Healing Discourse

ヒーリング随感4 第3回 龍宮拳ノート

◎青竹踏みからソフトボール、そしてフローイング・ソーサー改め龍の台[うてな]へと、1つのマナ(わざ、教え)が進化・変容していくプロセスを、ここ最近ずっとご紹介してきた。このように私がマナと呼ぶものは、最初に顕われたままずっと変化しない死物のようなものではなく、まるで生き物のように生成・変化を遂げていく。
 変化するのだから、当然ながらそれは絶対(不変)の真理ではない。
 この点、注意が必要だ。
 変わるもの、死ぬもの、生まれるものは、絶対不変の真理ではない。
 古今東西の賢者たちが語ってきた通り、真理は言葉では言い表わせない。時間をかけ修練した結果として真理が知られることも、決してない。
 マナとは、私たちの心身のあるがままを、「私たち自身で」知るための、あくまでも手引きであり、ガイド、あるいはサジェスチョン(示唆)にすぎない。
 真理はあなた自身の裡にある。
 あなたはそこで、自然の本質なる神(表現しえない究極のもの)と出会う。
 あなたは神を容れる器となる。
 神の楽器となり、神によって振るわされる。
 すると、満身のたまふりが一気に活性化する。
 そんな時、人は歓喜して思わずかしわ手を打ち鳴らす。何度も、いく度も、繰り返し。

◎先日、ヒーリング・ネットワーク同志のたっての希望により、龍宮拳伝授会を急きょ執り行なった。
 その模様の一部を撮影したので、ご紹介する。すべて、妻の美佳が龍の台を用いつつ撮影したものだ。

◎ムービー1 目隠し稽古

 術者は完全に光を遮断する目隠しをつけて龍の台に乗り、土踏まずのバランスを取る。それに対し自由にかかっていく、というものだ。

 これまで、1~2名を相手に数度しか練修したことがない目隠し稽古を、伝授会初日いきなり10名を相手に試みたから・・と言い逃れするつもりは決してないが、ちょっと「硬かった」かなと思う。水になり切れてない。まあ、私も昨年夏に始めたばかりの初心者だ。
 かかり手の方も、こんなことを初めてやるという者が多く(龍宮拳初体験者さえ混じっていた)、中には何を勘違いしたか私に打ちかかってくる者までいる始末だ(目を閉じて打撃をかわす訓練にあらず)。不手際や不慣れな点はご容赦いただきたい。
 もっとゆっくり柔らかな稽古にて、目や耳に頼らない(私は音で相手の方向がわからない)触覚重視の自然反射を水的[ウォータリー]に拓いていくことに、まずは取り組むべきだろう。
 それにしても、目を閉じて人と様々に触れ合い、水として波紋を共有、交流し合うことは興味深い。ジャック・リュセイラン(ヒーリング・アーティスト列伝第3章『そして光があった』参照)が述べているような知覚の未知の可能性を、今回の目隠し稽古の真っ最中、直感した。

◎ムービー2 波紋棒

 これまで私は、ホームセンターで買い求めた適当な棒を使っていたのだが、「それではいくら何でもひどすぎる」と、ある篤志家が最近寄贈してくださった本赤樫やスヌケの棒は、手触りの細やかさが圧倒的に違うし、手に取った際のしっとり吸いつくような稠密[ちゅうみつ]の重みは、ヒーリング・アーツの繊細感覚を活かす絶好の場といえるだろう。
 この寄進の棒にマナを込め、ぶっつけ本番で使ってみた。感謝と祝福をいやしの波紋として分かち合う<武術舞>として。
 流れている曲は、妻の新曲の1つ『レインボーズ・エンド』。  

 観の目で向かい合えば、棒にこもるマナ(生命力)が、棒の裡で波打っているのが、まもなく観えてくるはずだ。
 観えにくいとしたら、目の開き方に偏りがないか、今一度チェックしてほしい。
 普通に目を閉じたり開いたりする時、もっぱら上まぶたが上下している。実際に指で触れ合って確認すれば納得できるだろう。
 だから、目の上下を均等に開くためには、まず上まぶたをあげて目を開き、そこから目の上下を相照的に、同時・均等に、徐々に開いていく練修をするといい。
 目の上下が同調すると、そこから細やかな振るえが起こって全身へと及んでいく。

◎敵と相対[あいたい]する時、目の上下が偏ってはいけない。
 威圧的になったり卑屈になったり、目の開き具合の偏り方次第で、いろいろする。目の開き方の偏りが全身の使われ方の偏りと対応し合っているからだ。
 目の上下が相照しながら大きくみ開かれ、全身をすっぽり覆い尽くすように、あるいは全身が「観る」ことの裡へと没入するように。
 世界が「観ること」のみになる。
 目に世界が満ちる。
 このバランスを常に崩さないようにして戦うことが、非常に重要だ。そうすれば、常に恐れず、ベストを尽くせる。
 この要訣[マナ]を戦いにおいて忘れ去ることの方を、むしろ恐れよ。

<2012.02.14 魚上氷[うおこおりにのぼる]>