まさに失望のどん底、文字通り生きている屍がそこにあったといってもいいだろう。そのまま日本へ帰ったとしたら、その後の天風もなく、心身統一法も生まれることはなかったはずだ。
しかしマルセイユを出てから2週間目、イタリアの砲艦が座礁したため、天風の乗った船はスエズ運河を通れなくなってしまい、エジプトのアレキサンドリア港に錨をおろす。数日は足止めということで、航海中に知り合ったフィリピン人の水夫から、カイロまでピラミッドを見物に行かないかと誘われたのだが、病状が悪化してちょっと歩くのでさえおっくうに感じていたほどの天風が、どう考えても不思議なことに、『行こう』という気になった。
ところがカイロについた翌朝、天風はまたしても喀血してしまう。こうなるともうピラミッド見物どころではない。部屋に1人残ってベッドのうえで死んだように横たわっていたところ、夕方頃になって食堂のマネージャーがやってきて、スープでも飲めという。天風が旅の疲れで寝ているものとでも思ったのだろう。そして何か食べるどころか、目を開けているのさえ辛く感じているような男を、なかば強制的に食堂まで連れていってしまったのである。このときも断わろうと思えば断われたのに、なぜかそういう気持にならなかったのが不思議であった。
さて、食堂の椅子にヘタヘタッと腰かけさせられた天風は、これも人の親切だと思って、食べたくもないスープを機械的に口に運んでいたが、ふと顔をあげたとき、不思議な光景が目に飛び込んできたのである。
薄紫色のガウンをはおった、いかにも高貴な身分と見受けられる初老の男が食卓についており、その後ろでは黒人の従者が2人、孔雀の羽のうちわで風を送っている。そしてときおりその奇妙な男がギュッと指差すと、テーブルの上にとまった蝿がピタリと動けなくなってしまう。それを後ろの従者が長い箸のようなものでつまみあげ、容器に投げ入れていたのだ。
天風が体のことも忘れて、その様子に見入っていると、「こちらに来なさい」と流暢な英語で相手が呼ぶ。すると動くこともできそうになかったはずの彼が、立ち上がってフラフラッと男のそばまで行ったではないか。
男はじっと天風の顔を見つめていたが、やがてにっこり笑って、
「どこへ行くのかね?」
「日本です」
「あなたは右の胸に重い病を持っているね。すると何かね、日本には墓場をこしらえに帰るのかね?」
一目で自分の病気を言い当てられ、天風もどぎもを抜かれた。
「・・・私はやるだけのことはやってみました。それでも助からない命なら、故郷の日本に帰って死のうと思ったのです」
「あなたはやることだけはやったというが、それはどうかな? たった1つの大事なことにあなたは気づいていない。それがわかれば、あなたは助かるんだよ。とにかく私についてきなさい。本当に助かる道を教えてあげよう」
人生意気に感ず、とでもいおうか。どこに連れていかれるのやら、また連れていった先で何を教えてくれるのやら、皆目見当もつかないまま、天風は言下に「Certainly(かしこまりました)」と答えていたのである。
お互い初対面で、まだ5分と口をきいていないし、天風は顔面蒼白で、いつ何時死んでしまうかもわからないほどやつれはてている結核患者だ。そんな彼にたいして男が示してくれた真情に、天風は形容ができないほどの感動を受けたのであった。
この不思議な男こそ、ヨーガの大聖者・カリアッパ老師だったのである。カリアッパ老師に伴なわれ、3ヶ月以上をかけてようやくたどり着いたところは、ヒマラヤ第3の高峰・カンチェンジュンガ山麓のゴーグ村であった。
もっとも天風は当初、自分がヒマラヤの麓にいるということをまったく知らなかったという。わかりもしない地名を聞いたところで仕方がない、どうせ地球のうえのどこかにいるのだ、くらいに思っていたのである。それよりもカリアッパ老師は一体何を教えてくれようとしているのか。彼の心のなかでは期待と希望が炎となって燃えていたのであった。
天風が描いたヒマラヤの高峰カンチェンジュンガ。その麓のゴーグ村で、彼は2年7ヶ月に及ぶヨーガの修業を行なった。
ところがひとたび村に入ってしまうと、カリアッパ老師と天風との間には主従以上の隔たりができてしまったのである。老師は部落で最高の地位にあるバラモンの長、部外者の天風は悲しいかな、家畜より下の奴隷の身分だ。ゴーグ村は外界から隔絶された特殊なヨーガの修行地であったが、ここにもカースト制度は厳然として存在していたのである。奴隷は老師の姿を見たら地面にひれ伏さなければならないし、向こうから声をかけられないかぎり、口をきくことさえできないのであった。
こうして何も教わることができないまま1ヶ月がたち、2ヶ月が過ぎ去ると、天風の不安と不満は限界にまで高まっていった。
『一体老師は何を考えているんだ。教えてくれないなら、こんな所にいる必要はない。今日は一つ追い出される覚悟で直談判だ!』
と、ある朝カリアッパ老師が自分の前を通りかかった際、意を決して、パッと立ち上がったのである。すると老師は彼の顔を見てにこっと笑う。しめたと思って、
「お尋ねしたいことがあります!」
「何かね?」
「カイロでおっしゃったお話は、いつごろからうかがえるのでしょう」
「カイロで何といったっけな?」
「えっ。お前はまだ救われる人間だ。だが大切なことを1つ忘れている。それを教えてやるからついてこい——そのお言葉で私はここまでついてきたのです」
「ああ、あれか。あれなら覚えているよ」
「いつごろから教えていただけるでしょうか」
「私のほうはここへ着いた翌日からでも教えたいと、その準備ができていた。だが毎日毎日お前の顔を見るたびに、まだ準備していないので、一体この男はいつになったら教わる気になるのかな、と思ってな。私のほうからそれを催促したかったんだよ」
「これはしたり。全然話が違います。私は来た日から教わりたくて教わりたくて・・・」
「お前はそういうふうに言うがね、私の霊感に映るところでは、お前はまだ本当に教わる準備ができていないのだ」
「いえ、準備はできています!」
「ああ、お前は強情だな。その証拠を見せてやる。器に水をいっぱい注いでおいで」
言われるままに、天風が容器に水を入れて持ってくると、今度は、
「湯をいっぱい持ってこい」
そこで湯を持ってきたところ、
「その湯を水のうえから注げ」
あまりにばかばかしいと思った天風は、
「このお国ではどういうふうに考えてるか知りませんが、文明人はいっぱい入っている水のうえから湯を注ぎますと、両方ともこぼれるということを知っております」
「それを知っているのかね。ならばさきほど私がお前に言った言葉の意味はわかるはずだ」
「それとこれとは違うでしょう」
「違わないね」
「私にはどうしても了解できません」
「そうかね。それほどまでにお前の頭のなかが愚かしいとは思わなかった」
文明人の俺が、未聞人から冷やかされている——だが天風は怒りをぐっとこらえ、努めて冷静な声で、
「その理由を承らせていただきましょう」
「聞かせよう。お前の頭のなかはな、この水がいっぱい入った器と同じで、私が何を言ってもそれをみんなこぼしてしまう状態なのだ。水をあけさえすれば、そのあとで湯を注ぎ込んでやれば、湯がいっぱいになるんだがな、と思ってもお前は一向に水をあけてこない。お前の頭のなかに、今までの役にも立たないカス理屈がいっぱい詰まっている以上、私が何を言ってみてもそれをお前は無条件に受け取れるか? 受け取れないものを与える。そんな愚かなことは、私はしないよ。わかったかね?」
この瞬間、天風のエゴは粉々に打ち砕かれ、彼の魂は大きな衝撃に揺さぶられた。すべての知識や既成概念を放り出した地点からスタートしないかぎり、新たなる道を切り拓くことなどとうていできないということを、天風は明瞭に理解したのであった。老師は微笑して、
「わかったようだな。今夜から私のところに来なさい。生まれたての赤ん坊のようになって・・・」
と言い残し、静かに歩み去っていった。2ヵ月を無駄に過ごしたようでいて、その実、天風の修行はすでに開始されていたのである。
巨大な滝を流れ落ちる膨大な水流が、耳を聾する大音響を発して耳朶を打つ。その滝壷から少し離れた岩のうえで、腰布だけを身にまとった1人の男が端座しているのが中村天風であった。
ゴーグ村にきてはや1年。天風は感覚制御法や呼吸法などのさまざまな訓練と並行して、部落から10数キロ離れた山奥にあるこの滝のもとに毎日通い、終日瞑想して過ごすよう老師から命じられていたのだ。
ところで天風が修行しているヨーガというのは、ラージャ・ヨーガとカルマ・ヨーガといい、これは一般に知られているハタ・ヨーガのようにアクロバティックなポーズをとったりするものとは違って、もっぱら精神方面から人間の内奥にアプローチしようとする。
水と湯の一件でもわかる通り、師は口先だけで教え諭すということをしない。修行者がギリギリのところまで追い詰められ、死に物狂いでそれを突破せざるをえないような状況をわざと創り出し、根本的な理解——というより内面的変容といったほうがより正確かもしれない——へと導いていくのだ。
そして今、天風が取り組んでいるのは、「真の我」という命題であった。数週間前のある朝、体調が思わしくなかったため、山行きの取り止めをカリアッパ老師に願い出たところ、
「なぜ?」
「頭が重くて、熱もあるようですので・・・」
「誰が?」
「私でございます」
「ほう。お前が頭が痛くて、熱があるのかね?」
「・・・?」
「そういう考え方をしているからお前はいつまでたってもその病が治らないんだなあ。肉体が自分だと考えているかぎり、お前は本当の自分を知らないことになる」
「ではこの体は一体なんでしょうか?」
「私に聞いても駄目だ。自分のものは自分で考えなさい」
それから数日というもの、考え通しに考えているうちに、ふと気づいたことがあったので、
「この間の『私』ですが・・・」
「ああ、あれからずっと考えた?」
「はい」
「考えていたのではわからないだろうな」
「でも考えなければわからないのではないでしょうか」
「考えて考えつくようなことは、およそたかが知れている」
「それでは考えないでわかることがあるのでしょうか?」
「ある。それが本当のわかりかたなのだ。それには真の自分というものがわからないと駄目だ」
「間違っていたらお叱り願いたいのですが、自分というものが体ではないということだけはわかりました」
「おお、感心、感心。それでは何だね、自分とは?」
「心です」
「心? ほう、心とは何だ?」
「何かと聞かれると困ってしまいますが、その、生理学でいうと心とは脳のなかにあって・・・」
「そんなことを聞いているのではない。心とは何かと尋ねているのだ。お前は自分が心だと思っているのかね?」
「はい、そうです」
「お前が自分を心と思っているのなら、その思っている『お前』とは一体何だ? お前はどうも心と体のどちらかが自分だと考えているようだな」
心や体が人間でないとすると、心や体とは何だろう・・・。それからまた数日たって、天風はハッと気づいた。心も体も、人間が生きていくための道具ではないか。だが、それなら「真の我」とは何か・・・?
一意専心、この問題と取り組んで滝壷で瞑想していても、時として心は千々に乱れる。ちぎれ雲がフワフワと飛んでいくのを見ただけで、『俺はこのまま名もしれない山のなかで死んでしまうのか。あの雲に乗って日本に帰ることができたら・・・』と、だらしないほどセンチメンタルな気分になってしまうのだ。
そのときであった。膝頭を軽石でこすられているような妙な感じがして、天風が目をあけてみると・・・目の前にあったのは、何と大きな豹の顔だったのである!
一瞬——病の苦しみや不安、恐怖心——何もかもが吹っ飛んで彼の精神は停止状態となり、天風はただ爛々と光る豹の目を見据えていた。いや、見ているという気持すらない。そこには純粋な「覚醒」が在るだけであった。
無念無想にうたれたのか、豹は天風に危害を加える様子もなく、そのまま立ち去っていった。
この一事によって天風は、心と体を超えた人間の本質的実在について、明らかな洞察を得ることができたのである。『本当の自分とはこれだな』と、彼は悟ることができた。
このときふと、かつてカリアッパ老師との間に交わされた会話が彼の脳裏によみがえってきた。老師はあるとき突然、
「どうだね、少しは幸せになったかね?」
と、彼に尋ねたのだ。重い病を背負って、来る日も来る日もやるせない、心細い気持で生きていた天風である。
「少しも幸福になりません」
「そうか。どうしたら幸福になれるのかね」
「せめてこの病気が治ったら、幸福だと感じるかもしれませんが」
「そういう気持では、病気が治っても幸福にはなれないな。お前、本当に幸せになりたいのかね?」
「はい、なりたいと思えばこそ、こうしてここにいるのです」
「それなら、いまからすぐ、幸せになりなさい」
「えッ?!」
「お前は幸せになれるのに、自ら望んでそうならずにいるだけなのだ。すぐになりなさい、幸せに」
「・・・」
そのときは、意味不明瞭な会話としか思えなかった。だが今、天風は胸が張り裂けるような感慨にうたれていたのである。
『そうだ。俺の苦しみは、肉体にとらわれていたがゆえの、不必要な苦しみだったのだ。肉体を病んだからといって、心まで苦しませる必要がどこにある? 先生のおっしゃった通り、今すぐ幸福になることができるじゃないか!
そうだ。俺はたった今から、どんなことがあっても断然、このことを忘れないで生きていくぞ!』
こうして常に心をポジティヴで積極的な方面に向けることに努めただけで、1月がたち2月がたつにしたがって、天風の心はどんどん洗い清められていき、驚くべきことには肉体までが奇跡的ともいえるスピードで回復し始めたのだ。
病気にかかってからの彼は、これとまったく正反対のプロセスをたどっていたのではなかったか? 徐々に天風は、積年の疑問にたいする解答を見い出していった。病気のことであれこれ思い悩むことによってさらに病状を悪化させ、そのために心のなかはますます否定的な考えで充満していく・・・。こうした悪循環の繰り返しによって、彼は自ら生命の機能を低下させてしまうという泥沼状態に陥ってしまっていたのだ。
心身統一の原則——これこそカイロでカリアッパ老師が天風に語った「たったひとつの大切なこと」であり、老師の導きによって、彼は自ずとそれを悟ることができたのである。今や、発病以前にもまして、強健体へと回復しつつある彼の肉体が、その何よりの証であった。
さらに天風は、思いを巡らせる。
『これまで病気や不運は、厭うべきもの、嫌うべきものだと思い込んでいた。だが種を播かずして花が咲くことがないように、あらゆることにはその原因がある。病気や不運は、体なり心なりの使い方が正しい道筋からはずれている、言い換えれば人間が人間としてあるべき本来の生き方をしていないということを報せてくれるシグナルにほかならない。それを機会に人生を見つめ直し、真理を探究し始めることさえできるとしたら、病気も不運も、天の恩寵以外のなにものでもないではないか!』
事実、病にかかることがなければ、天風はまったく違う人生を歩んでいたにちがいないのだ。そのことに思い至ったとき、彼はとめどもなくあふれる涙を押しとどめることができなかったという。
このようにして悟入転生の新天地を切り拓いた天風は、カリアッパ老師から最後の課題「クンバハカ」を与えられる。クンバハカとは「最も神聖な状態」という言葉で表現され、難行苦行を行なうための基本となる密法である。これを会得したものは、山中に篭ってさらに高度な行に進むことができるのだ。
当時ゴーグ村でも、クンバハカを体得している行者はきわめてわずかであったというこの最難関を、天風は1年7ヵ月という驚くべき短期日でクリアーしている。それは戦争体験、闘病生活、そして救いを求めての放浪というバックグラウンドがあったからこその成就であったといえよう。
こうして日本人にして初のヨーガ直伝者となった天風は、カリアッパ老師の勧めで2年7ヶ月を過ごしたゴーグ村に別れを告げ、祖国を目指すことにしたのである。
<2012.02.12 黄鴬見睨(うぐいすなく)>