Healing Discourse

ボルネオ巡礼:2009 第3回 豊かさのアート

 何頭もの巨龍がダイナミックに絡まり合っているような入道雲が、水平線から天に向け激しく沸き昇っている。
 シパダン島からスピードボートで約20分。穏やかな浅瀬に囲まれるマブール島に隣接して建てられた水上コテージ群。
 シャレーのバルコニーに立ち、足下に広がるエメラルドを溶かし込んだような透明な浅瀬をのぞき込む。
 小さなタイマイ(ウミガメの一種)が、すぐそばを泳いでいった。青い斑点が素敵なヤッコエイが、砂地で一休みしている。
 珊瑚の中にピタリと納まったシャコガイは、海の女神の官能的な唇のよう。海底に捺(お)された奇妙な手形は、ゴツゴツしたコブヒトデ。
 そこら中に小魚がいるから、パンをちぎって投げ与えてみた。すると、ずんぐりしたホシサヨリがいっぱい集まってきて、あっという間にガツガツ平らげてしまった。

海の上に建つ水上コテージのヴィレッジ。マブール島。

 ヒーリング・アーツとは、豊かさのアートだ。豊かに生きる術(すべ)を、各自が探求していく<道>だ。
 かつての私は、1を1と感じるだけだった。
 しかし今は、その同じ1を、十にも百にも細分化して感じることができる。これこそ、私たちが「豊かさ」と呼んで憧れるものの本質だ。
 人が豊かさを求め、何かを百倍、千倍と外部に拡大していく時、彼女/彼が真に欲しているのは、実は内面奥深くで盛大かつ精細に弾(はじ)け踊るヒーリング感覚なのだ。
 それは、外側の世界をいくら探し求めても決して手に入らないものだ。自分の外で得られるものは、所詮かりそめの豊かさであり、豊かさの幻影にほかならない。
 幻の豊かさに、人を真にいやす力は、ない。物質的にいかに恵まれていようとも、感覚を精密にほどく術(すべ)を知らない限り、その人が豊かな歓びに全身丸ごとで浸されることは決してない。

 ヒーリング・アーツに通じた者は、豊かさの味わいそのものを、自らの心身にダイレクトに喚び覚ますことができる。内なる豊かさは、物質的境遇に直接影響されないから、あなたのライフスタイルがいかなるものであれ、それを直ちに<豊かさ(ヒーリング)>で満たすことができるのだ。
 そのやり方を会得するには、最初ちょっと骨が折れるかもしれない。が、いったんコツが分かれば、人生万般に応用し、直ちに素晴らしい偉功を体感できる。
 そして私の経験によれば、豊かな内面生活は外的境遇にも、好ましい影響を自然に及ぼしていくようだ。

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 ここセレベス海では、サンセットも重層的で立体感がある。夕焼けの色使いやタッチも、日本ではあまりお目にかかれないような、力強く大胆なものだ。
 妻と並んでバルコニーのウッドデッキに寝ころび、残照が西の空を刻々と彩っていく様を、観の目に映し出す。
 間もなく、過去や未来にさまよい出ていた想いが、「今、ここ(now & here)」に戻ってきて、体と心がスーッと一体化していくのを感じた。こういう時空の反転感覚に全心身を委ねることを、ヒーリング・アーツでは「レット・オフ」という。

 セレベス海を渡る風が、私たちの身も心も爽やかに吹き抜けていった。

 過去への悔恨からも、未来への思い煩いからも開放されている・・・・。この、囚われなき自由無碍(むげ)の状態こそ、瞑想と呼ばれるものだ。何もせず、ただオフの巻き戻し感覚の内で静かに寛いでいること(レット・オフ)の至福——。古来より、様々な人々が生涯をかけて、瞑想を追求してきた。
 おそらく多くの人は、これまでの人生で幾度も瞑想と出会いながら、それが孕(はら)む粒子的豊かさを見逃してきたのかもしれない。
 
 夜の帳(とばり)が降りるに従い、頭上で星々が瞬(またた)き始めた。自分は今、宇宙の黒々とした深淵をのぞき込んでいるのだという事実にふと思い至り、粛然とした気持ちが胸中に満ちる。
  
 豊かさの本質は、粒子的だ。そして、非常に細やかだ。それは、あらゆる芸術に共通する根源感覚でもある。
 メドゥーサ修法(観法)は、私たちの中で眠りこけているアーティストの感性を目覚めさせる術(わざ)だ。視線を意識的に操作することで、目(人体の中で最も鋭敏な箇所)に微粒子的振動を起こす。
 遠くや近くに目の焦点を移すと、それに伴い眼球の厚みが変化することはご存知だろう。メドゥーサ修法は、眼球のそうした弾力性を巧みに利用する。
 視覚のメタモルフォーゼに伴い、世界に対する認識そのものが変容を来(きた)す。観の目に映る世界はダイナミックで複層的、そして明るく鮮やかであることは前述したが、それだけでなく世界の「質感」も変わる。
 万物の隅々にまで、活き活きと踊るような生命力が浸透しているのがリアルに感じられる。世界が、親しみに満ちた挨拶を送ってくる。あなたと世界が響き合い、生命(いのち)の楽の音(ね)が奏でられる。

 仙道内丹術のテキストとして私が多くを学んだ『太乙金華宗旨』には、メドゥーサ修法と同様、目から意識を反照返向させることの重要性が説かれている。また、現代インドの覚者・OSHOも、ろうそくの火などを一切まばたきせず長時間見つめる伝統メソッドを、弟子たちに勧めていた。
 ヒーリング・アーツも目を重視し、独自の手法を通じて視覚にアプローチしていく。

 単行本で解説した<メドゥーサ修法:レベル1>を、さらにバージョンアップさせる要訣(重要秘訣)を、ここで1つご紹介しよう。
 適当な1点を視点として定めたら、それをじっと凝視しておき、その「凝視する」ことをオフにする。そしてオフに委ね続ける(レット・オフ)。この間、視点をずっと変えない(眼球を移動させない)。・・・これが<メドゥーサ修法:レベル1>のフォーミュラだ。
 この術(わざ)のコツがつかめてくると、レット・オフに伴い視線が「逆流」するのが、ありありと感じられるようになってくる。こういう、通常は隠されて気づかない虚の反転感覚をなぜわざわざ探し求めるかといえば、それが豊かさや歓びを容(い)れるための器にほかならないからだ。

 <メドゥーサ修法:レベル1>を成功させる秘訣は、視線を「粒子の連続体としての線」として扱うことにある。
 通常、私たちはいきなり目標点に注意を集中させようとする。目標のみに注意を奪われ、途中のプロセスを無意識の内に端折(はしょ)ってしまう。これは、目的志向の見方といえるだろう。
 ヒーリング・アーツが指し示すのは、それらの点の間だ。その間合にこそ、無限の可能性が豊かに秘められている。
 
 顔の前に立てた指先をじっと見つめつつ、その指先をゆっくり遠ざけたり近づけたりする練修をしてみれば、「視線の粒子的運用」と私が言う意味がおわかりになってくると思う。指の動きにつれ、目と指の間に張り渡された視線が、引き伸ばされたり圧縮されたりするのが、如実に感じられるはずだ(途中で1度でもまばたきしたり、指先の凝視をやめたりしないように)。
 そうやって視線を充分張っておき、ギターの弦をつまびくように、そこに振るえを起こす。そのためには、見つめるという行為を粒子状に感じ取り、視点を変えることなく、「見つめること」だけをレット・オフする。
 こんな風に視線を自在に使いこなせるようになるまでには、長年月の修練が必要だ。しかし、それだけの価値は十二分に、ある。

 世界が軟らかに、流動的に感じられ始めたなら・・・、そして世界との境界が揺らぎ始めるのを感じたら・・・、それは、あなたが世界との出会いに向け正しく歩んでいる証(あかし)だ。

<2009.07.10>