においては、その全期を通じて好天を得るということはほとんど望むべからざるところである。されば、日光の照射強烈なる日に遭遇することあらば、テント等を張りて、日光の照射を避くる方法を講ずるがよいのである。これは、日光の照射をまともに受くることによりて、体力が減殺されることあるを防ぐためにするのである。
 断食中日光浴を行うは、奨励すべきことである。日の出後2時間くらいの間において、約10分内外の日光浴を行うのは最も良いことである。さらにこれを理想的に行なわんとするには、山間において暁天の白む頃より冥想を行ない、雲縁が金色に染まる時刻を待って日光を浴びれば、断食中における日光浴として最も希望するところである。かくすることは、断食の効果をして幾倍ならしむるかを知らないほどである。朝の日光浴とともに、夕方の日光浴も、空気の清澄なるところであれば行うべきことである。
 断食中、雨に濡れたる時は、決してそのままにして断食生活を続けてはいけない。必ず全身の水浴を行ない、全身に渡って手掌をもって摩擦しておく必要がある。手掌の届かない部位は、乾きたるタオル様のものにて摩擦するがよろしい。この場合、特に腹力を充実せしむることが必要である。
 雪の降る日には、外出を禁じなければならぬ。もしやむをえずして外出し、雪に濡れたることありとするも、雨に濡れたる時ほどには、水浴の必要を認めないのである。
 暴風雨の日には、努めて外気に接せざるようにすることを要する。なぜならば、かかる時には断食に必要な沈静の気を失わしむるに至るおそれがあるからである。

第2節 気温の注意

 人間の身体は、その時の気温に適応するような組織になっているのではあるが、断食中には特に注意を払い、被服をもって気温に適応するように努むる必要がある。
 被服以外に、気温に対する適応を補う意味において、さらに一つの方法がある。それは、顕動の実修であって、特に身体と気温との適応を目的とする時は、顕動をその発動のままに任せず、強烈に起こってくるその作用を、ジーッと抑圧することによりて、靈子の力を体内に充満させる必要がある。