Healing Discourse

ボルネオ巡礼:2009 第4回 いやしの華やぎ

 花を捧げたいと思った。
 この素晴らしい<いやしの道>に。
 偉大な先人たちに。
 探求と実践の道を共に歩んできた同朋(とも)たちに。
 そしてできることなら、ボルネオ巡礼にふさわしく、この地に咲く謎の花・ラフレシアを献花したかった。

「You are lucky!」
 セレベス海での禊(みそぎ)をたっぷり楽しみ、サバ州の州都コタキナバルに戻った途端、空港で私たちを出迎えてくれた顔なじみのドライバーがそう言った。
「今ちょうど、ラフレシアが咲いてるそうだ」

 根も茎も葉も持たず、一輪の巨大な花を他の蔓植物から咲かせるラフレシアは、ご存知の方も多いと思うが、蕾の成長に1〜2年かかり、いったん花が咲くと、わずか数日でしぼんでしまう。
 出会うためにはかなりの幸運が必要だと、事前にいろいろな人から聞かされていた。今のところ栽培不可能。ジャングルの中のどこで、いつ咲くかも予測できないという。
 だから、大ぶりの花が今ちょうど見ごろになっていると聞いた時は、うれしさのあまり天にも昇る心地だった。

 翌朝、早速そのサイト(現場)を目指した。
 コタキナバルから車で約2時間、聖なるキナバル山(東南アジア最高峰)の麓(ふもと)に暮すドゥスン族の村のそば。
 妻と私は、ジャングル・シューズに履き替えて車を降り、村の青年の案内で密林の奥へと歩みを進めていった。
 このあたりは標高八百メートルほどということだったが、ひんやりした空気が異様なほど爽やかに感じられ、ただならぬヒーリング感覚に少し驚いた。

 昼なお暗いジャングルの光景を楽しんでいると、唐突に、「それ」は現われた。
 ラフレシア。ジャングルの精気が焦点を結んで出現したような、あでやかな朱(あか)の花。
 うやうやしくラフレシアと向かい合い、そっと合掌して、柔らかくかしわ手を打つ。
 別に花を拝んでいるわけではない。この神秘的な花を産み出した偉大な生命の潮流と、私たちをこの花と出会わしめた妙(たえ)なる縁(えにし)のネットワークとを讚えつつ、自らの内面を通じて霊的献花の祈りを捧げたのだ。

 いやしの道に栄えあれ。
 いやしの術(わざ)に輝きあれ。
 いやしの人に歓びあれ。

密林でひっそりと咲く、世界最大の花・ラフレシア。

* * * * * * *

 修養の本質とは、自らを知ることにあり・・・第1回の始めに、私はそのように記した。
 決して観念上の言葉を弄んでいるわけではない。30年近くの絶え間ない研鑽努力を通じ、私がついに見出すに至ったのは、「自分自身を知るとは、心身が統合した状態にほかならない」という真理だ。
 私が語っているのは、自分「について」、頭(言葉)で知ることではない。そういうやり方では、自己の丸ごとすべてをトータルに知ったことにはならない。
 頭は体の端に配置された部分(パーツ)だから、そこを中心として起こる理解は、自ずから偏狭で歪みに満ちたものとならざるを得ない。そしていうまでもなく部分的だ。
 理解とは一言で述べるなら、頭で理屈をわかってはいても、体でそれを実行・実現できない状態といえるだろう。私もかつては、しばしばそういう行き詰まりの感覚にぶつかり、悩み苦しんだものだ。

 これに対してヒーリング・アーツ流の理会においては、行為がそのまま直ちに智(知ること=Knowing)となり、智と行為(動き)とは常に合一する。
 こういう状態を、ヒーリング・アーツでは、「できる」という。「術(わざ)ができる(使える)」、「できる人だ(力量・度量がある)」、「言葉を実行に移すことができている」などの使い方をする。
 理会へと至りたければ、理解を突破するしかない。ブレイクスルーを経て、「できる」状態が拓(ひら)かれれば、あなたのいかなる行為にも、あなたの全身丸ごとがあまねく参与するようになる。「動けば即、術(わざ)になる」といわれる境地が、これだ。
 その特徴をいくつか列記するなら、何をやっても、

体中、どこにも怠けている感覚や働き過ぎの感覚がない。
働くべきところは全面的に働き、休むべきところはトータルに休んでいる。
あらゆる箇所が一致協力して働き、体のどこにも凝りや痛み、鈍さが生じない。
楽である。
すると楽しい。
まるで流れるように、すらすら滑らかに心身が動き、特別なオイル(潤滑油)でも差したみたいだ。
吐く息も吸う息も、滞ることなく円滑に総身を循環する。
健康感が満ち溢れる。

 とりあえず、こんなところだろうか(このリストには、他者からの伝聞や机上の空論は、一切含まれていない)。
 このような動的平衡の境地を、ヒーリング・アーティストは大変な価値あるものとして熱心に探し求め、たゆまぬ実践努力を通じて招来(しょうらい)しようとする。
 身体がこうしたヒーリング状態のさ中にある時、私たちは自らの精神が身体にピッタリ納まっているのを明瞭に感じる。皮膚で取り囲まれた体の形の内部に満ちているもの、それが心だ。
 あなたが何をするのであれ、活き活きと踊る心が全身の隅々にまで行き渡っているのでなければ、残念ながらその行ないに心はこもっていない。そういう時には、肉体的力もまた、思うようには込められないはずだ。

 ヒーリング・アーツとは、心と体を一体化させる術(わざ)だ。心を体に注ぎ入れ、体を心に溶かし込む。
 体と心が交わり合い、心と体の区別がつけ難くなる。そうした統一状態を、ヒーリング・アーツでは「裡(うち)」とか「ボディ/マインド(心身)」などと呼んでいる。
 ヒーリング・アーツの探求者は、客観的に主観を探し、主観的に客観を求める。やがて、主客は一体となり、心身一如(しんしんいちにょ)の清快(せいかい)が、聖なる戦慄として炸裂する。それがすなわち、「ヒーリング」だ。

* * * * * * *

 修法を1つ、2つ。
 メドゥーサ修法を通じて、私たちは自らの内面——自分自身を見つけられる唯一の場所——へと深くまなざしを注ぐ術(すべ)を学んでいく。
 指でつまむようにして眼球をまぶたの上から圧縮し、そのつまむことをレット・オフ。眼球が自然に元に戻ろうとする復元力を、眼球自身の内部へと反射させる。
 そういう修法を、第1回でご紹介した。
 レット・オフを能動的に行なおうと「しない」ことがポイントだ。手放し感覚の中に委ね続けていく。ものごとが起こるに任せる。自分で、何かをやろうとしない。こうなるだろう、ああなるかもしれない、などと予期も期待もしない。
 オフの種子がいったん弾(はじ)けたなら、ただ、開けっ広げのまま待ち、静かに受け容(い)れ続ける。一緒に流れに乗って動いていこうとしない。「それ」を追いかけていったら、あなたはもう取り逃がしている。
 これを「静中求動(不動のただ中に動を求める)」という。

 上記の準備修法をしばらく実践すれば、「理会力」が実際に増大し始めるのがわかるだろう。この事実を、あなた自身が実験して確かめ、実生活の中で大いに活用していただきたい。勉強、ビジネス、研究、ハウスキーピング、何にでも応用できる。
 例えば、こうして私の言葉を読みながら、両目を開けたまま、両手の指先で両眼球をごくわずかに圧縮し、指をレット・オフ。
 すると、言葉が目から腹の中へと流れ込んでき始める(ただし、それにとらわれないこと)。こういう読み方をして初めて、「深く読み」、「言葉を味わう」ことが可能となる。
 あるいは、軽く全身を動かしながら、両目を指先で圧縮する。動きの中で目がどのように使われているか(視点がどういう風に移動していくか)、それをしっかり感じ取れるよう、ゆっくり柔らかに動く。
 そこからレット・オフを使って眼球に振るえを起こせば、目の動きがより粒子的で滑らかに、細やかになる。と同時に、全身の動きも直ちに、目とまったく同じ滑らかさ・細やかさを備えるようになる。
 このように、目は心とも体とも緊密な対応関係がある。なかなか熟達できない人たちを調べてみると、必ず目が無意識の内に強ばっているものだ。それをほどくコツを本人自身が会得した途端、急激な熟達が全身的に起こる現象を、私はこれまで数え切れないほど目撃してきた。

 再び、舞いながら前述のように目を指でホールドし、眼球を凝集する。この時、体にはどんなことが起こっているだろうか? 自分が最も心地よく感じられる範囲内で、ゆっくり柔らかく、連続的に動いていくといい。
 目の圧縮が全身各部と直ちに反映し合い、まるでメドゥーサに見つめられているみたいに体が重く、鈍くなっていくのがよくわかるだろう。
 そこから目に充てた指先をゆっくり、じわじわレット・オフ・・・・。このようにして開放作用を秘め内向させることで、動きの裡にいやしの花が咲く。動きが華やぐ。動きを構成する微細粒子のマトリクス(母体基盤)が、ぱっと一斉に開花する。

 かつて小アジア一帯(現トルコ)で大いに崇敬されたメドゥーサは、目を通じて生命を与えたり奪ったりする女神だ。トルコの人々は今も、メドゥーサの目を象徴するアミュレット(ナザール・ボンジュ)の霊力を信じ、日常生活の中で多用している。
 メドゥーサの<力>との波動的コンタクトを通じて、メドゥーサ修法は御生れ(みあれ:示現)した。それは、「メドゥーサを舞う」際に自ずと現われ出てきた所作を、私独自のやり方で採譜したある種の「型」であり、「身体言語」だ。
 これらの修法を通じて、読者諸氏もまた同じ<力>を感得し、自らの糧とすることができる。修法(しゅうほう)とは、あなた方1人1人と神々との直接交流を可能にする、21世紀の新しい神聖舞踏なのだ。

 目が深く開放されていくに従い、蛇か龍の如き円転滑脱さが心身に宿り始める。その時、あなたは全身丸ごとで、メドゥーサが<おろちの女神>とも呼ばれる理由を体得・理会することだろう。
 メドゥーサの<力>はエクスタティックで美しい。翼を生やした蛇(医術のシンボルでもある)。金属的な虹色に輝く、艶めかしい超宇宙的脈動(パルス)。

<2009.07.12 蓮始開(はすはじめてひらく)>