Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第2章 超越へのジャンプ 〜田中守平(太霊道)〜 第15回(最終回) 東奔西走、そして道火の散乱

 守平は大正9年、郷里・武並村に総本院を移した。移転を祝う式典に集った人々は、日本全国は元より、台湾、中国、朝鮮など、数万人もの多数に及んだという。
 時ならぬ民宿ブームに村は沸いたが、それでも次々と訪れる人々をさばききれない。守平の尽力により、鉄道駅や郵便局も設置されるに至ったが、その用地の大半は守平が寄進したものである。
 巨大な石門を抜けて、桜並木も美しい大参道を抜けると、太霊道大本院がその威容を現わす。当時の、しかも山間の僻地という場所柄を考えれば、とてつもなくモダンな建築物であった。

 強烈なカリスマ性と比類なき霊能力をもって、新たな道を切り開いていく守平。
 彼の活動の一端を垣間みるため、当時の新聞、雑誌等に掲載されたおびただしい記事の一部をご紹介する。岐阜県恵那市武並村の田中家に残されていたスクラップブックからの引用だ。守平の兄が収集したものであるという。
 なお、例によって読者の便宜を図るため、言葉遣いの一部を現代風に改めた。こういう一昔前の文章は、最初とっつきにくいかもしれないが、丁寧に文字を追っていくうちに、だんだん慣れてきて、日本語独特の魅力が味わえるようになってくる。最初は、いくつか意味不明の言葉があっても構わない。
 私たちは、ちょっと訓練すれば千年以上前に記された万葉集や源氏物語(人類最古の長編小説)などを直接原文で読み、楽しむことができるが、これは世界的にみても極めて稀な「幸福」であることに、当の日本人自身が気づいてないことは非常に残念だ。世界のよその場所では、そこに住む民族が何度も入れ替わったり、文化が途絶したりして、古い言語の大半が永遠に失われてしまった。かつて、広範な版図を誇ったローマ帝国の公用語であるラテン語ですら、今やどうやって発音するのかさえ誰も知らない。

 ・・・・・・・・・

「・・・田中君が目下患者に施しているのは、潜動療法というものであるが、これは術者たる田中君が指を触れるとそこに玄妙な霊子作用が起こって、火鉢も動けば硯[すずり]箱も飛び回る。さらに植物に応用すると、散りかけた梅の花がちょっと考え直して、さらに2、3日は枝頭にとどまり、さようかと思えばまたつぼみが急に生命を失って地に落ちるなど、開落自由自在であるという。(中略)
 田中君の霊子療法を受けている人の中にはお医者もある。お医者の細君もある。高等教育を受けた人もある。知識階級に属する人もある。
 何しろ、朝の4時に門を開けて、6時の始療時間には種々の難症患者が堂に満つる有り様である。
 かくて夜の11時12時まで寸時の間断なしに霊子療法を続け、それから数十名の遠隔療法を終えて、床に入るのが1時から2時になるが、一睡して起きるとまた非常に旺盛な精力をもって、あらかじめ前日編成しておいた施術順で、多くの患者に接している。患者の出入りに障子[しょうじ]を開閉すると余計な時間がいるというので、障子は開けっぱなし、挨拶も辞儀も同様の理由ですべて省略し、先番が先を立たぬうちに次番の患者が招かれるというふうで、目まぐるしいことおびただし」(『芸備日日新聞』大正4年5月12日)

 武並村への総本院移転からおよそ1年を経た大正10年12月27日。巨費を投じて建造された霊華殿が原因不明の出火によって全焼。
 が、直ちに再建策が講じられ、守平の活動はその後も日本全国のみならず、海外にまで広がっていく。

「東濃地方も希有の大干ばつに、農家はもちろん一般に困難しているが、恵那郡武並村では各区協議の上、太霊道主元、田中守平氏に降雨の霊祷[れいとう]を依頼し、本月4日村内各戸より1合ずつの水を持ち寄り、同総本院境内なる潜霊の泉へ納め、荘厳なる水祭を執行した。
 爾来[じらい]、田中主元は日々霊祷に務め居[おり]たるが、その満願の7日午後、大雨沛然[はいぜん]として至り、村民の歓喜、実にひとかたならず。翌8日午後7時より、一同霊華殿に参集し、降雨感謝祭を執行した」(『内国通信』大正13年8月20日)

「霊的研究をもって有名なる太霊道主元、田中守平氏は、台湾渡航の途中、8日来福、栄屋旅館に投宿。数日滞在の予定であるが、福岡市における有志諸氏の主催で、来たる10日午後6時から、博多商業会館で玄妙なる太霊道の霊子術実験会を催すことになった。当夜は霊子術のうちで不思議とされている読心術、霊応術、霊覚術等を主とし、その他精神作用、物質作用を超越した霊子作用の実在を立証するに足る各種の実験を行い、霊に関する学術的研究上最も有意義のことが多く、田中主元の一場の講演もあるはずで、何人[なんぴと]でも来場随意である。
 田中氏は語る。『昨年長崎で開催されたアジア民族会議は、太霊道の教義に出発したる関係上、私も同会議に出席し、その帰途、福岡市に立ち寄る予定であったが、日程を変更して熊本に向かい、滞在が長くなったため広島市に赴き、福岡市に立ち寄る機会を失したが、今回台湾に2ヶ月の予定で旅行する途中立ち寄った次第で、1両年内には欧米に太霊道宣伝旅行の途につくことに決定している。
 太霊道の教義は英文に翻訳されて450頁[ページ]の書物となりて出版されている関係上、宗教家、思想家、霊界研究家より頻々[ひんぴん]として招聘を受けているので、太霊道を世界的に弘布する意味で、なるべく早く出発したいと準備を急いでいる』云々」(『九州』昭和2年1月9日)

「過般、博多商業会議所楼上で開催された太霊道実験会は、主元、田中守平氏の霊的実験に関する徹底した講演ありて後実験に移り、千葉富子嬢の霊子読心術あり。会衆より提出した多数の問題について、百発百中の霊妙なる術法に一同を驚嘆せしめ、主元・田中氏は会衆中数十名の希望者に対し霊子顕動作用を伝えて、あるいは堂々たる体躯の人を風車のごとく回転し、あるいは自由自在に飛動躍動せしめ、多数の来会者に多大の感動を与えた。・・・(後略)」(『九州』昭和2年1月14日)

「青葉に風薫る本年5月初旬、朝鮮霊化運動のために来城した太霊道主元・田中守平氏は、旭町の別院に滞在すること百数十日。この間ひたすら修霊者のために、また難病者救済のために、献身的な努力を捧げ、その門に入りて道を学べる者2百余名。施法を受けて不思議の霊澤に浴せる者2千名に近く、いずれもその玄妙にかつ喜びかつ驚いている次第であるが、かのキリストが奇跡を現わして病者を癒し、釈尊が摩訶不思議の法力をもって痼疾を治したことは一般に伝えられているけれど、現代にこの奇跡を行うは、まことに玄妙の限りというべきである。
 記者は別院で開かれている修霊大学を参観したところ、参列者の顔ぶれはすべて知識階級の人々のみで、陸軍中将・岡本功氏はその夫人・清子女史が太霊道でスッカリ健康を回復したばかりでなく、その愛嬢が産後の重症であったのが、まったく暴風雨から晴天へ出たように治癒したので、わざわざ千葉県の舟橋町から渡鮮して修霊に参列したという熱心ぶり。京城弁護士会長の高橋章之助氏は特に太霊道の思想、教義に共鳴して、この後の人心を啓導するものはこの道あるのみであるとして吹聴している。
 過日、龍山の鉄道局では、大村局長始め局の熱心家が田中氏を招聘して特別室で講演会を開いたが、参加者は鉄道局関係者のほとんど全員に、陸軍大佐・小林一郎氏、陸軍中佐・光井香氏ら多数の軍人と、官吏、会社員、教育家、医師等、各階級を網羅しているが、いずれもすこぶる緊張した態度で、実に熱心に修霊に勉めている。
 主元・田中守平氏は四十余りの男盛り。法服姿豊かにドッシリと構えて、快弁滔々、立板に水のごとくという形容そのままの口調で、宇宙の神秘を説き来たり論じ去り、参列者一同あたかも天界に舞い上げられるがごとき感を抱いて静粛に謹聴している。
 やがて講義が一段落となって霊子術の実習に移ると、これは驚いたり、全員数十名が乱雑に直立して瞑目すると、田中主元は眼光鋭く一同を睨み回すや、瞬間・・・それはまったくの瞬間に、一同がドッと後ろへ倒れてしまう。主元の眼から出る霊光に打たれて、どうしても直立しておれなくなるのだという。
 次は数十名を直立させておいて主元が腹力を充実すると、全員風車のごとくクルクルと舞い出して、一同ドッと倒れる。さらに大勢を直立させて、主元が一息スーッと息を吸うと、一同エレキにでも吸いつけられるがごとくに吸いつけられてくる。主元フッと息を吹くと、一同ドドドッと後ろへ追いのけられる。その他次から次へと不思議なこと、珍しいこと、驚くべきことが数限りなく演じられてゆく。
 さらに、他人の思っていることが自由にわかるという実習があって、的中することは真に百発百中である。その実況を文字に現すことは容易ではないが、修霊を見ていると、いかなる唯物論者も霊の実在を否定しがたい気持ちになってくる。なるほど、これでは人々が熱心になるのも無理はないと考えずにはいられぬ。
 もしそれ、この玄妙の作用を応用することについては、田中氏は真に現代の第一人者と称せられている通り、自由自在で顕著な効果を奏し、これによりて瀕死の病者、慢性の病者が救済されたるの実例は一々挙げつくすことはできないとのことであるが、信奉者の人々は田中主元はキリスト、釈迦も遠く及ぶところではなかったと信じているらしい。そして眼前に玄妙奇跡を見る時は、誰もそういう考えを抱くに至る。それがやがて霊化の門に入るの道程となるようである。
 田中氏は岐阜県にある恵那総本院の要務のため、当地に長逗留することができず、23日午後9時55分京城発で帰国することになったが、修霊大学卒業者で組織している霊友会は、その事務所を南山町秋吉家に置くことになり、主元退鮮後も結束して霊化運動を行うとのことで、自由討究社の藤村一夫氏が特に田中主元の秘法を授かって、霊友会後援の元に別寮を経営し、修霊と施法とに従事する由」(『京城日報』昭和2年9月24日)

 公宣当時、各地の大新聞に1ページ2ページ大の広告を堂々と掲載するなど、その急進的な組織展開とあいまって様々に物議をかもした太霊道ではあったが、昭和初期頃までには世間一般における評価も定着したようだ。
 かつて守平を誇大妄想狂であるかのごとく冷笑的に報道した一部の新聞、雑誌でさえ、「辞令すこぶる謙遜、しかも絶対平和を旨とする好紳士」あるいは「その霊子作用を説くところ、誇大にもあらず破壊にもあらず、坦々たる平地をゆくの感あり」などと、好意的な報道姿勢に一転している。
 昭和3年11月15日発行の『第一通信』誌に掲げられた以下の記事は、当時の田中守平に対する世の評価を代表するものだろう。

「光陰は矢のごとく、大正霊界に喧伝された田中守平氏が新富座において、社会改造意見発表の大演説を試み、人生の本務及び帰趨より説き起こして、政治、外交、教育、兵役、税制、陪審法.迷信打破、芸術振興その他16項目の広きにわたって滔々数万言、4時間を費やす長広舌を振るって満場に感銘を与えたのはすでに8、9年の昔。爾来星移り歳改まって、霊界の偉材も今や郷地岐阜県恵那郡の深山に隠遁し、うたた寂寞の感にたえざるものがある。
 回顧すれば、当時彼を見る眼は十人十色、あるいは霊界革命的の偉人となし、あるいは世にありふれた山師輩と目し、あるいは世道人心の撹乱者なりと指弾するといった有り様で、文字通り毀誉褒貶[きよほうへん]紛々[ふんぷん]として人みないたずらに憶測をたくましくし、その正体をつかむのに苦しむの状態であったが、ともかく彼は例の隠田[おんでん]の神様・飯野吉三郎式の怪物でもなく、さりとて大本教の出口王仁三郎式の異端者でもなく、まさに常識に富んだ一個の先覚者というべきであろう。
 見よ、当時彼が唱導せし社会改造の警世的論説は、理路整然、論拠確として動かすべからざるものありしのみならず、普通選挙、陪審法制定等はすでに実施の運びに至り、華族制度の改廃、婦人参政権、国家賠償制度、税制の改革等々は、現に世論喧囂(けんごう:多くの人が口やかましく騒ぐこと)を極めつつあり。すべてその実施を見るべき可能性なしとせず。
 ゆえに、すでに一昔前においてその緊要を絶叫して江湖[こうこ]識者の厳正なる批判考慮を促したる彼は、けだし先見の明ありし者と称せざるを得ない。しかもその説くところ、社会百般にわたりて通暁[つうぎょう]せざるなき観ありしは、彼の博識多彩を証するにあまりありというべく、世のいわゆる山師的霊術者と趣を異にするゆえんであろう。
 想起す、当時記者は親しく彼に接して太霊道の原理原則を尋ね、兼ねてその正体をもあわせ掴まんものと、麹町一番町の邸宅、太霊道の道場に彼、田中氏を訪れしことを。しかして刺を通じて待つ間ほどなく現われし彼が、事務服然たる黒繻子の被服をまといたる姿は、通常人にあまり見受けられぬところだが、漆黒の黒髪を七三に分け、鼻下に美髭をたくわえたる風貌、応接の態度なども毫[ごう]も通常人と異ならず、いわゆる行者式の特異な風采態度、もったいぶった言動などは見られなかった。これかの出口、飯野などと異なるところであり、定めて異様の風采ならんと予想しつつ彼を訪ねる誰もが、あまりに平々凡々たる常人ぶりに一驚を喫するところである。
 健康らしい体躯ではあるが、巨躯堂々といった柄ではなく、むろん仙骨稜々見るからに難行をしのばせる底[てい]の行者風でもない。
 才気溢れる眼光ではあるが、さりとて一種の凄みを帯びて底光りする炯々[けいけい]たる眼光ではなく、その説くところ、また耳を傾けるに足る熱弁ではあるが、敢えて奇言奇語を弄するでもなく、自然のままに虚心坦懐、その所信を発表するに過ぎなかったことなどがマザマザと記憶に浮かんでくる。
 案ずるに彼は、ことさら奇矯をてらう霊界の人というよりは、単に一個の先覚者であり、俊敏の偉才と称すべきであろう。したがって官吏として可、政治家として可、あるいは算盤を持たせても筆をとらせても、その他いかなる方面であれ、必ず傑出して相当の声名を馳すべき材であろう」

 ・・・・・・・

 守平は超多忙な従来の活動から徐々に身を引き、いよいよ太霊道の世界的普及という一大事業に取りかかろうとしていた。それが実現していれば、精神世界の地図は地球的規模で、大きく塗り替えられることになったかもしれない。
 だが、いかに神人といえど、形而下の法則を免れることはできなかった。
 ひたすら人々のため自らのすべてを捧げつくす日々が、守平の身体を徐々にむしばんでいったのだろう。積年砕骨の報いによって、彼は突如として霊界に帰[き]することになる。昭和4年12月17日、45歳の若さであった。
 循環器系の発作による死と伝えられているが、これまでご紹介してきたようなハードスケジュールが守平の日常であったことを考えれば、「過労」がその死因の主たるものであったといっても過言ではあるまい。本連載でご紹介したように、相当無理のある生活を前半生において長年送ったことも、負債として身体に蓄えられていたのだろう。
 もう一つ、私自身が実際に太霊道のおもだった行法を長期間実際に修した上での感想として述べるが、遠隔療法などに用いられる霊融法において、息を長時間止めながら意念を強烈に凝らすことは、あまりやり過ぎると身体に過度の負担がかかるおそれがある。
 とはいえ、遠方に住む家族や友人が病や痛みに苦しんでおれば、たとえ身体に多少の負担がかかろうが、何とか力になりたいと願うのが人情というものだ。
 まあ、普通程度の体力の人が時おり行なう分には、害はあるまい。が、くれぐれもは無理は禁物だ。

 その短い生は、最初から定められた守平の天命だったのだろうか? それゆえにこそ、彼はあれほどまでに激しく命の炎を燃え立たせ、全身全霊をもって己の人生を駆け抜けていったのかもしれない。
 蓋世の事業なかばにして守平の帰霊に接し、その道のあまりに広汎深遠なるがために、門下の取り続くべき方途はなかった。高弟たちの懸命の努力にも関わらず、短期間のうちに道火は散乱し、太霊道の名も急速に人々の記憶から薄れていったのである。
 現在では、太霊道大本院跡地に建つ巨大な2本の石柱のみが、往時をしのばせる唯一のものとなっている。
 昭和26年、武並村では村長以下の村議が率先して図り、翌27年10月、国集ヶ丘[くにはせがおか]の丘上高く、守平の遺徳をたたえる顕徳碑が建てられた。

 すべては一夜の夢だったのだろうか? 人々の営みを見つめ続けた恵那の山並み——その姿だけは、昔も今も変わらない。

——超越へのジャンプ・終——

<2013.04.27 霜止出苗[しもやみてなえいづる]>