Healing Discourse

ヒーリング随感 [第14回] ヒエロファニー

◎宗教とは元来、意識の最高の開花だ。
 組織宗教について述べているのではない。イエスはキリスト教のことなど何も知らずに十字架にかけられた。仏教は仏陀の死後しばらくたってから形を整え始めた。だからイエスはキリスト教徒ではないし、仏陀は仏教徒ではない。
 私が宗教という時、それは組織とかドグマ(教義)、神学、天国と地獄、あの世、罪と罰、霊的ヒエラルキー(階級)などとは何の関係もない。
 私にとっての宗教とは、「生きる」ことの本質を全身全霊で探求し、実現し、表現していくプロセスにほかならない。そこには、神でさえ、入り込む余地はない。あるのは「聖性(神聖さ)」の感覚のみであり、どこを探しても「(人間もどきの)神」など見当たらない。
 あらゆる物事、あらゆる出来事、天地万象が神性の顕われにほかならないことを直(じか)に感じる時、特定の場所(天国)に住んで特定の人々(信者)にのみ恵みを垂れるちっぽけな神のことなど、誰が気にかけるだろう。
 かつて、最大の敬意と畏怖の念が、宗教という言葉には込められていた。しかし今やそれは、相手を罵(ののし)り、貶(おとし)めるためのネガティヴな言葉と化してしまっている。これこそ、本格的な末法の世が到来したという、何より確かな証拠だと私は感じる。

◎末法の世、カリユガの時代には、狂気が世界に蔓延するという。そのような時代にあって、人生を輝かせる真理を人々と分かち合うためには、抽象的で高度な観念論ではなく、誰でも理会して実践できる、具体的かつシンプルな修養体系が求められる。否、時代の必要性に応じて、それ自身が、自ら姿を顕わす。
 地球神道の祀(まつ)りの術(わざ)・儀軌(ぎき:儀式や祭儀の規定)たるヒーリング・アーツは、まさにそのようにしてこの世界に示現しつつあるのだ。

◎それ以前に知らなかったこと、できなかったことが、一体どのようにしてわかるようになり、できるようになるのか——。
 数年前のことだが、ふとした機会に、超越的な叡智が顕現する瞬間を捉えることに成功した。
 それは、レット・オフの拡がりと同時に注ぎ込まれていた。凝集から拡散の相へと移った際、空(から)の器に甘露が注がれるように、ヒエロファニー(聖性示現)が起こっていたのだ。
 その後日常生活の中でも観察してみたところ、何かインスピレーションが閃くのでも、必ずオフの流れに乗ってやってくることがわかってきた。
 オフとは、開かれ、間(ま)が空くことを意味する。ほどけ、開かれることで、これまでになかったまったく新しい質が注ぎ込まれてくる。いやし、感動、歓び、統合感、安定感、ダイナミズム、健康感・・・。その「質」には、様々な呼び名がある。それを私は<ヒーリング>と総称している。

◎超越的領域から私たちの世界に流入してくる聖なる力を、古代ポリネシアの人々は「マナ」と呼んだ。神聖さの感覚は、思考(考えること)によって捉えられるものではない。それは体丸ごとでダイレクトに感じられる。
 聖性に対する感性が開かれるためには、内的な成熟が必要とされる。その成熟は、心身両面における真剣な探求を継続することによってのみ、もたらされる。

◎レット・オフのやや奥深い世界を味わった人々の手記(抜粋)をいくつか——。
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 <体験記1>
 レット・オフによって訪れる感覚は、とても穏やかで、健やかな身体感覚です。レット・オフをすればするほど、身体が空間に溶け込み、透明になり、空となり、自分が消え、そして、身体の中には、小さな自分を超えたより大きな何かが存在することを感じ始めます。そこには同時に、本来の自分に近づいている、という実感をも伴います。自身が輝き出し、そして世界も輝き出します。誰もが愛おしく感じられ、喜び、活力、自分の前にあらゆる可能性が開かれているのを感じます。<K.Y. 男性・神奈川県>

 <体験記2>
 今までの体験をふり返ると、レット・オフすることにより、突如として、彩りにみちた豊饒な流れが注ぎ込まれる感覚を感じることがあります。レット・オフが広がる感覚とは、単に緩むのではなく、そこから広がる輝きに彩られた世界は、生命の実感、生きている実感、限りない充足、溢れるような歓びを感じさせるものです。ちっぽけな自己は流れに広がり溶けていき、どこまでもレット・オフされていった時あらわれるのは、まったく別々に感じられていた感覚が突如融合されたような絶対的感覚です。<Y.S. 男性・東京都>

 <体験記3>
 何らかの原因で煩悶・苦悩で覆い尽くされ、苦しみの世界に固く閉ざされたとき、レット・オフを行うことで、すべてを明け渡して空っぽになり、苦痛に満ちた閉ざされた世界から解き放たれます。朝日が昇るように晴れ晴れとして自由と清々しさ、自分自身と向き合っているという感覚と、今現在自分は生きているんだという感覚が沸き起こり、同時に苦しみを作り出し、苦しみの世界にこだわり、その苦しみの原因を握り締めて手放すことができなかった自分を見い出します。そして、固く閉ざされて澱んで滞った世界からレット・オフにより一瞬にして新たな流れが生まれ新たな清々しい世界が始まります。<T.M. 男性・愛知県>

◎聖なるものが顕われる時、人は自ずから振るえる。これが聖なる感覚の基(もとい)だ。それを私は、たまふりと呼んでいる。

<2009.02.24>