Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第2章 超越へのジャンプ 〜田中守平(太霊道)〜 第14回 霊子術伝授 其の四

 霊子倒身法
 直立瞑目した被術者に対し、術者が腹力を充実させて霊融法を行ない、次に強烈に吹息して手を挙げると、霊子作用の働きで相手は後方に倒れる。
 最初は1対1で練修し、互いの間隔も数十センチから始めて徐々に広げていく。
 習熟してきたら、受け手を2人、3人、5人、8人、10人と増やしていく。
 多数の場合、「下腹部を充実させて霊融法(下腹の中央部にて、右手人さし指と中指を左手で包み握る)を行い、次に強烈な吹息法を全員に施すや、平素顕動作用の最も旺盛なるが如き人はまず第一にこれに感応して倒身を実現し、ついで順次将棋倒しとなり、数秒間にして全員ことごとく倒るるを見る」・・・と『霊光録』にはある。
 先日、龍宮拳伝授会が開催された折り、休憩時間にちょっと試しにやってみたのだが、その模様が妻の『一日一舞』(シーズン1)にてご紹介されている。受け手はこれから何をやるか、どんなことが起こるか、一切知らされてない。
 いきなり10人相手にやってあの通りだから、きちんと上記の手順を踏んで練修していけば、もっと感応度が高まると思う。
 なにゆえにこうした現象を生ずるかというに、『霊光録』では以下のように解説されている。

「霊子作用は、霊融法を行う場合にありては腹部に充満さるるを常とす。その作用がひとたび術者によりて外界に発動せらるるや、被術者と術者の間に霊的連携を生じ、術者のなすがままに自由自在の状態を生ずるに至る」

 下腹を充実させることを、あらゆる霊術家が重視した。
 どうやら下腹の奥に、個を越えた人類のグループ意識にアクセスできる、ある種のポータル(扉)が存在するらしい。

 卓子潜動法
「卓子というと華奢な机のようであるが、特別講授会において用いるところのそれは、なかなかそんなものではなく、見るところ方三尺(約90センチ)あまり、五人六人その上に乗って飛んだり跳ねたりしてもビクともならないような、頑丈な大机である」(『霊光録』より。以下同)

 参加者が4人、その上に手掌を置く。守平は、「瞑目して軽く手掌を机の上に置きなさい。精神は、むろん超我の状態を保たなくてはなりませぬ」と教示する。

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「会員(参加者)は無我夢中で卓子にしがみついているが如くに見える。さてしばし、卓子が軽くスーッと動き出す。すると、それが徐々に回転を始める。会員は互いに不思議に思って、誰か押すのかしらんと薄く目をあいて見回す人もあるが、誰も押す人はない。会員のいずれも、ただ自動する卓子について一歩一歩と歩を移す。
 この状態が四五回続くと、卓子の回転はにわかに迅速猛烈になる。四人の会員はただ卓子に置きたる手を放すまじとばかり、その身体は卓子に従って回転する。足はもとより畳につくやらつかぬやら。あるいはすべり、あるいはつまずくも、卓子は弾丸の飛ぶよりもなお急激かと思われるほどの急速度で回転するので、それに引かれて会員は宙を飛ぶが如くに、夢心地になって回転するのである。
 ここに至ると、押すの引くのという疑念はまったく消失してしまう。ついには生きている空はなく、ただ卓子を放すまじと念ずるばかりである。その回転した数はむろんわかるわけではない。
 で、無我夢中に回転する。これが続くこと何分かの後、場の一隅に倒れている自己を見出すと共に、気がついてみるとそこかしこに、今目が覚めたというような顔をして起き上がろうとする他の会員を発見するという次第である」

 この勢い、留めることあたわず、だ。
 しばらく、『霊光録』をして自から語らしめよう。
 顕動法にしても潜動法にしても、「ぶっ倒れる」まで徹底的にやるのが、どうやら田中守平の流儀だったようだ。霊子術を本気で研究してみようと思う人は、そうした点にも注意を払うべきだ。

 椅子潜動法
 一脚の椅子が場に用意される。守平は参加者の1人を呼び、その椅子の背もたれに潜動を発した両掌をつけさせ、瞑目しているよう命じた。

「しばらくすると、不思議や、その椅子はしずしずと前進を始める。およそ一間も進んだと思うと、それがたちまち急速度になる。会員は椅子を放すまいと、椅子について走る。約二十尺(約6メートル)あまりも進むと、どうしたはずみか、椅子がハタと停止すると、件[くだん]の会員はもんどりを打って椅子を跳び越して前方へと投げ出された。どこをどうして椅子を跳び越したのか、目にも止まらぬ速さである。
 会員一同はアッとばかり顔色を失った。が、投げ出された本人は何の事もなく起き上がったものの、椅子のにわかにかくまで急速度をもって走り出そうとは誰しも思い設けぬところで、すこぶる驚嘆しておった。それに普通ならば大けがをするところであるが、何事もなかったのは霊力の自然に任せての行動なるがゆえである」

 下腹が充実して霊力(超越的パワー)がこもり、それを潜動法によって自在に発することができるようになれば、かくのごとく様々な異現象を引き起こせるようになるらしい。
 が、驚くのはまだ早い。
 潜動作用体得者同士であれば、以下のような離れ業まで可能となるというのだ。

 感受性霊能
 感受性霊能とは、「自己の心身に霊子潜動作用を発動せしめ、外界の事物現象を感受する作用」をいう。この霊能を巧妙に運用することは、前回ご紹介した感伝性霊能よりもやや習熟を要する。が、「それは感受性霊能が感伝性霊能よりもいっそう高度なるがゆえではない」と『霊光録』。

「感受性霊能においては、術者はほとんど絶意識状態にあることを必要とするが、感伝性霊能では必ずしもその状態の十全なることを必要としないために、その発現の機会が多いことになる。
 要するに、感伝性霊能が発現せんとするに際して、ややもすれば意識がそれを抑圧するがゆえに、完全なる霊能を発現せずして終わるのである。しかし、その要領を自得するに及べば、必ずしも絶意識なるを要せず。ただよく超我でさえあれば、談笑の間にこれを発現し得るものである」

 特別講授会科目で感受性霊能に該当するのは、以下の通り。

1.心格を対象として感受する方法
 イ.霊子読心術(接手霊子読心術、手掌霊子読心術、物体連接霊子読心術、間隔霊子読心術) ロ.霊子懸錘法
2.霊格を対象として感受する方法
 イ.霊格応現法 ロ.霊書法
3.自然現象および精神現象を対象として感受する方法
 イ.透視法 ロ.透覚法

 これらの霊能は、潜動作用の体得者であれば、思いの他すみやかに発現するものであるという。

 霊子読心術
「厳密にこれをいえば、この名称は当を得たものとは言えない。が、今適当な名称がないのと一般に普及している名であるので、ともかくこれを襲用することにしているのである。
 自己の肉体が自己の意思によりて支配されざる場合において、自己は自己の意識活動を営みつつあれども、自己の肉体は他人の意思によりて支配され、個人の意志によりて行動する。
 これは、読心術実習の場合のみに限らず、往々吾人(我々)の生活の上にも起こるところの現象である。これを太霊道教義において『社会の発動はすべて霊機的なることを理會す』と教述せられた所以である。社会すでに霊機的なるがゆえに、伝える伝えられるのという関係はなくとも、知らず知らずのうちに自己の意思が他人によりて行なわるることもあり、自己が他人の意思によりて行動することもある。みきたれば、自他精神と肉体との交渉は、日々間断なく網羅のごとく連携活動しつつあることがすでに自然相であるから、もし人ありて習熟によりて他人の意思を承受すべく準備された限りは、直ちに他人の意思がその行動に現わるべきは、怪しむを要せぬところである。
 太霊道において読心術を実習するというのも、それが霊的現象であるというばかりではない。会員をして他人の意思、社会の意思を感受するに足るべき鋭敏性、霊能を養うと共に、ただ外界周囲の意思を感受するに偏するにおいては、ついに個性を没却する結果となるべきをもって、一方それらを拒否するに足るべき霊的確実性を養うことを必要とする。それにはあらかじめ、心的、物的、霊的の方面よりその交渉現象を確知せしめる必要からしてこれを実習せしめるのである」

「読心術の範囲に包含するべき霊的現象は広汎であるが、現時一般に認められているところのものは、甲者を思念者とし、乙者を術者とし、甲乙両者、手に手を連接して甲者が思念するところを乙者が動作に現わすことになっている。太霊道における読心術は、甲乙両者の間に仲介者をはさむ形式を始め、紐のごとき物体をもって甲乙両者の連接をとり、さらに進んで両者若干の距離において無連接にしてこれを行うのである。
 読心術は霊子作用としては最高度に発達したものではないが、その作用は華やかで、会員をして実習上多大の興味を感ぜしめ、作用の発達を促進する性質のものである。しかも、この読心術は霊子潜動作用を修得したる限りは、何人にも実行容易であることはほとんど意料の外にある。
 次に掲げるのは、第二十八期特別講授会における実験の記述である。

◎最初は、甲者と乙者とを連接してこれを実験。それはいずれも難なく行い得た。
 これは思念者の思想が手掌を通じて術者に一種の暗示となることは絶無とはいわれない。が、会員の行い得た程度の読心術は、決して暗示または読筋作用にいでたものではないのである。
 かの手掌を通じての示唆、すなわち握掌等の関係は、いまだ充分習熟の域に達せざる者の精神をかく乱するのおそれなしとはしない。それで、さらに別の方法を選ぶ必要が起こってくるのである。

◎次に行った方法は、思念者と術者との間に、一人をはさむのである。かくのごとくする時は、思念者の思念は中間の一人を通過して術者に達するのである。最初は一人をもって試み、漸次に増して五人とした。それ以上は何人を増すも、結果において同一である。
 こうする時は、中間の一人(五人にしても)は思念するところを知らざるをもって、術者の精神の平静を失わせることがないのである。

◎六人連接して最右端の者が思念者となり、最左端の者が術者となる。その実験の場所は講授室である。実験に先だってあらかじめ課題を定めるのである。この課題はもちろん思念者一人だけ知ってその他の実験者は何も知らないのである。
 思念者は術者のなすべき行動を思念し、術者をして自己の思念通り実行せしむるのである。思念者以外の人はすべて瞑目するのである。思念者の思念は強烈にしてしかも明確であらねばならぬ。術者の気分は特殊の状態にあることを必要とせぬ。ただ、特に巧妙に行わんと欲して、その結果にわずらわされぬ用意だけは必要である。思念者及び術者の位置は両端にありて、その他の人々を中間にはさむことにおいて、以下の実験では同一であるから、一々記載を省略する。

課題 椅子一脚を持ち来たり、その上に座布団を置き、職員一名を連れ来たりて腰掛けさせて、受付所にある茶器を取り来たり、茶を注ぎこれを飲ませること。

 かくして実験に着手する。一、廊下を隔てて応接室に至り、二、椅子一脚を運び来たり、三、これを霊宮の前に置き、四、講授室の右隅にある座布団を持ち来たり(いったん座布団を落とし、さらに屈みてこれを取るなり)、五、極めて注意深く椅子の上に敷く、六、三室を隔てたる玄関において執務中なる藤本氏を連れ来たり、七、椅子に腰掛けしめ、八、受付所の卓上に備え付けたる茶器を持ち来たり、九、その中の茶碗を取り、十、藤本氏の手に渡し、十一、急須より静かに茶を注ぎ約八分目にして、十二、急須を盆の上に返し、十三、藤本氏の持てる茶碗に手をもち添えて口に運び飲ましむ。
 この十三動作がすべて順序良く行なわれ、術者は瞑目してこれをなし、少しも誤らぬのである。動作の箇条が課題より複雑なるのは、読心術実行にありては思念者はかくのごとく区別をなして、思念するを要するのである。
 いったん座布団を落としたのは、主元(守平)が列外にありてかたわらより霊融法をもって落とすと思念せられたためである。さらにかがみてと思念し霊融法を施したるためかがみて取り上げたのである。これは思念者は予知せぬところである。要は、他の意思が霊子作用によって強烈に伝わる時は、特定の思念者以外の思念も感応する。我ら生活の上にも常にこれらの交渉と暗闘が行なわれているのである。これによってみるも、霊的研究の忽せにすべからざるを知るに足らん。

課題 会員七名に円列を作らしめ、急激猛烈に回転せしめること

 これは一人の思念者と一人の術者とによりて実験したものである。一、会員の一人を連れ来たり講授室に立たしむ、二、第二人を連れ来たりそれと並びて立たせる。かくのごとくにして七人に及ぶ。四、第七人と第一人の手を連接せしめ、円列を作る。五、各人を推して急激に回転せしむ。

 これは特別に複雑な動作にあらざるも、急激に回転せしむることの動作をなさしむることはすこぶる難事である。読心術は、空間的にまた具体的にある動作をなさしむべきものであって、急激にというが如き時間的の性質を帯び、かつ抽象的の動作の実行は、すこぶる困難とせられておるのであったが、それが完全に実現されたことは喜ぶべきである。さりながら本院においては、久しき以前よりしばしば行ったところのものである。

課題 受付所にある紙片を持ち来たり、講授室の机の上に置き、再び受付所の硯箱より筆を取り、墨汁を含ませ、講授室に持ち来たり、机の上の紙片に「一」の字を書かしむ。

 これは六人連接して行ったのである。すなわち、一、講授室より三室を隔たれる受付所に赴き、二、机の上の紙片を取り上げ、三、講授室に戻り、四、机の上に置く。五、受付所に赴き、六、筆を取り、七、墨汁を含ませ、八、講授室に持ち来たり、九、紙上の一点に筆を下ろし、十、右に曳く。

 これも、容易なるに似て非常に困難なる課題である。何となれば、術者の動作は全然盲目的である。術者の意識はその動作に対して何ら関与せぬのである。もちろん思念者の思念は術者をして思念するがごとく動作せしむるのであるが、その連鎖は我々自身の意思が我々の筋肉を使役するがごとく緊密の関係によっておらぬ。したがって思念者の思念する全部を動作にあらわすに至らぬのである。思念者が何の文字を書けと思念するも、それは不可能である。「一」を思念するとしても、それは「一」則ち数として一個という意義を有する「一」の字を書くべしと思念するとも、被術者がこれを動作に現わすことは不可能である。要は、この点よりかの点に一直線を引けと思念すればこれを引くのである。さりながら一直線を引くにしても、それには時間的経過を経て完成されるものであるから、思念者は引き始めの一点に注意を集中し、それに筆をおろした時はさらに他の一点を注目する。しかる時はそれを行動に現わすのである。術者は、その持つところのものが筆であるか何であるかをすら知らぬのである。

 如上の形式による読心術がやや上達するにおいては、思念者中間者および術者は、手に手を連接することなく、その間に十数間の紙紐をもって連繋をとり、もしくは術者と思念者との間に十数人を介し、その人々の間には一二尺の紙紐を持してよく作用を行なうことを得。最終に至りては、思念者と術者とはまったく隔絶して何ら連接するところなきも、なおよく思念者の思念を術者に直達してその必然的確むしろ驚くべきものがある」

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 目隠しした相手に、数人を介して、かなり複雑な行動をとらせることができるというのに、「一」の字を書かせることが非常に難しいとは、一体どうしたわけか? また、空間性はあるが時間性がないとは、いかなる意味か?
 霊力というこの奇妙なパワーの本質を探る鍵が、これら一連の霊的実験・実践の記録中には暗示されているのかも知れない。
 実は、まだまだ先があるのだが、もうこれくらいで充分だろう。自分のオリジナルな文章なら何時間書いてもまったく疲れを覚えないのに、こたびのような古資料の「筆写」作業となると、ちょっとやっただけで異様に手が疲れる。霊子読心術が出てくるしまいのあたりなんか、手がどんどんこわばっていって思うように動かせなくなり、何か、呪いか結界みたいなもので封印されているのではないかとさえ思えたほどだ。
 霊子術の深層を私はこれまで意図的に避けてきたのだが、ここまで辛抱強く読み進んで来られた読者諸氏には、その理由は明白だろう。しかり。こんな力が本当に実在していて、もしそれが人心操作の目的で悪用されでもしたら・・・。そんな風に本気で思えるほど、これらの太霊道資料には真実味と迫力とが感じられる。
 念のためつけ加えておくが、霊子読心術のようなことは、あの当時、太霊道だけの専売特許では決してなかった。守平の成功に刺激され、次々興った他の霊術団体でも、類似のメソッドが当然のように教授メニューに載っていたのである。
 つまり、戦前頃までは日本中あちこちで、上記のような驚くべきわざが華やかに示され、教えられていた。
 それらのわざと使い手たちは、その後どこへ行ってしまったのだろう?

<2012.03.31 雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)>