Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第4章 心身統一 〜中村天風(心身統一法)〜 第4回 盛大な人生

 帰国途上、上海に立ち寄った天風は、その地で竹馬の友である山座圓次郎(当時、支那大使)と再会する。彼は山座の要請で第二次辛亥革命に参加することとなり、孫逸仙(孫文)の最高政務顧問に迎えられた。だが2ヶ月にして革命は挫折し、孫文がアメリカに亡命したため、大正2年、天風は日本へ帰ることを決意した。

高嶋子爵(左)と歓談する天風。高嶋邸にて。 昭和9年、旅先にて。

 彼は帰国後数年にして、東京実業銀行頭取を始めとしていくつかの会社を経営し、実業界で大いに活躍することとなる。
 それと同時に天風は、インドでの修行成果を現代に適合した手法として人々と分かち合うため、そのシステム化の道を模索しつつあったのだ。
 大正8年6月8日、天風は突如としてそれまで築いてきた一切の社会的地位や財産を放棄し、単身独力で統一協会(次いで統一哲医学会と改称)を創設、草鞋に脚絆といういでたちで、毎日上野公園や日比谷公園にでかけ、大道説法を行なったのである。
 同年9月、検事長・向井巌に見出され、彼の紹介で時の総理大臣・原敬と会見する。天風は原をして、「この人は大道で講演をさせておく人ではない」と驚嘆せしめたということだ。その後、東郷平八郎元師、杉浦重剛(儒学者)、石川素堂(鶴見総持寺禅師)を始め、政界・財界の有力者が続々と天風門下に参じたのであった。

昭和11年、愛犬と共に。動物が好きだった天風は、鳥や犬などを常にかたわらに置いていた。  

 この頃の天風の活躍を示す、痛快無類の逸話も数多く伝えられているが、彼が常磐炭坑の暴動を鎮めたときの模様を次にご紹介しておこう。
 不景気が来れば、炭坑労働者も当然賃金値上げを要求するが、現在のような組合制度もない時代だから、なかなかそれがいれられない。常磐炭坑でも賃上げ要求が2度も3度も却下されたあげく、ついに暴動が勃発し、千数百人の坑夫たちが立てこもって、命がけのストライキに突入したのである。
 こうなるともう手がつけられない。高僧や陸軍大将などが説得にあたったが、連中はまるっきり受けつけようとしない。彼らの目的はまとまった金であり、「暴動をやめて、おとなしく仕事についてくれれば話をつけるから」などという子供だましの手に乗るような相手ではなかったのだ。
 そんな状態が1月も続いた後、万策尽きた坑主・浅野総一郎と資金主・根津嘉一郎が、頭山満にすがりついたことにより、天風が登場することとなるのである。

 彼が現地にやって来たときは、谷川にかかる鉄橋をはさんで、警官隊と坑夫たちがにらみあいの真っ最中であった。
 天風が鉄橋に近づいていくと、巡査が2人、大手を広げて飛び出してきた。
「どこへ行かれる?」
「はあ、炭坑へ行きます」
「炭坑? あんた、炭坑に暴動が起こっていることを知って来なすったか」
「はあ、それで調停に来ました」
「ああ、調停ですか。いやあ、ご苦労さまです。どなたがおいでですか?」
「私です」
「あなた? あなた1人?」
 すると警部が出てきて言うには、
「わかった。わかったからお引き取りください」
 どうやら天風のことを、狂人か何かと思ったらしい。
「警部さん、あんた私を頭がおかしいように思っているがね、そうじゃないんだ。玄洋社の頭山満っていう偉い人がいるだろう」
「存じております」
「あの人の命令できた」
「しかし、そりゃあちょっと無謀ですな。事情がおわかりにならないでおいでになったにちがいないと思うけど、ごらんなさい。あの通りだ」
 見ると、鉄橋の向う側ではむしろ旗を立てて大変な勢いである。
「しかし話をしてわからん奴ばかりじゃないでしょう」
「まあ黙って橋のところへ行ってごらんなさい。そうすれば私たちが止めるのも無理はないと思うから」
 言われた通り天風が橋に片足をかけた途端、銃声が谷間に響き渡った!
 後ろから警部が、
「そうらね。まあ橋のこちらまでは鉄砲弾は来ませんけど、向こうに近寄れば近寄るほど危険です。警官でさえ剣呑でそばヘ寄れないんですから。あいつらは人の1人や2人殺すのは何とも思ってやしません。まあばかばかしいお怪我をしてもつまりません。おやめになったほうがいいでしょう」
 ところが天風は、警部の忠告がまるで耳に入らなかったかのように、サッサと鉄橋を渡り始めたのである。
 銃声が盛んに鳴り響き、弾がビュンビュン飛んできて外套の腰の部分に5ヶ所、ズボンの端に2ヶ所の風穴を開けたが、天風自身にはついに1発も当たらなかった。これこそ無念無想のときに現われる、「自在境」とでもいうべきものであろう。
 さて、彼が橋を渡りきってしまうと、人相の悪い男が出てきて、
「やい、てめえ。耳が聞こえねえのか」
「いや。耳、聞こえるよ」
「聞こえるなら、さっきから鉄砲撃ってるのがわからねえのか」
「いや、聞こえてた」
「聞こえてた? あれはな、お前を狙ってんだ、お前を」
「あ、俺を狙ってたのか。それにしちゃ、当たらないな」
「こんちきしょう。やい、これ見えねえか!」
 男がいきなり刃物を突きつけてくる。
「妙なこといいなさんな。ドスじゃないか。俺はおどかされに来たんじゃなくて、お前さんたちの頭に会いに来たんだ」
「頭になんか会わせねえ」
「そんなわからないこと言わないで頭に会わせろ。その後で煮て食おうと焼いて食おうと、お前の勝手にすりゃあいいじゃないか」
「ならねえ」
 そんな押し問答をしているところへ、ちょうど鶏が数羽歩いてきた。それを天風がステッキで触れると・・・鶏たちはピタリと動きを止めて、そのまま身動きもできなくなってしまったのである。
「お、おかしな野郎だな」
 相手は少し気味が悪くなってきたらしい。そこでドスをヒョイとひったくって、刃を掌で握ってゴシゴシしごいて見せてから、
「お前、これ、斬れないじゃないか」
 すると、獰猛な面構えをした男が、まるで猫の前のネズミのようにおとなしくなってしまって、
「いやあ、おみそれしました。どうぞこちらへ」
 と、彼らの頭目の元へ、天風を案内したのであった。
 頭目との話し合いは、5分とかからなかった。
「長い間の篭城で、お困りのご様子だ。何はさておいて、まず第一番に、この遊んでる人間が日干しになるのを、何とか助けなきゃならないな」
「それでやんす。いくらか持っておいでになりやしたか」
「銭は持って来てないんだよ」
「じゃあ、話はつかねえや」
「いや、話がつくことをしてやる。そこに積んである貯炭ね、あいつをたたき売っちまいな」
「いや、そりゃならねえ。こりゃあ坑主様のもんで、こいつに手ェつけたら泥棒になる」
「俺が許すんだ。俺が許すんだから構わないだろう。お前さんたちの責任じゃない。だからとにかく売っちまえ。構うことはない」
「ほんとにいいんですか?」
「いいよ、俺が引き受けたから」
 これで坑夫たちのほうはすっかり片づいたのだが、今度は根津嘉一郎が、委任行為に対する背任罪で天風を訴えたのである。橋の向こうから警官が大声で、平地方裁判所からの召喚を伝えたという。
 すると坑夫たちが、
「べらぼうめ。渡すか、俺らの大事な先生を。連れに来てみやがれ、みんなたたっ殺してやる!」
 と、前にも増して大変な勢いだ。天風も面白がって、どうなることかと成り行きを見守っていたが、これは10日とたたないうちに解決した。頭山満が激怒して、
「すべてお任せしますというからわしは天風を行かせたのに、それを訴えるとは何ごとか!」
 と、根津を大喝したのだ。根津は、早々に告訴を取り下げ、天風に多大な成功謝礼まで贈ったのであった(彼はその金も、すべて坑夫たちに分け与えてしまったということだ)。

昭和38年11月、東京・赤坂プリンスホテルで行なわれた天風会45周年祝賀会。

 こうしたエピソードでもわかるように、天風は超常的ともいえる数々の能力を発揮したが、それらはすべて、心身統一法の副産物といえるものなのだ。では中村天風がその波乱の半生から得た人生成功の哲学「心身統一法」とは、いかなるシステムなのであろうか?
 理論の詳細は省略するが、要するにそれは潜在意識の持つ素晴らしい作用を、実在意識からコントロールしていく方法であるといっていいだろう。主なメソッドとして、「観念要素更改法(潜在意識の陶治)」、「積極精神養成法」、「神経反射調節法(感情や感覚によって心身が受ける衝撃を遮断する。クンバハカ密法が基盤となっている)」等があるが、これらを実践することによって、特に努力せずとも不自然な雑念や妄念、邪念が消えてしまうという。
 すると精神は自ずから統一されて、人間が本来備えているさまざまな潜在能力が発動するようになる。そうなると健康はもちろん、常によい運命に安住して楽々と生きていけるようになるとともに、いわゆる超能力なども困難なく自然に現われてくる、というのが天風の主張であった。
 事実、透視や念力、テレパシーなどの超感覚能力を始め、人間の可能性の極致ともいえる能力を天風がしばしば示したのを、数多くの人々が目撃している。
 カリアッパ老師のように、病人をひと目見てその病気を言い当てたり、妊娠数ヵ月で赤ん坊の性別を判定することなども日常茶飯事であったが、それらは一度として外れることはなかったということだ。
 また天風は、芸術展などにもしばしば足を運んだが、帰宅するとさっそく筆をとって、今見てきた作品とまったく同じ構図の絵を描くことがよくあったという。しかもその出来栄えがすぐれたものであっただけに、周囲の人々の驚きは大変なものであった。
 それについて天風は、生まれつき無器用だから字や絵が下手だとか、あれが得意、これが不得意などというのは、まだ本当に心を使いこなしていない証拠であり、心の使い方が完全であれば、何ごとにも上達するのが当然だ、と説明している。

「統一」という文字を彫った自製のブロンズ懐中時計の根付け。 自ら彫刻した愛用のパイプ。書、絵、彫刻と、すべてに堪能だった。これらの才能は心身統一法の修練によるものだ。

* * * * * * *

 昭和15年、統一哲医学会は天風会と名を改め、天風の活動は全国的に展開されていく(昭和37年には国より公益性が認められ、「財団法人天風会」となる)。
 そして昭和43年、東京・護国寺内に天風会館が落成したのを見届けた天風は、同年12月1日、この世を去ったのであった。享年92才であった。
 中村天風に直接薫陶を受けた者は、全国に10万人を数えるという。そのなかには、皇族や大臣、事業家、学者、人間国宝や文化勲章受賞者、オリンピック金メダリストから俳優、小説家、サラリーマンに至るまで、実に多様をきわめる人々が含まれている。

<2012.02.15 魚上氷>