当時日本と清国は、朝鮮半島の覇権をめぐって激しく対立していた。
天風が随行した河野金吉は、軍事探偵(諜報員)として満州及び遼東半島方面の偵察、調査という密命を帯びていた。
偵察行動は約1年に及んだが、このとき天風は馬賊を相手に、真剣による斬り合いを初めて体験したという。
この中国行で軍事探偵など懲りたかと思いきや、彼は明治35年(日露開戦前夜)、陸軍参謀本部の秘密募集に応じ、またもや諜報部員として志願している。そして忍者顔負けの特殊訓練を受けた後、再び満州に潜入したのであった。
明治37年、日露戦争が勃発。天風らは軍事探偵として情報収集や鉄道爆破等の後方撹乱を工作し、めざましい活躍をすることになる。
この間、天風がその手にかけた人間は数知れず、彼は「人斬り天風」と呼ばれて恐れられた。
あるときはコサック騎兵に捕えられ、死刑の宣告を受けたこともある。まさに銃殺寸前というとき、同志の投じた手榴弾に吹き飛ばされ、天風は九死に一生を得た。
またあるときは万里の長城で偵察中に狙撃され、下に飛び降りたはずみに意識不明数十日の重症を負った。以来その後遺症として、たびたび強度のめまいに襲われることになる。
さらに、爆風により両眼に重度の視力障害を受け、左手の中指は神経切断のため曲がらなかったという。
また天風が苦力[クーリー](中国の最下層の労働者)の姿に身をやつして明治35年に出国して以来、戦争集結までの足かけ4年の間、1度も風呂に入ったことがないというのもすさまじい。屋根の下(それも羊小屋や豚小屋)で寝たことさえほとんどなく、たいていは森のなかや荒野で夜を過ごしたということだ。
それでも天風は、そうした生活にたいして不平も不満も感じなかったし、自分が不幸だと思ったこともなかったという。彼は戦争という極限状況のなかで、初めて自分が生きる意味、生き甲斐を見出すことができたのだ。
明治38年、天風は生きて再び祖国の土を踏むことができた。3千人の応募者のなかから選抜された屈強113名の軍事探偵のうち、生還したものはわずか9名に過ぎなかったという。
だが無事帰国できたと思ったのも束の間、そこではさらに過酷な運命の激変が天風を待ち受けていたのである。
明治38年、本郷の自宅に戻った天風は、大日本製粉(後に日清製粉と合併)の重役として経営に携わっていた。だが、翌明治39年、奔馬性肺結核が発病、彼は死に直面することとなる。
奔馬性肺結核——馬が駆け出すように、急速に悪化することからこの名がある。肺がどんどん蝋燭のように溶けていってしまい、やがて死が訪れるのだ。当時は、結核=不治の病であり、人々に最も恐れられた病気であった。
天風は結核に関する最高権威・北里柴三郎博士の治療を受けたが、病状は好転せず、いよいよ死が訪れるのを待つばかりとなったのであった。このとき天風30歳。
肉体的な苦痛もさることながら、彼にとって最大のショックは、己の心の変わりようであった。天風は今や、自分でも愛想が尽きるほど、常に死の影におびえ続ける、みじめな心の持ち主になってしまったのである。かつて日清・日露の両戦争を通じて、あれほど勇敢な働きをし、敵軍に捕えられて死刑の宣告を受けたときでさえ、平然として心の動揺を感じなかったというのに・・・。
病気を気にすれば、病状が悪化することはあっても、よくなりはしないのは天風も承知していた。喀血でも気にすれば必ず分量が多くなるし(彼は大喀血を38回もしたという)、脈を気にすればたちどころに心悸亢進を起こすこともわかっている。それでも脈が気になる、熱が気になる、咳が気になる、痰が気になる・・・。
かつての剛毅さはすっかり影を潜め、今や天風は病状の変化に一喜一憂する気弱な病人でしかなかった。かくもみじめな神経過敏人間になりさがってしまった自分を叱咤してみるが、どうにも心をコントロールすることができない。
こうなると天風は、いやでも自分の内面に目を向けざるを得なかった。『病にかかってから、何とあんなに強かったはずの自分が、今度は情けないくらい気が弱くなってしまった。それにこのごろの俺は、もう体のことばっかりを考えている。そりゃ、体が大事だから体のことを考えているんだけれども、大事な体を考えるだけで、考えるその心をなぜ大事だと考えないのか?』
このように考え始めたのが、後に彼が心身統一法を生み出す最初の動機となったのである。
『人間の生命が体と心から成り立っている以上、体も大事だが心も大事じゃないか。その大事な心を俺は少しも考えていないじゃないか・・・』
天風は人間の生命に関する本をむさぼるように読み、学者や宗教家を片っ端から訪れては教えを乞うたが、彼の心は少しも満たされることがなかった。
失望落胆の日々を送っていた天風は、スウェッド・マーデンというアメリカの哲学者が書いた『How to get what you want(いかにして希望を達成するか)』という洋書に出会う。
どんな困難に遭遇しても、どんなにつらい場合でも、心は少しもそれにとらわれないで生きていけるという教え。それこそまさに天風が求めていたものであった。
この人に会って、こんな気持になれる方法を教われば、きっと自分は救われる——そう思い込むともういてもたってもいられず、彼は家族や医師の制止を振り切り、断乎アメリカ行きを決意したのだった。
結核患者にビザは与えられないから、捕まったら懲役を覚悟で日本を脱出。
ところが実際にマーデンに会って、心の悩みを諄々と語ったところ、
「あの本の何頁に何が書いてあるか、暗唱できるくらい読みなさい、何万回でも」
「それまで命がもちません」
「読まずに死ぬより、読んで死ぬほうがあなたの幸せだ」
向こうは幸せかもしれないが、こちらは幸せでも何でもない。
『これが俺に国法を破って密航までさせた人物なのか。俺もあわてた男だなあ・・・』
——だが彼は気をとりなおし、発明王エジソンの神経病を治療して有名になった、カーリントンという哲学者を訪ねた。するとカーリントンは、
「偉いねあんたは。アメリカの紳士淑女は朝から晩まで、金だ、品物だと騒いでいるのに、お前は30やそこらで心のことを考えている。何て尊いんだ。ああ、今日は尊い人に会った。実に尊い」
おだてられて、ほいほい帰されてしまった。天風、後に語って曰く、
「尊ければいいが、尊くないからこうしてアメリカまで密航してきたというのに、これでは何のことだかさっぱりわからない」
彼らに面会するだけでも、相当な金を払わなければならないのである。加うるにアメリカの物価高。日本を出るときに持ってきた5万円の金(当時、1万円あれば女中1人を雇って銀行の利子で生活できたという)は、半年も経たずして底をついたのであった。
だが、ころんでもただで起きる天風ではない。英語と軍事探偵時代に覚えた中国語をいかして、中国人留学生の通訳に納まった。留学生といっても、大金持ちの子息がホテルの3室をぶち抜いて暮し、2頭立ての馬車を乗り回して毎日ぜいたくな遊びばかりやっている。ところが、これが英語を一言も話せないというのだからとぼけた話だ。
天風はその中国人の身代りにコロンビア大学に通い、医学士の免状を取得してやると同時に、自分自身も医学部を主席で卒業し、医学博士の免状までとってしまった。
通訳料と礼金とで20万円近くもの大金を手にした彼は、さらにヨーロッパへと渡り、イギリス、ベルギー、フランス、ドイツと遍歴の旅を続けたのである。
ロンドンでは、アデントン・ブリュース博士の講座「精神活動と神経系統」に参加した。ここで学んだのは、要するに「思ってはいけないことや、考えてはいけないことは、忘れてしまうのが一番いい」ということであった。ちょっと聞くといかにも立派な学説のようだが、忘れようとして忘れられるものなら、誰も苦労はしないのである。
最後に赴いたドイツでは、フランスの女優サラ・ベルナールの紹介で、当時世界一の大哲学者といわれたドリュース博士に会ったが、天風が探し求めた解答は、ここでもついに得られなかったのである。
ドリュース博士は、「心というものは絶対人間の自由にならないものだ」と断言したのであった。
身に重い病を背負いながら、どこかで救われるかもしれないという淡い希望を胸に抱き、2年も異国の地を歩き回った。その間、ともすれば血を吐き、40度近くの熱もしょっちゅう——。
だがすべては終わった。どうせ死ぬなら、祖国の土の上で死のう。そうだ、富士山のある、桜咲く国、あそこへ帰ろう・・・。
西暦1911年5月25日、こうして天風は小雨のそぼ降るマルセイユのほの暗い港を、日本へ向け旅立ったのであった。
<2012.02.08 東風解凍(はるかぜこおりをとく)>