Healing Discourse

ヒーリング随感 [第10回] 樂(たのし)

◎私にとって「ヒーリング」が意味するあらゆるものを、たった1つの漢字に集約するとしたら・・・・・現時点で、それは「樂(楽)」(たのし)だ。
 私のプライベート道場には、約2メートル四方の「樂」の大書が掲げられている。いやしの流れそのものとなって揮毫(きごう)したら、この書が顕われてきた。「樂」という字を書こうとして書いたのではない。自ずから顕われてきたのだ。
 実物を間近にするとわかるが、この書の中央には直径30センチほどの褐色の染みがある。そこから飛び散った無数の飛沫が、紙の全面を覆い尽くしている。それは、いやしの祈りを込めて我が鮮血を、髑髏杯(どくろはい)より一気に注ぎかけた跡だ。
 これによって示されるように、私が言う<樂(ヒーリング)>とは、決して安易さのことではない。

◎強い力でギュウギュウ体と心を痛めつけることこそ修養の本義なり・・・そんな風に誤解して一生懸命やっていた時期が、この私にもあった。「血のにじむ努力」という言葉は、当時の私にとってごく常識的なことであり、そんなものに特別な価値があると感じたことなど1度もない。実際、体中あちこち血がにじんだり、黒やら茶色やら紫やら、色とりどりの打ち身でまだら模様ができるなど日常茶飯事だった。そして、この程度のことではまったくもって足りないと、いつも不満足だった。
 当時私が不定期に設けていた公開のトレーニング・セッションに、荒々しい実戦的稽古で有名な某空手流派の師範が、武術の素人たちに混じって参加したことがある。その師範は後日、「実は最初、あんな荒行・苦行を喜々としてこなしていくこの人たちは、頭がおかしいに違いないと真剣に悩みました」、なんて告白していた。
 最初それを聴いた時、私は彼が何を言わんとしているのか、よく理会できなかった。実際に殴ったり蹴ったりして相手を昏倒させることも珍しくないという稽古・試合を数多く経てきた武術のプロフェッショナルをして腰を引かしめる、そんな大それたことを自分たちが何かしでかしたろうか??? ・・・・具体的練修内容を1つ1つ想い起こしてみても、思い当たる節がまったくない。それくらい、ハードさが当時の私には当たり前のものとなっていた。
 そういう過程を経て、現在のような柔らかくゆっくりした稽古法が自然に形成されていったことを知れば、<樂>の文字をもって安易さを意味しない、という私の言葉が少しはご理会いただけるかもしれない。

◎旧来の修業システムの多くは、「苦」を耐え忍ぶことに焦点が当てられていた。ギリギリ締め上げていったあげくの限界点で、自ずからほどけが起こる。
 合理的な修練法だが、これ以上努力することはいかにしてもできないという極限の努力にまで至り着くことができる人間は、言うまでもなく極めて少ない。人類の中の、例外的少数者といっても過言ではなかろう。
 これに対してヒーリング・アーツは、「樂(楽しさ、気持ちよさ)」に焦点を移し替える。
 頭で考えてそうしたのではない。文字通り手探りで試行錯誤を重ねつつ、自らの心身との対話を倦まず弛まず継続していく中で、忽然(こつねん)としてその道が拓かれていった。

◎難行・苦行の果てに昔日の修行者がようやく得ていたものを、一端とはいえ、その場で直ちに会得できるとなれば、今度は安易・怠惰へと流れていく可能性も否定できない。人間というのは、なかなか一筋縄ではいかないようにできているものらしい。

◎ヒーリング・アーツにおける「樂」は、すでに繰り返し述べたように、安易さ、いい加減さなどとはまったく違う。
 樂(たのし)とは、生命力の燃焼だ。歓喜だ。たまふりだ。ヒーリングだ。賑やかで同時に静かだ。途方もなく広いと共に極小の微粒子的1点という小ささを備えている。深くて高い。畏怖に振るえ、歓びに振るえる。穏やかでありながら強い。
 こういう状態/作用を表わす専門用語が中国武術にはあって、「勁」という。ヒーリング・アーツもまた、勁を重視して活用する。

◎『古語拾遺』によれば、「たのし」とは「手・伸し」であるという。
 ヒーリング・アーツは手に始まり、幾度も手に還ってくる。1つ1つの修法を、1手2手という風に数えもする。

◎昨日、練修していて、ふと、手をもっと粒子的に振るわせたくなった。かしわ手を打つだけでもいろいろなやり方があるが、それにとどまることなく、甲と甲を様々な角度・力加減で打ち合わせたり、指の又に手刀や前腕を打ち込んでいったり(目を閉じて勢い良くやっても突き指などしないものだ)、関節を振るわせ、骨に振動を起こすことを眼目として、数時間かけてたっぷり楽しんだ。腕も足も脚も、体も、手が届くところは、開かれた手で叩いて叩いて叩きまくった。
 裡を感じながら、・・・<凝集→レット・オフ>を適宜使いながら、・・・ひたすらに叩いていく。全身が細かいたまふりに包まれ、沸々と活力が沸き立ってくる。冬の間に、寒さで全身が随分強ばっていたのだと、こうして深くほどけて来て初めてわかる。
 合間合間に、舞をはさんでいく。これもまた、「手ほどき」の一法だ。
 限りない滑らかさ、艶やかさを伴う運動感覚。滑らかに動くのではない。ただ、滑らかさのみがある。時あたかも七十二候の「土脈潤起(どみゃくうるおいおこる)」・・・暖かさに大地が潤い、活気づき始める頃・・・。

◎昨日、あれだけ強く、激しく全身を叩き、床や壁に打ちつけた割には、今、どこも痛くないし、薄い青あざひとつ残っていない。全面的にリラックスし、委ね切る態度にて、合理的に、無理せず、注意深く稽古すれば大丈夫だ。

◎ヒーリング・アーツ初心者の中には、「ゆっくり、柔らかく、粒子的に」を強調する余り、このように体を勢いよく叩いたりするのは良くないことだと誤って思い込んでしまう人がいる。
 もちろん、闇雲に叩くばかりでは害があるかもしれない。が、心身の振動感覚(たまふり)を基調とし、気持ちよさに焦点を当てつつ行なえば、人間には強烈な刺激をも平然として受容し、活力へと変えていけるだけのふてぶてしいキャパシティーがあるものだとわかってくる。それこそが、生命力の器だ。
「ゆっくり、柔らかく、粒子的に」を、「こわごわ、恐る恐る、抜き足差し足、石橋を叩いて渡らず」と取り違えることなきように。そんな風に誤解していると、いつまでたっても遅々として熟達できないのは当然だ。

◎肘も固まりやすい。利き腕は特にそうだ。
 肘だけを熱めの湯にしばらく浸して「ほどけ」を体感し始めれば、肘(関節)が緩むことがどれほどの開放感、自由さの感覚をもたらすものであるか、すぐに理会できるだろう。頭をあれこれ使った後も、不思議なことだが、肘がかなり強ばっている。そして肘が硬くなると、自由奔放な発想が生まれにくくなる。
 肘と内的状態との因果関係を体感的に探求していけば、既成概念や思い込み・偏見・先入観と、肘のこわばりとが密接な対応関係にあるらしいことが徐々にわかってくる。

◎禅の衣鉢を達磨大師から受け継いだ慧可は、面壁して誰にも法を説こうとしない達磨に対し、自らの腕を肘から斬り離し、黙して差し出したという。
 肘を開放していくと、そんな逸話も自然に想い起こされてきて、ますます楽(樂)しくなってくる。
「あらゆる既成の価値観をすべて捨て去り、あなたに帰依します」という、宇宙的・神話的な求道の舞を奉納し得た者にして初めて、達磨を振り向かしめることができたのだろう。
 ヒーリング・アーティストたらんと志す人に対し、私は腕を斬り落とすことなど求めはしない。しかし・・・・肘が空っぽになって消えてしまったかと思えるくらいの開放度でなければ、どんな術(わざ)を習ってもできる/わかることなど高が知れている。これはヒーリング・アーツに限らず、いかなる<道>でも同じことだ。

◎肘関節の上下(上腕側と前腕側)関係が、様々な動作においてアンバランスになっていることが、肘のブロック(慢性的硬直)が形成される主因となる。そういう不均衡がなぜ生じるかといえば、「裡」の感覚に基づいて身体を運用していないからだ。
 例えば、腕を曲げようとする際、手が肩に近づくのはあくまで「結果」であって、それを「目的」にしてはならない。・・・この意味が判然と鮮やかに理会できないとしたら、あなたの肘はいまだ既成概念に覆い尽くされて、身体の真に自然な動きからあなた自身を遠ざけていると観て、まず間違いなかろう。

<2009.02.20>