Healing Discourse

質疑応答 [第3回] 小手と篭手

 まずは新年の挨拶として、以下の修法フォーミュラを読者諸氏の1人1人にうやうやしく捧げよう。

[フォーミュラ]
 自らの「脇」を、真に意識化せよ。

 脇とは一体どこか? 上記の修法を通じてそれが初めて理会できた時、私はそれ以前にも肩や胸が随分柔らかく楽に自由になったと悦んでいたのだが、実際にはゴツゴツした力が入りっぱなしでまるで話にならなかったと感じられるような、それくらいレベルが違う緩み方を体験した。
 ほぼ日常的にその状態に入るまでに、しばらく時間がかかった。時折チェックして、いつの間にか再び芽吹いている仮想を見つけ出し、デリートしていった。大して時間はかからない。慣れれば街中を歩きながらでもできる。
 脇と肩の関係、そして脇を開放する基本的な手法については、「ドラゴンズ・ボディ」第6〜7回ですでに説いた。ヒーリング・ムービーの#(ナンバー)5では、腕の角度を変えて同じ修法を行なう応用的手法と、それによって開かれる脇、肩、胸の柔らかさを相対練修(パートナーと組んで行なう練修。相手は複数のこともある)で共振させる様子をご紹介している。
 脇を粒子状に軽く凝集させておいてレット・オフする。それだけでもかなりの効果がある。肩の重荷を下ろしたような解放感が、その場で直ちに味わえる。
 ある程度習熟してきたら、次は様々な腕の角度で行なっていく。驚くような発見があるだろう。その際には、脇そのものを意識化していくことが大切だ。脇「について考える」だけではダメだ。脇の意識を覚醒させなければならない。

 例えば掌を上に向け、腕を伸ばしつつ、体側から大きく半円を描いて真上にあげていく。この時、あなたの脇は一体どこにあってどこを向いているだろうか? 
 まずはこの動作を行ないつつ、「考えて」みる。次に、もう一方の手を使って直接脇のくぼみと「触れ合い」、脇の実際の位置及び角度を身体感覚で確認する。
 ほとんどの人が、このように真横から腕を上げる際には、脇も真横を向くものと仮想していたことだろう。
 だが実際には違う。それは斜め前を向いている。動作につれて脇の開き方は変わるが、真横を向くことは決してない。姿見でも確認できる。

 脇における主観と客観が合致すれば、両腕を体側から上げることによって胸が大きく開き、大量の息が自然に肺に流れ込んでくるようになる。
 それが体感できたなら、わざと脇が真横を向いていると仮想してみよう。たちまち肩・胸・背中・腰・首・腕などが窮屈になるだろう。

 次は、脇の後ろ(広背筋)をつまんでほしい。かなりの厚みがあるはずだ。その厚みは、果たして「脇」なのか?
 ヒーリング・アーツ初心者にとって、「脇」とは「腕のつけ根のくぼみ」だ。すると、その後ろにある広背筋の厚みは脇ではないことになる。同様にして脇の前にある大胸筋の厚みもまた、脇ではない。
 あなた方は、脇の前後を含めて、何となく脇と思い込んでいた(仮想していた)ことだろう。それらを分離し、皮膚のくぼみだけを脇と再定義する。頭で考えるだけでなく、直接触れ合ってその部分そのもので感じるのだ。

 この新しい定義に従えば、脇は驚くほど狭く、小さくなる。そして、広背筋も大胸筋も脇の一部ではないのだと認識を改め、仮想から解き放つと、その解放感たるや、胸郭から上(上体)がまるで溶けて消えてしまったかのようだろう?
「解放された」と感じるということは、それまで囚われ続けていたということだ。魂が仮想身体という牢獄に幽閉されていた。ゆえにあなたの肩はずっと重く、苦しかったのだ。
 脇の仮想が生じる主要な原因は、私の感じるところによれば、上手にやろうとする作為や、硬直した義務感、あるいは精神的重圧(プレッシャー)ともっぱら関わっている。
 肩のブロックは、あらゆる道において真の体得を妨げる障碍の1つだ。ゆえに、すべての道が「肩の力を抜け」と説く。
 
 今回の質問を取り上げよう。

<第6の質問>
 先日参加させていただいた相承会の中で、先生から「小手先で術を行なっている」とのご指摘を受けました。そこで、改めて先生の術をかける様子を観察させていただきましたところ、余すところなく全身が術に参与している様が観て取れました。私は、その時、何かとてつもなく大事なことを教わったような気が致しました。
 それ以来、練修の中等で、常に全身で術を行なうことを心がけてきました。現在、私がヒーリング・タッチやワンフィンガーゼン等において心がけているのは、労宮を中心として動作を行なうこと、作用と反作用の両方を同時・均等に感じ取ること、裡を意識することの3つです。今私が取り組んでいることについて、ご助言やご示唆をいただけたら、と思います。よろしくお願いいたします。<S.M. 男性・宮崎県>

 * * * * * * *

 私が「小手先で術(わざ)をかけている」と言う時、それは「小手先から直ちに離れようとするのでなく、まず小手先について探求せよ」という意味だ。
 そもそも「小手」とは一体何か? それがわからなければ、「小手先」が何を意味するかもわからない。わからなければ改めようもない。レット・オフしてそこから解放されることもできない。だから、まずはヒーリング・アーツにおける「小手」を、明確に定義する作業から始めよう。

 小手という言葉の一般的定義を調べてみると、「肘と手首の間」とか、「手首」、「手先」、「腕先」、「肘から手先」などとあって、さっぱり要領を得ない。ちなみに、肘から肩までの上腕部は「高手(たかて)」と呼ぶそうだ。これ(高手)にも異論を唱えたいが、今は小手に集中することとする。
 コテを篭手、あるいは籠手と書くと、上記に加えて「弓を射る時、左肘にかける革製の道具」、「腕を覆う鎧のパーツ」、「手先から二の腕(前腕)を覆う剣道の防具」といった意味が加わってくる。
 小手先は、「手の先」、「指先」という意味から転じて、「ちょっとした」というニュアンスで一般的に用いられるようだ。

 ・・・ますます訳がわからなくなってきた。
 質問者は中学の国語教師だそうだが、私は何か疑問が生じた時、最初に辞書に問うことは普通しない。辞書の知識には、上記の実例でわかる通り、生命(いのち)が通ってないからだ。
 私が辞書を開くのはいつも、(体で)わかった後だ。すると、辞書に記されていることが、活き活きとした実感を伴って「理会」できる。理解(言葉上の知識)が理会(身体感覚と合致した叡知)へと変容する。

 一体、小手(篭手)とは身体のどの部分なのか? 手か、手首か、前腕(手首から肘)か、はたまた手と前腕を合わせて小手と呼ぶのか・・・。剣道では手首から肘までの前腕部を篭手と称し、攻撃部位の1つと定めている。数少ない決まり手の位置として、前腕が特に選ばれている理由は何だろう?
 ヒーリング・アーティストは、このようにまず「問い」を立てる。それから身体という<生命(いのち)の書>を繙(ひもと)く。
 すべての秘密は、身体に埋蔵されている。否、身体そのものが宇宙的叡知の顕われだ。
 身体とはまさに、神によって記され、私たち1人1人に与えられた聖典なのだ。私はただ、その神典の読み方をあなた方に説いているに過ぎない。

 ここでは、手を握るというシンプルな動作を使って研究してみよう。
 私はヒーリング・アーツ入門者に対して、まず「手」に注目するよう教えている。手を通じて学ぶことが、ヒーリング・アーツの基本原理を会得する最捷径だ。
 たいていの人は、5本の指先にまず力を入れ、それを掌の前の空間に集めるようにして握っているだろう。
 私はそういうやり方で手を握ったり、ものを掴んだりすると、前腕のあちこちに停滞が生じて硬くなり、腕が重くなるのを感じる。少し長く続けると腕がだるくなってくる。微妙なものだが、しかしハッキリ感じる。ゆっくり、柔らかく、粒子状に力を使えば、あなたにも感じられるはずだ。
「ゆっくり」とは、極端に遅くすることとは違う。素早く動いたのでは何が起こっているかわからない。が、速度を徐々に遅くしていけば感覚が追いついてくる。そして、自分にとって最も感じやすく、わかりやすい速度(遅さ)にリズムが合った時、それをヒーリング・アーツでは「ゆっくり」というのだ。
「粒子状に」とは、身体(ここでは手や前腕)が粒子の集合体でできているように「感じ」、「意識し」、その粒子の海に起こる波として「動く(=身体運動を起こす)」ということだ。
「柔らかさ」と「粒子的に」は、この場合同じ意味と考えてよいだろう。柔らかく粉々にほどけている。初心者は最初、精細な霧のように知覚するが、熟達につれ、気体をも越えた細やかさと生命の艶とを織り交ぜたような、独特の実感が生じるようになる。

 それでは、手を握る際における私の生理的実感を、以下に実際に体を動かしながら観察し、書き出してみる。ただし私の場合、ただ手を軽く握るだけでも全身のあらゆる箇所が総合的・有機的に連関して働くため、そのすべてを詳細に記すとなると膨大な記述になってしまう。だから、ここでは手と前腕のみに観察範囲を絞り込むことにする。

◎まず手だ。掌の真ん中にある労宮のポイントに凝集のコマンドが起こり、そこを中心として「握る」力が手の裡に集約してくる。
◎指先に力を入れ、身体外の空間に軌道を描きつつ指を折る、そういう普通のやり方とはまったく違う「あり方」で、「握った形」が自ずから形成される。
◎前腕に意識を向けると、手を握る際には、前腕の内部に力が篭もっていることがわかる。むしろ、この前腕に満ちる力によって、手が握られるというべきである。

 自分の手、腕の内部で何が起こっているのか、解剖図と照らし合わせて確認していく。私は解剖学のテキストとして「ネッター解剖学図譜」(丸善出版)を愛用し、ヒーリング・アーツ学習者にも勧めている。
 前腕と手の解剖学的構造を仔細に調べれば、強い力が出る大きくて太い筋肉は、手には存在しないことがわかるだろう。握る力は、実は指や手ではなく、それに連なる前腕諸筋肉から来ているのだ。

 前腕の筋肉が緊張し、腱を収縮させて指の骨を引っ張り、それによって「握る」という行為がなされる。だから、指先に最初に力を入れようとすることは、明らかに身体の自然に反した行ないであることがわかる。ゆえに、葛藤や抵抗が生じ、長くその状態に居続ければ病ともなるわけだ。
 前腕に沿って前腕内部で滞らざる力(前腕諸筋の緊張感覚)が満ち、それが指を内的に引きつけ、まとめることによって、外的には手を握るという行為が成就する。そのようにして握りが起これば、身体の構造上、まったく無理がない。その自然な握り方では、握りの主体が手から前腕に移る。こういう「あり方(Being)」において握られる時には、握ることと前腕の連動が明確に感じられ、前腕の諸筋肉が均等にキュッと締まるような実感が得られる。
 肥田式強健術は、集約拳という特殊な拳の握りを多用して心身錬磨を行なう。折った人差指と中指の爪の上を親指で押さえつけ、その親指の先を薬指と小指で押さえるという、最初はちょっととまどうような握り方だが、慣れれば一瞬で造れるようになる。

集約拳(しゅうやくけん)。

 強健術創始者・肥田春充によれば、この拳を造った際には前腕の各筋肉が隙間なく緊張し、5指すべてに均等に力が入って、手の中央に力が集まるという。春充はまた、「前腕には、ちょうど1ポンド(約450グラム)の鉄アレイを持った時と同じような緊張が生じる」とも述べている。
 指先から力を入れて握る無意識的やり方で鉄アレイをいくらもてあそんでみても、あなたの表情はうつろなままだろう。何となくわかったようなわからないような・・・。そんな風に感じる時は、何もわかってないのだ。理会は鋭い透明感・透徹感を伴って起こる。
 前腕の解剖学的構造・働きを元にして、握るという行為を自らの裡で再編成すれば、春充の言わんとしていることがあなたの身体にも直に伝わってくる。そうなれば、あなたの瞳には理会の輝きが灯る。目を見れば、その人が真に理会しているか否かを直ちに判別することができる。

 握りに限らず、私は様々な方法で手を使う時、常に前腕の裡に「篭もる(充ちる)」感覚を感じる。だから私にとって、前腕を「篭手(籠手)」と呼ぶのが最もしっくりくる。
 その状態を反転させ、前腕から手(手首から先)、さらには体の外側の空間へと意識・力が流れ出すような体の使い方をする。・・と、たちまち全身の流れが寸断されてアンバランスになる。こういう手でヒーリング・アーツのいかなる修法を行なっても、部分的で浅いたまふりしか起こらない。特に武術的に応用する場合は、まったく術がかからなくなる。そういう状態を、私は「小手先」と呼んでいる。

 手首から先が小手で、手首から前腕までが篭手。小手先とは、前腕の裡に納まるべき意識が手から外の空間へと溢れ出し、全体の均衡を失った状態をいう。
 以上がヒーリング・アーツにおけるコテの定義だ。おそらく昔の日本人は小手と篭手を明確に区別していたのだろうが、時代が下るにつれ混乱が生じていったのではなかろうか?
 手を握るという一見小さな動作であっても、小手先で行なえば必ず全身のバランスが微妙に崩れる。逆に、篭手に意識が納まる(篭もる)握り方をすれば、腰腹間に頼もしい力が入ってきて全身が安定する。
 篭手(前腕)の腱や筋肉は指とダイレクトにつながっているから、それを切断されればものを持つこと自体が不可能となる。篭手が剣術(剣道)における重要な攻撃部位であることもうなずける。
 さらに、私がこれまで観察してきたところによれば、小手先でしか握れない(掴めない)人間は、巡ってきたチャンスをいつも取り逃がしてしまう傾向にあるようだ。手は全身と対応し合い、その人のすべてが手に反映される。ゆえにヒーリング・アーツは、握ること一つを取っても全身的にトータルにアプローチしていく。

 では、真に握るための道如何(いかん)? 握りに限らず、小手先を脱却し、前腕に意識が篭もるようになるためには一体どうしたらいいか? 
 質問にある作用・反作用というのは、鏡に映したような正反対の対極的作用を意識し、活用するという意味だろう。その原理を応用して「小手先の握り」を超次元的にくるりと引っ繰り返し、正しい握りへと変容させることができる。
 これまで無意識のうちに行なってきた「握る」という動作を、意識的に観察してわずかに強調し、その(我流の)やり方をレット・オフするのだ。と同時に、握った状態をそこにあらしめようとする意図だけは保ち続ける。さもないと、何もかもやめることになって後に何も残らない。
 身体の仮想と真(まこと)とは、正反対の鏡像関係にあるケースが多い。だから、これまでやってきたことをわずかに強調し、外側の形を変えずにレット・オフに入ると(=行為の意図のみを残し、やり方を除く)、身体の自然に基づいた正しいあり方が顕われてくる可能性が高い。少なくとも、試してみる価値はある。

 あなたが古い習慣とあまりにも自己同一化していない限り、この修法が功を奏するだろう。これは動作の「割り算」だ。クロスオーバーがかけ算であったことから類推すれば、割り算の意味も自ずから明らかとなるだろう。
 手を握った形は外見上ほとんど変わらないが、中身(裡)がまったくの別物になる。手や腕の各パーツにおける力の入り方、力が動く方向、全体の関係性、すべてが変わる。つまり、まったく別の握り方になる。
 他者の拳及び全身姿勢を一瞥しただけでその違いがわかるようになってきたら、あなたの「観る目」も相当なレベルになってきたということだ。

 質問者はまた、労宮についても言及している。
 例えば、手を合わせて合掌する。その際、手のどことどこをどのように(いかなる順番で)合わせるのか、改めて問われて直ちに明快な回答を示せる人は少ないかもしれない。
 労宮を中心として手を使えば、自ずから篭手の裡に意識が納まる。その状態で手を合わせるべく意図すると、労宮と労宮が自然に合わさって合掌の形を造る。私は、それ以外の方法では動けない。強いてやろうとすれば、必ず前腕から意識が抜けてしまう。つまり労宮を意識することと篭手の裡に入る(小手先の行為を反転する)こととは、1つの現象を別々の方面から説明しているわけだ。

 直接伝授であれば、私が学習者の前腕にヒーリング・タッチし、以前ご紹介した「すでり修法」をかければ、よほど鈍く固まった者でもないかぎり、数十秒〜数分で篭手の意識が覚醒し、篭手の裡が「流れる」ようになる。
 いろいろな動作で篭手の意識化を行なえば、その場で直ちに全身の動きの質的変換が起こり、より効率良く、より高い能力を発揮できるようになる。この状態を武術的に応用する練修をやると、まるで武術の名人・達人みたいなことが、武道未経験者にもできるようになってしまう。
 ただし、そのようにして新しい性質の動き・・従来のやり方より効率・能力両面ではるかに優れているもの・・を味わい、理会したと思っても、私の手が離れた途端、もう朧(おぼろ)げにしか思い出すことも、行なうこともできなくなってしまう場合が多い。
 もちろん、すぐ自力で再現できるようになる者も少なくはないが、大半の人間にとってそれはあまりにも異質な動きであり、感覚なのだろう。距離がありすぎて、ギャップを短時間で埋めることができないのだ。
 焦る必要はない。各自のペースで進んでいくしかないのだから。
 すでり修法とは、皮膚に<たまふり>を起こす術だ。皮膚をバランスよく、絶妙に精妙に伸ばし拡げておき、その形を保ちつつレット・オフ・・皮膚に<たまふり>が起こる・・それと「機」を同じくして、手を握り始める。レット・オフと握りのコマンドは同時に発せられねばならない。
 このようにすると、断線・混線していた経絡が一端リセットされて再び流通し、身体本来の自然な動作が自ずから顕われてくる。握るという行為が本質的に変容する。同様にしてあらゆる「行ない」を禊祓うことができる。これがすでり修法の基礎原理だ。

 すでり修法には様々な手法があるが、ここでは篭手にヒーリング・タッチして行なう基礎練修法(『ドラゴンズ・ボディ』最終回で概要を解説)を改めて取り上げ、もう少し詳しく説明する。
 まず前腕にヒーリング・タッチだ。ヒーリング・アーツの練修でよく使われる基本型の1つであり、「篭手調べ」とでも仮に呼んでおこうか。
 タッチした手の裡に凝集→レット・オフを起こし、前腕の各部で深浅自在に<たまふり>をエナジャイズする。そして、このたまふり感覚をゆっくり「流して」いく。そのためには、手を前腕の皮膚面に沿ってゆっくり柔らかく動かし、前腕内に流れを導くのだ。最初は深く、次第に浅く、そしてついには皮膚のみに流れが起こるようにする。
 繊細に、微細に、骨を押さえつけないように、手を自由に滑らせていくように。皮膚にぴたりと密着させつつ、あらゆるやり方で柔らかく触れ合って流れを導いていく。流れは縦(肘から手へ、または手から肘へ)のみとは限らない。横にも、斜めにも流れを拡げていく。
 試みに、前腕をなで回しつつ骨に当たるように強く皮膚を押さえてみるといい。たちどころに動きがゴツゴツしてくる。抵抗が強くなって自在に動かせない。血行や神経の働きが阻害される。
 最初はほんのわずかな圧力を加えても構わない。その力を徐々に少なくしていく。肉を押さえることもやめる。皮膚も押し込まない。皮膚同士が柔らかく触れ合っていればそれで充分だ。
 こんな風にして、自らの前腕の皮膚と柔らかく充分に触れ合ったなら、それをごくわずかに押さえて引っ張ってみる。例えば手首あたりと触れ合い、それを肘の方へとスライドさせていく。とてもゆっくりと、筋肉を押さえつけないように・・・。
 皮膚が実際に伸びていくのには、少し時間がかかる。前腕の形は複雑だ。その複雑な形に沿って、皮膚がゆっくり伸び拡がっていく。
 すると、精密で非常に薄いゴムの手袋をはめているような感覚が顕われてくる。実際、皮膚とはそのようなものだ。皮膚をわずかに伸ばしたり緩めたりすることを繰り返しつつ、前腕の内側(こちらを向いている側)でも外側(その反対側)でも、伸び縮みを同時に感じるようにすれば、腕・手の全面を覆っている複雑な袋状の皮膚が、さらにリアルに感じられてくる。
 この状態でレット・オフ、と同時に、手を握り始める。それが正確にできれば、従来の「握る」という行為に−1をかけた状態、すなわち動作の質と方向とが180度反転した状態が自ずから顕われてくる。新しい手がそこにある。手だけじゃない。全身丸ごとが新しい。

 質問者は理論上は、正しい道の上を、危うげではあるが、歩みつつあるようだ。しかしながら、身体感覚の変化について何一つ報告していないところを見ると、いまだ「(自在に)できる」地点には至っていないのだろう。
 探求の方向性は間違っていない。だから今後は、実際の触れ合いを通じて身体そのもので感じ取っていくことに意を注げばいい。
 自分独りでもできなくはないが、身近な練修仲間を募って定期的に相対練修を行なえば、進歩は一層飛躍的なものとなる。この際、勤務先の学校に「ヒーリング・クラブ」を創立し、その顧問として生徒たちと術を磨き合ってはどうだろう? 様々な人々と触れ合い、響き合うことを通じ、私たちの魂はより豊かさを増し、力を強める。
 ヒーリング・アーツとは、そうした命の触れ合いを育む芸術なのだ。

 最後に、ヒーリング・アーツにおける篭手の用例(練修法)を、動画でご紹介しておこう。「観取り稽古」については以前ディスコースで説いたが(「グノーティ・セアウトン」第7回)、ヒーリング・アーツによる<たまふり>を少しでも励起できるようになった方は、動画を観る前後で自らのヒーリング感覚にどのような変化が生じるか、丁寧に調べてみるといい。
 手を凝集→拡散させるなど、各自が行ないやすく感じやすい手法で構わない。見ることを観ることへと変容させつつ、ムービーとわずか数十秒間向かい合うだけで、「たまふり度」が明らかに深まる。より細やかに、鮮やかに、軽やかになる。たかが映像を見るだけと侮って観取り稽古を疎かにする者が多いようだが、どうでもいい無駄なことなど、私は一言たりともディスコースの中に記してはいない。
 なお、これらの映像は元々ハイビジョンで撮影されているが、ダウンロードの時間を節約するため、ファイルサイズを大幅に圧縮している。粒子的に考えれば、オリジナル素材とあなた方が目にする動画との圧倒的な「情報量」の違いが理会できるだろう。
 だから現時点では、ムービーとして本ウェブサイト上で紹介している映像は、あくまで補助的な参考程度のものでしかないことを銘記していただきたい。そうであっても、「観る」アートを活用すれば、粒子の粗い映像の中から豊かな学びを得ることができるはずだ。
 画像が突如としてハイビジョン映像のように立体的になり、奥行きが感じられるようになったら、「見る」ことから「観る」ことへのシフトが起こっている。その状態をできるかぎりキープしつつ(ただし執着・膠着しない)、「流れ」を「感じる」よう努めることだ。

 掴み手。ヒーリング・アーツで「鷲掴み」と呼ばれている手法だ。手は常に柔らかく使う。労宮を中心として、ぺたりと柔らかく掌の皮膚が相手の皮膚と密着する実感のみがある。
 このようにして皮膚を介するヒーリング共振が起こった状態では、ほんのわずかに皮膚をずらせるだけで、相手はなぜ自分の身体が動くのかも理解できないまま、術者の意のままに操られてしまう。2007.12.22撮影。

 今度は腕を様々な方法で掴まれた状態にて、自らの篭手に意識を納める。すると、相手の力と自分の力とが融け合い、双方のバランス関係を自由に変えることができるようになる。つまり、相手を自在に崩すことが可能となる。正確に言うと崩すのではない。こちらが篭手を意識しておけば、相手が自分で勝手に崩れていくのだ。
 逆に篭手から意識が出て小手(手首から先)に主体が移ると、相手の力とぶつかり合って抵抗感が生じる。小手先で崩そうとして力めば力むほど、ますます抵抗が大きくなってにっちもさっちもいかなくなる。
 ちなみに、人をからめ捕って思い通りに動かすことを「篭絡(ろうらく)」という。2007.12.22撮影。

<2008.01.15 小正月>