私たちが何かを「する」とか「(するのを)やめる」と言う時、それは心身に生じるいかなる状態と対応しているのだろう。
手に力を入れ、そして抜くというシンプルな動作を使って、一緒に検証してみよう。
椅子に座り、机に片手を乗せた状態で行なうことにする。これなら、今すぐできるだろう。指は揃えて、掌(てのひら)をごく軽く机に密着させる。
まず、この机につけた手全体に、そっと柔らかな力を込めてみよう。そして、その力を緩めてリラックスさせる。この際、机と掌(机に接している面)の間の圧力はなるべく変えないようにする。つまり、机を押したり机から手を離したりすることなく、手そのものの力を入れ抜きするのだ。
力を入れ、抜き、入れ、抜き・・・と何度もゆっくり繰り返し、自在に行なえるようになったら、次第に入れる力を微分的に小さくしていく。わずかに力を入れては抜き、次はさらに小さな力を入れて、そのより小さな力を抜く・・・。
ヒーリング・タッチの最初の要訣は、「小さく、柔らかく」だ。あらゆる動作を極限まで小さく、柔らかくしていけば、その動きの根源にあるものを見極め、コントロールすることができるようになる。
やがて、自分が「力」として認識できる最小限のレベルに至る。それをさらに超えると、どうだろう? スッと手に意識を向けるだけで、手の中に「何か」が満たされたり、ふわりと膨らんだりするような感覚が起こるはずだ。現時点では曖昧なものでも構わない。
最初はちょっと難しいかもしれない。ご注意いただきたいのは、手の「中」とか「内」というのは文字通り手の内部、すなわち筋肉や骨などが占めている「空間」を意味するということだ。例えば凝集する際、掌から机に向かって押し出すような力が少しでも働いたら凝集にはならない。机と掌が接している面から、手の内部に向かって吸い上げるような流れが感じられるのが正しい。掌を机と触れ合わせて練修するのは、こういう「内に入る感覚」を感じ取りやすくするためだ。
練修の際に注意すべきは、ゆっくり行なうことだ。パッ、パッと素早く行なうと、力の流れがよくわからなくなってしまう。上級者ともなれば、素早く自由に力を入れ抜きできるが、初心者のうちはとにかくゆっくりゆっくりと着実に練修する。「小さな力で、柔らかく、ゆっくり」というのが、ヒーリング・アーツの全システムを貫く熟達論の基本だ。強大な力を瞬間的に造る際も、起動時の感覚はやはり「小さく、柔らかく、ゆっくり」なのだ。
ここからさらに進むためには、ちょっとした手の感性が必要になる。その準備ができているかどうか、次の実験を行なって確かめてみよう。
机に3枚の小皿を横に並べる。真ん中の皿に10円硬貨と百円硬貨を各5枚、計10枚を混ぜ合わせて入れる。そして目を閉じ、片手で硬貨を1枚ずつ取り、指先でなで回し、手触りの違いによって左右に分別していくのだ。どちらが10円でどちらが百円かまでは、今はわからなくていい。
すべてを選別し終わったら目を開ける。10円と百円が左右の皿にきれいに分かれていたら、あなたの手の感度はヒーリング・タッチ入門者に求められる水準に達している。しかし、たいていの人は2種類のコインがバラバラに入り交じっていることだろう。
がっかりする必要はない。簡単な方法で、直ちに手の感覚を目覚めさせ、活性化させることができる。神前でかしわ手を打つように、パン!と勢いよく両手を打ち合わせるのだ。数回行なえば充分だ。
本当に感覚のレベルが上がったかどうか、上記の実験をもう一度行なってみよう。先ほどできなかった人も、今度は2種類の硬貨の違いがよくわかるようになっていることに気づくだろう。ちょっと練修すれば、コインの種類だけでなく、それぞれの表裏などの微妙な違いも指先ではっきり識別できるようになる。
ヒーリング・アーツは、このようにしてかしわ手を打つことから始まる。拍手(はくしゅ)に示されるように、私たちは手を打ち合わせるという行為によって「称賛」の気持ちを表現する。私は、手の触覚を活性化させると同時に、あらゆる生命(いのち)に対して礼讃を捧げるためにかしわ手を打つ。それは私たち日本人にとって馴染み深い、祈りの形でもある。私は祈りを込めてかしわ手を打ちながら、こうしてディスコースの文章を綴っている。
あなた方の生命が鳴り響きますように・・・・!
こういう風に手を勢いよく打ち合わせると、手の内部までジンジンと痺れる感覚が起こるだろう。誰にとってもごく普通の感覚だ。だがしかし、注意深く感じ取っていくと、その痺れは無数の非常に細かい粒子によって構成されていることがわかってくる。単なる「痺れ」に過ぎなかったものが、「無数の超微細粒子が細かく振動している状態」という新しい認識に達したとたん、心身の封印が解かれて新たなる世界が開かれ始める。点字を見ればわかるように、触覚の基本単位は粒子的だ。ただし、私がここで説いている粒子は3次元的なものだ。
これらの超微粒子を、先ほどと同じように「小さく、柔らかく、ゆっくり」凝集させようとしてみる。粒子の振動が抑えつけられやすいので、手はもう机に乗せなくていい。凝集させようという意識を向けただけで、粒子が手の内部に向かって実際に凝集し、密度が高くなっていくのがありありとわかるだろう。そうしながら、自分が一体どうやって凝集させているのか、それを感じ取っていく。「小さく、柔らかく」を極限まで推し進めた地点では、それはある「方向」、手の内面へと向かう流れとして認識される。これが「凝集させる」という行為の根源にある、一種のひな形だ。
凝集させたら、その「凝集させること(正確には凝集させようと意図すること)」をやめてしまう。手放してしまう。すると自然に粒子がふんわりと拡散し、柔らかく拡がっていく。
凝集と手放しとを繰り返していくと、粒子が自分の意図に完全に従うことが確認できるだろう。まるで手の内部が独自の息をしているような、または海の潮が満ち引きするかのような、そんな実感が手の裡(うち)で味わえるようになってきたら、それはあなたが正しく進んでいることを示すサインだ。
拡散している際中に、いきなり凝集に移ろうとすると凝滞しやすい。拡散を充分に受け入れてから、その拡散が転じて内向しようとする機(きざし)をとらえることにより、自然に凝集のフェーズ(局面)へと移行することができる。凝集から拡散に移る時も同様だ。
拡散の際には、粒子1つ1つの振るえが活発になり、内から膨れ上がるような活力に手が満たされる。ある程度心身が開かれた人なら、驚くほど繊細なきらめきの粒子的感覚が、手からあふれ出して全身へと拡がり、体が柔らかく揺れ動き始めるかもしれない。これがすなわち<たまふり>の第一歩だ。
潮汐作用のような凝集・拡散の感覚や、粒子的振動の活性感を味わうのは、多くの人にとって未知なる体験だろう。小さく、柔らかく、ゆっくり(急がず)、粒子状に、自らの身体(手)と向かい合っていけば、誰でもきっと体感することができる。これがヒーリング・タッチの出発点だ。
強さや速さが求められるのであれば、それを体得できる人は限られてくる。しかし、小さく柔らかくゆっくり行なえばいいのだから、老若男女あらゆる人に道は開かれているはずだ。
粒子感覚は習熟につれてどんどん細やかになっていく。最初、小さな粒の集合体であったものが、ファインミストのように精細に感じられる段階に入ると、粒子の1つ1つが虹色の輝きを帯びて輝いているかのように感じられることもある。私はしばしば、極北の夜空を彩る神秘的なオーロラのごとき揺らめきを、自分自身の身体内に観る(感じる)という不可思議な感覚を味わっている。
この体験は、私を非常に活気づける。神秘と美は、生命の滋養なのだ。
手から始めて、次第に全身至るところが粒子状に感じられるようになるまで修練を積み重ねていく。心身を粒子感覚に基づいて運用できるようになると、いろいろ面白いことが行なえるようになってくる。
この作用を使えば、ほとんど力を使わずに大の男を倒したり投げ飛ばすことも可能となる。ヒーリング・アーツの練修に習熟してきたら、手首や腕、肩、胸ぐらなどを思いきりつかまれたり、腰に抱きつかれたり、脚を抱えられたり、あるいは数人がかりで組みつかれたり、時には空中に持ち上げられるなど、様々なシチュエーションで術を磨いていく。それはあらゆる状況下で<たまふり>を行なえるようにするためだ。はた目には神秘的な術(わざ)のように見えるかもしれないが、原理を正しく理会した上で、「小さく、柔らかく、ゆっくり」練修していけば、それほど難しいものではない。
実際、私のこれまでの指導経験によれば、武道の素地がまったくない年配の人でも、比較的短期間でヒーリング・アーツを武術方面に応用できるようになっている。
言うまでもないと思うが、こういうことが練修の場で出来たからといって、それで武術の名人・達人になったわけでは、もちろんない。ただ名人・達人の境地を垣間見た、というだけのことだ。長年の修練により、いかなる状況、いかなる相手であっても、自由自在にこの術を使いこなせるようになったなら、その人はヒーリング・マーシャルアーティストの境地に達したのだ。争いをいやして調和させてしまう道、それがヒーリング・マーシャルアーツだ。この道には植芝盛平(合気道開祖)という、我々日本人が世界に誇るべき素晴らしい先覚者がいる。盛平翁は、凝集・拡散(たまふり)による潮汐作用を巧みに使いこなし、それを「呼吸力」と呼んだ。海の満ち引きは自然界の呼吸の1つであり、そういう観点から「呼吸力」という言葉に向かい合えば、盛平翁が伝えんとしたことが、直ちに自らの心身に響いてくる。
粒子感覚を活用すれば、武術に限らずあらゆる芸術、スポーツなどの熟達も劇的なまでに加速される。のみならず、煩悶苦悩やストレスなどの精神方面にまで、<たまふり>の浄化作用は及んでいくのだ。行なえば行なうほど、心も体もどんどんしなやかになっていく。流れる水のように自由で清冽な心身がもたらす歓びを、日々の生活の中で頻繁に味わうことができるようになる。
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今回はもっぱら「すること(凝集)」に解説の主眼を置いた。次回は「するのをやめること(拡散)」をメインテーマに取り上げよう。それが理会・体得できれば、粒子感覚はさらに洗練されていく。
<2007.04.15 虹始見(にじはじめてあらわる)>