Healing Discourse

ヒーリング随感 [第8回] 罪悪感からの解放

◎義務とは、誰からも勧誘・示唆されることなく、自分自身の裡より自発的に湧き上がって来るものでなければ、まったく意味をなさない。他者から強制され、あるいは他者を気にしつつ、嫌々ながらに遂行する義務など、私たちを重く、苦しくさせるだけだ。反(アンチ)ヒーリングだ。<ヒーリング>に至上の価値を置く者にとって、それは道を外れることにほかならない。

◎自らの裡より自ずから湧き起こる義務感を、聖なる召命として受容する時、人のオーラには新たな質がクロスオーバーされ、「尊厳」の輝きを放つようになる。尊厳という言葉を構成する1つ1つの文字を、反芻しつつ何度もよく味わい、感じ取ろうとしてみるといい。
 召命(コーリング)とは、呼びかけであり天命だ。どこから呼びかけられるのか? 自分自身の裡だ。決して外ではない。それを常に忘れてはいけない。 
 
◎私は、罪悪感や後ろめたさ、怖れ、期待、希望、夢などあらゆる思いのすべてを粒子状に解き放ちながら、自らに問いかけることを繰り返してきた。
「この<道>に、真(まこと)に価値ありや、否や?」・・・・と。
 ちょっとばかり開放された程度の、一時的気持ちよさの勢いで「然り」と即答することなく、徹底的に疑い抜き、じっくり冷静に検証し、疑いそのものが粒子状に解体されて融けるまで突き詰め、あらゆる予断や憶測から解き放たれた自由な精神と身体とをもって、・・・・ただ祈り、・・・・待つ。
 頭であれこれ考え、天秤にかけた結果を求めるのではない。逆にそういう諸々の計らいからまったく開放された融通無碍の境地に遊び、ヒーリング聖楽の真っただ中から神秘的ともいえるやり方で示現する、「ある感覚」を、謙虚に、静々粛々として、待ち受ける。

◎これは人類の新しい神話なのだ。舞(身体運動)によって語られる神話だ。ヒーリング・アーティストは身体を通じて神話的力(マナ)と響き合い、超越的なるもの(マナ)の通路となることを受け容れる。

◎さて、読者諸氏は第3回で提示した「罪悪感」というテーマについて自らに問い、研究してきたことと思う。ヒントはたっぷり示しておいた。「息苦しくなる」、「窒息させる」、「(ディレートすれば)呼吸が深く通うようになる」云々・・・。
 そう、罪悪感を感じ、あれやこれやと言い訳し弁解し、自らを説得しようとし納得させようとしている時、・・・・・・・「息が止まっている」。
 完全に停止していなくても、どこかが滞っている。相反する考えがぶつかり合い、摩擦を引き起こし、それが呼吸を停滞させるのだ。
 目を閉じて実験してみるといい。それについて考え始めると、胸騒ぎがしたり頭が締めつけられるようになったりするパターンを再現してみるのだ。この時は呼吸のことは完全に忘れてしまう。そしてあれこれ考えた揚げ句、「行き詰まった」と感じたなら、呼吸を観察してみるのだ。
 必ず滞っているはずだ。完全に止まっているかもしれない。「行き詰まる」とは、「息が詰まる」ことなのだ。

◎罪悪感でも後ろめたさでも(外部から強制された)義務感でも何でもいいから、自分を重苦しくさせるありとあらゆる思考・記憶で試してみて、私が述べていること・・・息が止まっている・・・・ことがどうやら事実らしいと確認できたなら、後の作業はシンプルだろう?
 その止まっている息をごくわずかに強調して止め、そしてレット・オフだ。静中求動を心がける。
 そこから息は吐かれるかも知れないし、吸われるかも知れない。吐かれるべき息が停滞していたのか、吸われるべきところが滞留していたのか、それはケースバイケースで毎回異なる。だから、何も考えず、吸おうとも吐こうともせず、ただ「息を止めている状態」を感じ、強調し、レット・オフするのだ。

◎呼吸のことを放念して静かに待っていると、これまで感じたことがないような場所に息が染み透ってくるのに気づくだろう。硬く閉ざされていた箇所に、内面から息が柔らかに通じ始める。2〜3回やっただけで、「罪悪感が人を窒息させる」と私が言う意味がわかり始めるだろう。
 こうなると面白くなってくる。
 どんどん罪悪感を喚び出し、呼吸がどんな風に止まっているかを体で感じ(顎に力を入れたり、目を強ばらせたり、いろいろなやり方で止めている)、<強調→レット・オフ>の妙術を思う存分振るって、生理的にディレートしていくのだ。凝滞していると感じられる箇所とヒーリング・タッチで触れ合うことは、大いに助けになる。
 自分で罪悪感を消そうとしてはいけない。息をしようとしてもいけない。ただ、止まっている状態を意識的に強調してレット・オフし、じっと静かに待機するのだ。
 罪悪感の在庫がなくなってきたら、押し入れの奥から埃を払って引きずり出してきて、解放の材料へと供する。心配しなくても、私たちの心身に蓄積された罪悪感のストックはそう簡単に尽きはしない。
 そして、ちょっとやってみればわかるだろうが、薄皮程度の浅さ、それもごく部分的なレベルで罪悪感を消去しただけで、新しい活力が呼吸の裡に宿るようになる。じわじわと新しい元気、新種の活気が出てくる。活気とは、一種の火だ。火が燃えるためには酸素が必要だ。その酸素の取り込みを、罪悪感は阻害する。

◎徹底的に実践してどんどん解放されてくると、こんな疑問が出てくるかも知れない。「・・・・・まったく罪悪感を感じなくなったら、一体どうなってしまうのか?」と。
 私があなた方に教えているのは、「こういう風に考えて自分を納得させればいい」といった道徳的・宗教的損得勘定ではない。罪悪感という現象の本質を身体的にとらえ、それをレット・オフするという純粋に科学的な方法論について私は説き、あなた方に追試・検証を促している。

◎罪悪感を生理的にディレートすることは確かに可能だ。少しやっただけで、生きることが楽に、楽しくなってくる。徹底的に突き詰めて実践していけば、あらゆる罪悪感から自由になることもできるだろう。
 このようにして罪悪感を感じなくなった者は、何でも好き勝手放題をやって平然としているような反社会的人間と化すのだろうか? 始めたばかりの者が気にするべきことではないかも知れないが、しかしそういう疑問も真剣に抱くようでなければ、この道の奥深くにまで招かれることは決してあるまい。
 とにかく自分自身で試してみて、自分自身で見極めるしかない。罪悪感が消去された自由な境地において、自分が何をしたいと思うか、どのように在りたいと感じるか・・・。

<2009.02.18>