Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第2章 超越へのジャンプ 〜田中守平(太霊道)〜 第8回 太霊道公宣

 風雲去来、明治が大正と改められた元年の冬。
 久しく満州、朝鮮にあって霊徳の感化を四方に及ぼしていた守平は、奉天のラマ教(チベット仏教)寺院・皇寺[ホアンスー]からの招待を受けた。
 皇寺は順治13年(1656)、勅建により造営された寺院で、蒙古のラマ廟中、最高の格式を有していた。その総管長・シロプチャムソは、日本でいうと正一位(注1)に当たる頭等の位階にあり、蒙古の貴族であっても容易に面会を許されることはなかったというが、そもそも異境人たる日本人は、皇寺に足を踏み入れることさえ難事だったのである。
 守平の蒙古行については、その背後にある特別の任務があったといわれ、前後の顛末を詳細に記した資料は、残念ながら残されていない。
 そこで、表面にあらわれた彼の事績の一端を伺うべく、奉天府発行による当時の「奉天新聞」の記事を順に追ってみることにしよう。

「霊的研究をもって有名なる田中守平氏は、今回奉天皇寺ラマ王侯の招待により、昨日午後3時、奉天駅着。ヤマトホテルに小憩の後、出迎えのラマ僧多数を従え皇寺に入[い]れり。
 始め皇寺のラマは、田中氏の声名特にその神秘霊力を慕って、全山の僧侶3百余名こぞって氏の来臨を懇請したるも、氏は容易に承諾を与えざりしをもって、総管長・シロプチャムソは陸軍少尉・守田利遠氏を通じて懇請し来たり。
 ここにようやく田中氏の承諾するところとなりて、いよいよ来奉の事に決定せし由。総管長は田中氏を神人と尊称し、特に東院という貴賓殿を氏の居住にあてることとなしたり」(奉天新聞・932号)

皇寺にて。前列中央が田中守平。その向かって左がシロプチャムソ、その左が陸軍少尉・守田利遠。

 守平は、皇寺に留まること約百日。この間に、寺中のラマ僧3百人はことごとく彼の教えを受け、随喜渇仰したという。注2)
 奉天新聞は、その後の展開を次のように伝えている。

「先に皇寺の招請により来奉したる田中守平氏は、爾来同廟内にあって甚大の勢力を扶植し、ラマ僧3百名はこぞってその門下に入り、ひたすらその神秘力に驚嘆しつつあり。
 特に同廟は、前清朝時代より蒙古の各王侯との関係密接にして、ラマ僧の中にも王家出身の者あまたあり。ことにタラハン王は、是非神人の出駕を嘆願し来たるも、同氏はかねてよりいかなる王侯といえども容易に出馬せざる旨を諭して謝絶したるに、さらに活仏ハカシケケンが特使となりて、30余名の従者をしたがえ、はるばる王府より来奉、重ねて懇願するところあり。
 同氏もやむなくこれを承諾し、いよいよ明朝午前7時30分発、四平街より北を指して蒙古に入るという。ちなみに、皇寺よりはラマ僧多数先導をなし、呉統領は特に30名の護衛騎兵を派し、王府よりは官人多数が四平街まで出迎え、一行の総員約150名に達すべしと」(奉天新聞・1022号)

 守平一行は四平街より北上し、八面城、三江口、丁家屯を経て、王府にたどり着いた。丁家屯に向かう途中、120〜130名の馬賊に襲撃されたが、守平の霊力に接するや、全員武器を投げ捨てて降伏し、逆に彼の護衛を務めるという珍事もあったそうだ。
 王府に到着した守平は、タラハン王の妻・ナムチロサイロン王妃の病を1週間で全治させ、その返礼としてマハカラチロムチャムラムソン(至上絶対の大活仏)という称号を与えられた。これにより、活仏ハカシケケンは2千の僧侶を率いて守平の門下にくだったのであった。
 続いて、奉天新聞には次のような記事が掲載されている。

「先月初旬、蒙古タラハン王の懇請により入蒙した神人・田中守平氏の一行は、昨日午後6時30分、無事奉天駅へ帰着した。
 関東都督府の連中が馬賊に遭った折から、領事館ではずいぶん田中氏の一行について万一のことを懸念しておったが、すこぶる元気で帰ってきたのは何よりめでたいことである。
 記者は、早速神人を訪れたが、容易に面会がかなわず、随行の通訳に願って旅行談を聞いた。
 いわく、『ともかく今日では誰も入ることを許されない蒙古へ、一行総勢180名という多数が、堂々と護衛を従えて乗り込んだのは、何にしても愉快な話である。
 一行はすべて3頭立ての馬車に乗じ、四平街の駅から北に折れて、八面城、丁家屯を経て王府に着くまで、一望漠々たる大平原。山を見ず、河を見ず、陸天接して真に大陸の趣がある。
 折から厳冬、雪紛々として道をうずめ、四隣寂寞[せきばく]として、一行の馬のいななきを聞くばかり。長大なる旅行の行列が、悠々として寒天に荒原を横断する様は、確かに勇壮豪快であった。
 たまたま村落と思うところに着くと、質朴な蒙古の人民がこの大行列を拝せんとして、雪を冒して沿道に並んでおったのはいかにも愉快であった。
『王府はさすがに立派な建築で、官人数百名慎んで出迎え、ただちに王宮の奥御殿に招じ、歓待至れり尽くせりで、神人はこの時、金色燦然たる法冠のまま御殿の中央に厳然と座して、一同の参拝を受けた。
 その翌日、いよいよ殿に臨むこととなり、官人護衛兵両側に整列、最敬礼の間を、馬車に乗じ殿に至る。居並ぶ高官大官いっせいに九拝の礼をなし、随行の我々も思わず愉快に感じた。わずかに1町(約百メートル)ばかりの本殿と奥殿との間を特に馬車にしたのは、いかに彼らが神人を尊敬したかを察し得られる。つまり、神人は土を踏まぬというところから、かくしたのである。
 王を始め、官人らの歓喜この上なく、不思議の霊能に太霊神王と尊称して、永く門生の礼をとることとなった。
 王は厚くその労を謝し、近郊を視察して帰途につくや、奉送の官人庶民多数。60余名の護衛兵と多数の官人とを従え無事に帰ってきた次第で、なお珍談奇談は山よりも多いけれど、今は長時間の話ができぬ』云々とのことで、記者は早々辞し帰った」(奉天新聞・1084号)

 帰国後の守平は、「方今宇内[ほうこんうだい]大勢の変転と、日本現下の実情とを洞察し来たる時は真に深憂に堪えざる」ものがあり、大正4年3月の総選挙に際し、郷党岐阜県有志の推挙するところとなって、同県下より衆議院議員の候補に立つ。

逐鹿の壇上

「情勢を座視するに忍びず」というのは、生来憂世愛国の念強き守平の、嘘偽りなきまことの真情であったと、私は「感じる」。
 権力欲や支配欲から、守平のような人は自由なのかもしれない。節度というものを体感として知らない方々には、私が述べていることが、おそらくご理会いただけまいが。

守平の政治演説の模様。

 田中守平は、大変な雄弁家でもあったらしい。語り方に独特の韻律(リズム)があって、聴衆は皆うっとり聴き惚れたという。
 この選挙の際も、6時間以上に渡る長演説において、分秒といえども休息することなく、滔々と政論を論じたそうだ。始めから終わりに至るまで、その語調の乱れることなく、ますます明晰、ますます透徹を加え、さらに驚くべきことには、終止両手を垂下し、壇の正面に立ったまま、同一姿勢を一度も崩さなかったという。
 こういうことができるのは、姿勢が相当正しい人間に限られる。でないと、6時間も直立不動・無休憩で、大勢相手に熱く語りかけ続けることなど、決してできるものではない。
 そういう「節度の正しい(全身の骨格が整っていて、あらゆる動作が節目正しくなされる)」人が生み出し(受け取り)、システム化した修法が、霊子顕動法であり潜動法であることを、これらの修法を学び身につけようとする人は、よく心に留めおくべきだ。

 逐鹿場裡の人となった守平は、衆望を一身に集めたようだ。当時の新愛知新聞の評にいわく、
「常に眼中ただ国家あるを知りて、いまだかつて自己の身命をも顧みざる君の如きは、まことにこれ先天的の愛国者というべく、加うるに君の人格の高潔と識見の卓邁と弁力の雄絶と断行の勇気とは、真に得やすからざる人材たり。故伊藤(博文)公かつて君を評していわく、『当世の偉才なり』と。もってその人物を推知すべし。才気煥発・機略縦横なる君の奮闘ぶりは、まさに卓励風発の概あると同時に、凡俗斗筲[としょう]の徒多き逐鹿界にありて、君の如き異彩ある人物を迎うるを得たるは、我が選挙界のために賀せざるべからざるなり」と。
 しかし、選挙の結果は落選であった。対立候補が「陋劣の手段」を講じ、「選挙の神聖を汚濁」したため、ともいう。

 だが、燃ゆるがごとき蓋世の有志を抱く守平は、落選程度のことでへこたれはしない。その主義主張を社会国家の上に実現しようという強烈な「意図」を、彼は常に抱いていたようだ。そうした基礎コマンドに基づき、心身がトータルに整っている人間が長年、 奮闘努力を重ねる・・・と、一体どういう結果がもたらされるものなのか、ちょっと想像してみていただきたい。
 守平は今や、精神と肉体を超越する霊力を自らが備えるだけでなく、それを他者にまで発現させるべく、導くことができた。10日間のセミナー形式という、当時としては実にユニークな教授システムも考案した。
 選挙の翌年(大正5年)、守平は東上。東京の麹町に「太霊道本院」を開設する。
 ここからやがて、数多くの霊術家が巣立っていくことになるのだが、彼の才能は霊術の世界で大輪の花を咲かせたのだった。

<2011.01.30 鶏始乳[にわとりはじめてにゅうす]>

注1:正一位とは、国の指導者として功労多き者に授与される位階の、最高位。我が国の歴史上、生前これに叙された者は6名しかいないといわれている。

注2:気功家の出口衆太郎氏よりお聴きしたことだが、中国の某寺院で太霊道の霊子術(顕動法と潜動法)が現在も盛んに実修されているのを目撃した人がいるそうだ。
 以前、皇寺にも太霊道と田中守平に関して問い合わせてみたことがあるのだが、惜しいかな、文化大革命で過去の記録・資料の大半が失われた、との丁重な御返事をいただいた。
 中国では、太霊道は気功の一派として認識されているらしい。『圖解中國流行氣功』(邸陵・編)は、冒頭に霊子術を取り上げ、顕動法と潜動法をかなり詳しく解説している。ただし、同書によれば、「霊子術は日本人・田中守平により中国にもたらされたが、その淵源をさかのぼるならば、秦の始皇帝の頃、中国から日本へと伝えられたものである」とのことだ。この本では、明らかに中国的な付与とみられる体操のごとき型も、霊子術基本功として紹介されている。

『 圖解中國流行氣功』より。霊力鍛練法(?)