Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第1章 通身是手眼 〜井上仲子(筋骨矯正術)〜 第4回 謎のスジ

 明治34年に仲子が治療した人々の中に、京都帝国大学総長・木下廣次とその家族がいた。翌年の春、仲子は木下の邸宅に招かれ、そこで松岡道治医学士(後に博士)に紹介された。
「筋」の大切なことを仲子が松岡に逐一話すと、松岡は、「腹にそんなつまめるような筋や、ことに全身に通じた筋は絶対にない」と明言した。
 木下総長が、「それじゃ井上さん、わしの腹で実際つまんでみせ」と言うから、仲子は腹にある筋を1つ1つつまみあげて示した。木下が言うには、「井上さんがつまめば現にこの通りある。しかし何も井上さんがつまんでわかるばかりではない。誰でもよくわかる筋じゃないか。これがまったくないということはできまいが」
 ところが松岡は、「それでも、そんなものがあろうはずがない」と、頑なに言い張ったそうだ。

 仲子は、『最新健康法全書』(西川光次郎著・大正5年刊)の中で、取材に応え次のように語っている。
「医者は、お前のいうような筋はないというが、あるから仕方がない。私は無学であるから何とも申しようを知らないが、実際あるのだから、ないとはいわさぬ。腹から筋が全身に及んでいる証拠には、その筋を揉むとドンナ病気でもなおります」

 仲子が主張した「筋」とはいかなるものだったか? 
 この術(わざ)の統流が、あたかも天地に引き取られるかの如く絶えてしまった今、その実体を正確に知ることは不可能に近い。
 腹の左右の筋を同じ太さになるよう調整すると、被術者の歪んだ体が真っ直ぐになったというから、筋は少なくとも2本以上あったことになる。何本もズラリと並んでいたかもしれない。
 筋というからには、細長いひと続きのものだったはずだが、それはどこから発してどこに向かっているのか? 深さはどれくらいか? 手触りはどんなか? 硬いか柔らかか? いかにして操作するのか? ・・・・・疑問と興味は尽きない。

 いずれにせよ、より広い意味における「腹のスジ(一貫する原理)」を整えることは、東洋的修養法に限らず、西洋式のスポーツやトレーニングにおいても重要だ。
 例えば、腹の中央にある腹直筋は、どこがどういう方向に伸び縮みするのが最も自然なのか? それを解剖学的・生理学的に明らかにした上でないと、腹式呼吸や丹田錬成法などをいくら錬っても大した効果は期待できない。「腹が歪んだまま、無理に下腹に力を入れるのは考えものです。場合によっては害になることもある」、と仲子も述べている。

 腹直筋は、肋骨中央と恥骨の間を橋渡しする大きな筋肉だ。
 この腹直筋の存在感が、上から下まで満遍なく感じられ、しかも左右の感覚がきれいに揃っている人は、非常に少ないだろう。大抵の場合、腹直筋のどこか一部はよく感じられるが、あちこちにポッカリ穴が開いたように感覚が抜け落ちているはずだ。そして、力がよく入るところと、入れにくい箇所があるだろう。
 仲子が、「腹が歪む」と言ったのは、こういう状態に相違ない。要するに、腹直筋の発達がアンバランスになっているということだ。同様のことが、横腹の筋肉についてもいえる。
 
 仰臥し、臍を通って恥骨と剣状突起を結ぶ縦のライン(皮膚面に沿って伸びる)を指先でなぞりつつ、それを腹自体で感じてみるといい。左右いずれかに大きくカーブして、どうしても真っ直ぐにならないだろう。
 この歪んだ線を指で真っ直ぐにしようとすると、背骨にまで何らかの作用が及んでくる。
 腹の歪みは、このように様々な線(筋)として表われる。ヒーリング・アーツのタッチ要訣を応用すれば、それらを押し込んだり、つまみあげたりすることも自在にできる。すると、手足の先まで響いて体の中が張ってくるから、こうしたラインが全身に影響を与えることが、体感的に確認できる。
 もちろん、「これが筋骨矯正術の筋である」などと主張するつもりはまったくない。私はただ、自分自身や他者のナマの身体を通じて知り得たことについて、ありのままに述べているだけだ。
 
 筋骨矯正術の原理を、仲子は次のように説く(井上仲子刀自記念刊行会編『井上仲子』より)。
「ここに一軒の家屋があるとして、その建築当時は全体一分の狂いもなく、至極完全な構造でありましたが、幾年からの年数を経る間に、地震とか暴風とか、種々の災厄にあって、いつともなく柱が歪み、梁(はり)が傾き、鴨居(かもい)が下がるというように、全体が狂ってくるのであります。
 その時に、一番故障の知れやすいのは、日々最も繁く使用する建具の開閉であります。しかるにその開閉が不自由だといって、建具を削ったり、つけ加えたりしても、肝心な柱、梁、鴨居等が歪んでいるのですから、一時修理してもまた具合が悪くなる。また修理する。また悪くなるで、ついには家屋がますます傾斜して転覆の不幸に陥ることがございます。
 もしこれを、最初に建具の具合が悪くなった時に、建具の方はしばらくおき、何のためにこうなったかと家屋全体について精細に点検をなし、果たして建具そのものの加減にあらず、まったく柱、梁、鴨居が傾斜したのによることを認め、すぐにそれを修繕さえすれば、別に建具には手をつけずとも、自然に開閉が滑らかになって、家屋もまた元の完全な構造に立ち戻るのであります。
 人間もこれと同様で、生まれ出た時はしごく完全なものでありますが(生来の奇形は別として)、それが成長するにしたがって五体の使役が多くなり、そのうちに転んだとか打ったとか突いたとか何とか、種々な過傷ができて、その時はさほどに感じなかったことも、いつとはなしにそれが原因となって筋の伸縮が不同になり、そこここが痛みクネる(幾つもに折れ曲がる)こととなる。
 人体の柱梁たる背骨が歪んでくると五臓が各々安住することができず、一方が広すぎると一方は狭くて窮屈になる。血液がそこに停滞し、熱気がそこに凝結し、病毒がそこに集中醸成して、ついに種々の病原となるのでございます。
 しかるにこれを治療するにあたり、その局部局部に向かって治術を施すのは、あたかもさきに申したごとく、建具を削ったりつけ加えたりする一時的療法で、間もなくまたまた再発三発、ついに救うべからざる重体となり、前途有為の士女をして空しく夭折の不幸に陥らしむるのであります。
 このような療法では、いかに良薬を投じても、内臓の錯乱が依然としてある以上は、薬効を充分に廻らすことはできません。ちょうど水道機械の破損したところへ、いくら良水を供給しても、それが流通して衆人の需要にあてることができないようなものであります。
 私のこの矯正術というのは、まず背骨の歪みを治して五臓を適当な位置に直すので、すなわち建具よりはまず柱、梁の傾斜を正すというべき根本療法なのでございます」

 某医師が、頭痛が持病になっている病人などはどのように処置するかと尋ねた。仲子は答えて曰く、
「ここに火鉢の上にかかっている鉄瓶があるとしまして、中の湯がゴボンゴボン煮え立っていると思いなさい。かたわらの水差しから水を注いでやったら、一時はその沸騰がやみましょうが、火鉢に火気がある間は、またぞろその湯が煮えてまいるは当然のことでありましょう。
 もし全然お湯を冷まそうとするには、まず第一に火鉢の火をきれいに消してしまうが肝腎のことと思います。それと同じで、頭が痛むというて頭に目をつけるのは、丁度湯の沸騰に目をつけて火鉢の火はそのままに、ただ水差しの水を注ぐと同様ではありますまいか。
 実際に根治させるには、今一歩進んで、痛むのは頭なれどもそれを傷めさせる源は何であるかを考え、見なければなりません。私は経験上、誰が何と言っても身体の歪み、筋の不平均によると信じておりますから、背骨の曲直を始め、五体の均等、筋骨の異動、血液循環の様子を精細に検(あらた)め、その原動たる下腹の力を計る治療をいたします」

 明治37年の春、「米国に行はるる一種不思議の療法」として、「ヲステヲパセ(オステオパシー)」に関する新渡戸稲造の談話が、大阪毎日新聞に掲載された。
 同年、同紙が井上仲子をとりあげ、「東洋のヲステヲパセ」と題する記事で詳しく紹介している。
 この年、日露戦争が勃発。仲子は、戦役で負傷した将校たちの治療にもあたっている。

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 わが家の庭で、蓮が花開いた。
 それを切り取り、かしわ手を打った手の掌芯(労宮)に茎の部分を正確に充て、「蓮華掌(れんげしょう)」を修してみた。『奇跡の手 ヒーリング・タッチ』でご紹介した修法の応用だ。
 茎(掌芯)を出発点として、花弁に順次そっとタッチ。それにより、花びらの感触に中心が与えられる。
 その中心点からリズムを起こし、粒子的な凝集と拡散の波紋を掌(てのひら)に発生させる。・・・と、それに呼応して、通常の力の感覚を超えた非常に繊細な作用が、全身に満ちてきた。
 形なきさざ波であるレット・オフを自由に重ね、神経に自在なる波紋を描いていく。その波と一体となり、精妙に振るえる。
 蓮の花びらが閉じ、開くような、あまりにもはかなく繊細な作用。・・・これが蓮華掌の基礎原理だ。

 こういう稽古を実際にやってみないと、「手の中心」を真に会得することは難しいかもしれない。ほとんどの人は、自分ではできていると思っても、親指を除く4指側に手の中心が大きくズレている。
 手のセンターへの理会を深めるだけなら、蓮華をわざわざ用意するまでもない。ソフトボールに小さな半球をつけるなどして、これを練修用具として蓮華掌を少しく工夫すれば、手の中心が無意識のレベルでズレていると私がいう真意がおわかりになってくるだろう。
 手の中心に載せたボールを、指で柔らかく包み込んでいく。その時、ボールがわずかでも傾くとしたら、「中心がズレ」ているのだ。
 中心が外れた手をもってしては、いくら腹を探ってみても、そこに「スジ」を見出すことはできない。筋の連続としての面、面の連続としての空間(身体)と触れ合うこともできない。

 蓮の花と一体となり(これは文字通りの意味だ)、気持ちよく全身で風を感じていると、トンボがやってきて花びらにスッととまった。そして、記念撮影の間中、羽根の角度を変えたり首をかしげたりして、あれこれ気取ってポーズを取っていた。 

<2007.08.23 処暑(あつさしりぞかんとす)>