Healing Discourse

ヒーリング随感 [第3回] 罪の意識

◎労宮を中心としてかしわ手を打つ、その際生じる衝撃の、指先への拡がりと、腕(から全身)への拡がりを同時に感じるようにする。初心者は往々にして、体を固めながら手先だけでかしわ手を打ってしまいがちだ。

◎ヒーリング・アーツは波紋の芸術だ。波の媒体を微細な粒子として感じ、使う。

◎舌触りというのも粒子感覚だ。何かを味わいながら、手をゆっくり<凝集→レット・オフ>。味覚が一気に拡大して泡立つように頭の中を満たす。舌の奥深くにも染み渡ってくる。

◎初心者がヒーリング感覚を味わおうとする時、最初から一気に多くを受け入れようと焦る必要はない。ゆっくり柔らかく、粒子的に受け入れていけばいいのだ。粒子的とは、小さな単位の流動的集合体という意味だ。
 もちろん、初学者であっても「度量」がある程度開かれていれば、ヒーリング波紋に満たされる用意はすでに整っている。そういう人は、超意識への瞬間的移行を、目を瞠(みは)りつつ楽しむことができるだろう。遠慮なく、異次元へと吹っ飛んでいくといい。

◎人が罪悪感や後ろめたさ、後悔などに囚われて煩悶苦悩している際、身体的にはどんな変化が起こっているだろうか? 身をよじりたくなったり、不安に駆られたり、胸が締めつけられるように苦しくなったり、いろいろな感覚があると思う。が、万人共通の最根本の一事とは何か? 
 それがわかれば、ヒーリング・アーツを応用して具体的に働きかけることができる。そして、罪悪感をその場でサラリと消去してしまうことが、実際に可能となる。すると、これまでまったく感じたことがないような箇所に呼吸が染み込んでくるのが直ちに実感できる。柔らかな呼吸の流れが、どこか奥深い場所で渦巻いているかのようだ。
 それを何度か繰り返していくうちに、理会の灯(あかり)が裡に点る。罪悪感とは、身体の一部を閉ざして呼吸を通わなくさせるものなのだ。読者諸氏も、罪悪感や後ろめたさと同時に息苦しさを覚えた経験がないだろうか? それは実際に、私たちを窒息させる。罪悪感が長きに渡って蓄積・強化される時、人は次第に活力を失っていき、ついには息絶えて死ぬことさえある。

◎誰もが、様々な罪悪感を幾重にも重ね重ねて背負っている。罪悪感という霊的タールのようなものが、私たちの全身あちこちにべったりこびりついている。私がこれまで観察してきたところによれば、罪悪感と関わるブロックは特に頭部に集中するケースが多いようだ。
 呼吸に伴い、自分の頭(頭蓋骨)が膨れたり縮んだりする——つまり頭そのものが呼吸している——ことがハッキリ感じられないとしたら、あなたの頭にも相当量の「ツミケガレ」が染みついているとみて間違いなかろう。
 ヒーリング・アーツにより禊(みそぎ)祓(はら)われ開放されてくると、あたかもふいごの如く、頭が一呼吸ごとに膨張進展と退縮凝集を繰り返し、微細に振るえることが生理的に実感できるようになる。もちろん、目に見えるほど大きく動くわけではないが、物理的に計測可能なものだ。ヒーリング・タッチを使えば触覚的に確認できる。頭蓋骨が深く呼吸し、細やかに振るえていればいるほど、人は活力に充ち、健康であり、心身の能力も高い。

◎罪悪感のデリートに着手すると、最初のうち消しても消してもどんどん次の罪悪感が無意識の深みから浮かび上がってきて、これほど多くの罪の意識を抱えていたのかと一驚することになる。1度消したと思っても、すぐ舞い戻ってきたりする。
 それらを根気強く、何度も丁寧に消し去っていくに従い、呼吸の質・量が変化してきて、体の奥底からじわじわ元気がにじみ出てくるのが自覚されるだろう。やがて、青少年期の頃に感じていたような活気が少しずつ戻ってき始める。
 罪悪感とは、呼吸を抑圧して私たちから活力を奪う「病」にほかならない。一種の精神寄生体、または神経インプラントと観ることもできる。それを少しずつ駆除していくに従い、弱気やためらい、腰の重さ、引きこもりなどが自然に消え失せ、「何でも来い!」、「何でもできる! やってやる!」という強固な確信・気力が心身に満ちてくる。始めたその日のうちに、変化を自覚し始める人も少なくない。
 ヒーリング・アーツの基本であるレット・オフ、その初級レベルを会得している人なら、これまで述べてきた「罪悪感の消去法」を、自分自身で探求していくことが可能だ。多くのヒントを文中にちりばめておいた。

◎自分自身であれこれ積極的に試行錯誤を繰り返すことが嫌な人、消極的に与えられるのを待つだけの人、そういう人たちにはヒーリング・アーツは向いていない。

◎ただ、人のみが、自然の理法から外れて行動できる。罪人(つみびと)として宇宙に存在することを許されている。ここでいう罪とは、人間が作った法律を犯すことではなく、自然の法則に背いた在り方を指す。
 身体の行動原則から外れて動き続けることが、不調・病を生じさせる。悩みが生まれる。苦しみが表われる。これこそ古代の日本人が感じていた<ツミ>の本質にほかならない。それはユダヤ・キリスト・イスラム教的な原罪とはまったく異なる概念・感覚だ。

◎こんな人はいないだろうか? ・・・・玄米菜食が体に良いとどこかで聞きかじり、食生活を変えたいと思いつつも、なかなか実行に移せないでいる。たとえ始めても、古い習慣でつい肉を食べてしまい、胃にもたれる。そのたびごとに、「もう(肉を食べるのは)充分だ」〜「これをきっかけに」〜「今度こそは」〜「そのうちきっと」〜「なァに、本気になれば」などとやっているうちに、日ならずしてまた元の木阿弥に戻ってしまう。
 スーパー等で売られている食品の成分表示を見ると、そのほとんどに砂糖とかアミノ酸が使われていて驚くが、砂糖は体に悪い、化学調味料は害になると信じている人なんかは、ああいうものを食べたらたちまち気分が悪くなるのだろう。
 さて、こういう人たちはおしなべて疲れやすく、集中力が途切れがちで、体調や気力に波があって不安定だろう。それは肉や砂糖を食べているせいではない。悪いものを食べてしまったという罪悪感、意志の弱さに対する後ろめたさ、そういう思いがけないものが彼女/彼らの身体を責めさいなんで縮こめ、心を萎(な)えさえているのだ。
 体に悪いものを食べた。ならば、全生命力を総動員して消化・吸収にこれ努めればよろしい。ところが・・・アアッ、どうしたッ・・・罪悪感という無意識的葛藤が生命の流れをあちこちで停滞させ、澱ませ、生理的に身動きが取れなくなってしまっている。生命力は萎縮し、徐々にすり減り、内臓も次第に弱ってくる。ちょっと食べただけですぐ腹が張り、息苦しさを感じるようになる。ちょっと変わったものを口にしただけで、たちまち胃がシクシク痛み始め、下痢をするようになる。こういうのを、「食物に逆に食われる」というのだ。
 そんなにっちもさっちも行かない状況ですら、レット・オフは転じて福となすことができる。
 実際、食に関する罪悪感を消去していくと、驚くほど胃腸が頑丈になってくる。何でも美味しくいただける。たくさん食べた直後でも、どこに入ったのかわからないくらいだ。
 こういう状態を基本とした上で節制を心がけてこそ、真の健康が獲得できる。すなわち、ヒーリング・アーツの食養はあくまでも積極的ということだ(ただし中〜重症患者にはそのまま適用されないことはいうまでもない)。

◎罪悪感の本質が身体的に感じられなければ、いくらレット・オフの妙法を手中にしていても、虚空に向かって呪文を唱えるようなもので、単なる宝の持ち腐れに終わってしまうだろう。
 レット・オフをどこにどうやって応用していくか、・・・それがヒーリング・タッチ(アーツ)中級編における主要な研究・実践テーマとなる。

<2009.02.10>