Healing Discourse

たまふり [第5回] アルス・モリエンディ

 微細な粒子的感覚をもって改めて検証すれば、いまだに「開こう」とする意図がレット・オフの際に働いていることに気づくだろう。粒子的に、ゆっくり、柔らかくやってみれば、誰にでもわかることだ。
 凝集するというプロセス(流れ、方向、感覚etc.)を全身まるごとで感じ取り、全身まるごとで波調を合わせ、そしてフッと手放してしまう。「する」というその行為が、軌跡(プロセス)が、やって来たのとは正反対の方向に巻き戻されるように溶けていき、消えてしまうに任せ、ただ待つ。ここがこういう風に緩むはずだ、などと特定の方向、特定の箇所に意識を向けたり、探したりしない。
 すると、思いもかけない場所が、思いもかけない感覚とともに緩み、拡がり始める。それがレット・オフだ。この内的拡がりこそ「感性」の本質なのだが、多くの人は凝集しながら感性を探し求めようとする。そういう見当違いのことをさんざんやっておいて、「私は鈍い」と自分勝手に決めつけている人を、私はこれまで数多く見てきた。自らの可能性を自ら閉ざしてしまえば、それ以上進歩向上する余地はなくなる。

 凝集・拡散を動的に行ずる練修法を一緒に実践してみよう。
 座るなり、立つなり、自分が楽な姿勢で行なう。
 まずかしわ手を何度か打って手の粒子感覚を確認し、それを凝集、拡散させてみる。凝集とは、表面的に力を入れて手を固めることではない。内部の「粒子感覚」そのものに意識を向け、凝集させようとする意図を動かすのだ。
 余計な力みを加えさえしなければ、私たちの意図に忠実に従って、「粒子」は濃密に凝集していく。拡散の際は、手を緩めようと能動的に行なうのではなく、どうやって凝集させているかを感じ取り、それをやめる。手は自然に緩み始める。
 緩めることを「しよう」としただけで、微妙に力が入ってしまいがちだ。「凝集するのをやめる」感覚にすべてを委ね、さらにやめてやめてやめ切っていくと、フワーッと柔らかく拡がるように手が緩んでくる。

 この準備段階を充分時間をかけて行なったなら、右手を肩の高さくらいにあげ、軽くブルブルと振る(後で左手も同様に行なう)。
 手を振るわせつつ、右手をゆっくり、粒子状に凝集させていく。手が若干固くなり、動きも重く感じられるだろう。
 さらに振り続けながら、右手の凝集をレット・オフしてしまう。すると抵抗感が溶けるように消えていって、右手の内部から激しい振るえが沸き起こってくるだろう。この緩みは、手の裡(うち)から生じるものだ。これに比べれば、単に「力を抜こう」とか「緩めよう」とする通常のアプローチが、表面的・皮層的なものに過ぎないことがよくわかると思う。

 充分行なったと感じたら、手を振ることそのものをレット・オフして動作を終了する。通常、何らかの動作をやめる際には、体に力を入れて動きの流れを抑え込むことが多い。そういう無意識的な体の使い方をしていると、様々な修法によってせっかく身体が開いても、練修終了とともに自分でそれを閉じることになってしまう。
 これに対して、「手を振ろう」という意図自体をオフにすれば、文字通りスイッチが切られたかのように、手は惰性でしばらく動いた後、徐々に動きが収まっていって、やがて静止する。同じ止まるのでも、「ストップ」で強制終了した場合と違って、レット・オフによる自然な停止では、どこにもこわばりがない緩やかな状態を保ちつつ、動から静へと移行することが可能となる。前者(ストップ)による停止が凍りついた水の固定的状態とするなら、後者(レット・オフ)は波が静まり返った待機的状態とでも言おうか。両者の実質的な違いは非常に大きなもので、「いかに行なうか」だけでなく、「いかにやめるか」という側面にまで注意を払って意識化するところが、ヒーリング・アーツの一大特色となっている。

 1回行なって左右の手を比べてみれば、柔らかさ、軽やかさ、しなやかさにおいて、何もしていない左手との違いは明らかだろう。目を閉じれば、右手の方が一回りも二回りも大きく感じられるかもしれない。
 左右の手を交互に、あるいは同時に、縦に振ったり、横に振ったり、または斜めに振ったりなど、可能な限り様々な方向へと細かくシェイクしつつ、凝集し、レット・オフすることにより、ヒーリング・タッチに必要とされる手の繊細な感性を確実に開いていくことができる。慣れてきたら、手首や肘などに順次、凝集→レット・オフの作用を起こしていくのもよい。そうやって粒子感覚を全身へと拡げていくのだ。

 ある動作を行ないつつ、身体各部を凝集すれば、当然動きは重くなり、鈍くなる。つまり、より下手になるわけだが、その下手になるプロセスを意識化し、スイッチを切る(レット・オフする)ことによって、下手とは正反対の方向、すなわち熟達への道が自ずから顕(あら)われてくる。これこそヒーリング・アーツにおける熟達論の基本だが、シンプルなこの原理も、実際に行なってみれば深遠にして非常に巧妙なものであることがわかるだろう。
 一般的な意味での「手を振る」という動作(レット・オフは使わない)を例にとって説明すると、毎日練修を重ねていくうちに、振る速度が速くなるとか、振った時の手の感触がより柔らかくなるなどの変化が、自分でも気づかないうちに徐々に起こってくる。そういう変化を一般には「上達」と見なすわけだが、それはあくまでも表面に現われた間接的な結果に過ぎず、上達という現象の直接的感覚を体得したわけではない。
 表面的な結果のみを追い求めれば、身体に無理な負担を強い続け、ついには故障・病を招き寄せるに至る。
 これに対して、凝集をレット・オフにより反転させるメソッドを理会し、修得すれば、「熟達感覚」そのものを、その場で、直ちに、感得することが可能となる。上手くなること、それ自体について学び、実践するのだから、その応用範囲はまさに無限ということになる。

 私が言う「熟達感覚」の本質とは、「ほどける」ことだ。それも外側からではなく、内側から粒子レベルでほどけてくる。だから、上達(上の段階に行く)よりも熟達(内的に充実し、ちょうどよい頃合いになる)という言葉を、今後はもっぱら使うようにしたい。
 仏(ほとけ)の語源は「解け(ほどけ)」にあるとする説が有力視されているようだが、レット・オフによる「ほどけ」を自らの心と体をもって実感すれば、なるほど「ホトケ=ほどけ」に違いないと納得できるだろう。
 南海の珊瑚礁でシュノーケリングを楽しみながら、凝集→レット・オフを練修すると最高だ。透き通ったアクアブルーの海中を、どこまでもどこまでも限りなく溶け拡がっていく高度なオフ感覚を、初心者でもすぐに体験することができる。宇宙の無重力空間でレット・オフするのも面白そうだ。そのうち実際にやってみようと思っている。

 ところで、私たちはなぜ努力して何かを得ようとしたり、ある場所や状態に到達しようとするのだろうか? 
 それはゴールにおいて達成感が得られるから、喜びが感じられるからだ。その達成感や喜びの本質とは、実はオフ感覚なのだ。つまり、手に入れた何かが満足・喜びをもたらすわけではなく、手に入れようとする努力自体が解体(レット・オフ)されることによって、落ち着いた充実の感覚が引き起こされるのだ。
 願望とは凝集だ。何かを自分の方に引き寄せようとする場合も、何かに引きつけられる際も、ともに凝集力が働いている。
 そして望みがかなえば、自ずからレット・オフが起こる。もはや憧れ、追い求める必要はなくなった。すると開放感・満足感が、体の奥底から湧き出てくる。これらの感覚を感じている時、人は必ず「ほどけ」ている。

 ところが、こうしたホドケはそれほど長くは続かない。ほどけ切ったら、また凝集のプロセスが始まる。新たな欲望が芽生える。私たちが真に求めているのは、オフがもたらす充足感の方なのだが、大半の人はそれに気づくことなく、満足や幸せを凝集の位相に求め続ける。
 欲しいものを無理に諦めたり、欲望を押さえつけたり、聖人君子の無欲を気取ってみたりなど、そういう無理・無駄・無益な試みについて私は語っているのではない。また、欲望や執着が悪いと非難しているわけでもない。執着したい人は、好きなだけ執着すればいい。私はただ、凝集→レット・オフによる<たまふり>に熟達すれば、まるで機械のスイッチを切るみたいに願望をオフにし、願望が達成されたのと同じ満足感を、その場で直ちに心ゆくまで味わうことができるという事実について述べているだけだ。それは一種のコツだが、これ1つを体得するだけでも、「生きる」ということがどれほど楽に、軽快に、自由になるか、今のあなた方には想像することさえ難しいかもしれない。

 レット・オフの心地よさを繰り返し味わううちに、やがて、死というものに対する認識も少しずつ変化し始める。
 死とは何か? 全面的なオフだ。体の全機能が、脳も心臓も、筋肉も皮膚も、全身数十兆個の細胞すべてが、オフになる。「仏」には死者という意味もあるが、「完全にホドケ切った者」ということだろう。
 この宇宙で最も公平なものは、死だ。聖人にも泥棒にも、金持ちにも貧乏人にも、死は平等に訪れる。ある意味で、人は死ぬために生きるのだとも言える。
 凝集→レット・オフの原理に徹底すれば、最大限に生きることで最大のオフが人生最後の時にもたらされることが、直感的に感じられるようになる。部分的なオフでさえ、相当な開放感と気持ちよさが味わえるのだから、トータルなオフが起こる時には、途方もない、永遠とも思えるような無限のエクスタシーの中に溶けていくことになるに違いない。<たまふり>の修養を重ねた人間にとって、死は人生最大・最高の体験となり得るのだ。
 だからレット・オフとは、死の予行演習でもある。少しずつ少しずつ死に備えていく術だ。死というものを最大限に死に切るための教え、アルス・モリエンディ(往生術)だ。
 すなわちレット・オフは、死のアートなのだ。

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 先日、京都の鞍馬山でヒーリング・トリップ(巡礼)を楽しんできた。 
 急な山道を数十分登り続け、同行者たちの足腰が少しずつ重くなってきたところで、ヒーリング・アーツの初歩的な術(わざ)を試してみた。
 座って膝を立てた受け手に対し、ヒーリング・タッチを使い足首から腿のつけ根まで柔らかくすり上げ、レット・オフを使って足首まで戻る。その間約10秒。タッタこれだけで、重苦しかった脚がたちどころにリフレッシュされ、軽やかになって、元気が全身に充満する。片脚のみに行なってから再び歩き始めれば、その効果はあまりにも明らかだ。

鞍馬山、木の根道

  聖地として人々の崇敬を集めるような特別な場所でレット・オフを使うと、開かれた心身にその地固有のエネルギーがどっと流れ込んでくる。私の場合、それはヒーリング・アーツの新しい修法として結晶化する。
 今回訪れた鞍馬山でも、素晴らしい術を何手か授かった。・・・「授かった」としか言いようがない。自力で会得できるとはとうてい思えないような高度で巧みな術の数々が、山道を進むにつれ、次から次へと心身にインストールされていく。つまり、突然「理会し、できるようになる」ということだ。
 新しい修法が顕われるたびごとに、立ち止まって、あるいは歩き続けながら、同行者たちに伝授していった。最初のうち、息も絶え絶えといった様子で遅れがちについてきた彼らだったが、鞍馬山の山霊と共振しつつそれらの新修法を学び実践するうちに、尻上がりに調子が出てきて、ついには全員が1つの流れとなり、踊るような足取りで楽しく山道を駆け抜けていった。
 私自身も久しぶりの山歩きであり、普段の運動といえば肥田式強健術(ひだしききょうけんじゅつ)というヒーリング・エクササイズを1日5分程度行なうだけだから、少しは筋肉痛にでもなるかと思いきや、筋肉痛どころか元気横溢、翌日はその余勢を駆って朝から晩まで丸1日、鞍馬山で授かった新修法の検証・シェアリング(分かち合い)・実践を妻とともに行なった。
 プライベート道場にて、走り、跳び、逆立ちし、蹴り、転げ回り・・・と、徹底的に心身を開いていったが、途中で何度「ああ気持ちいい!」、「楽しい!」と、妻と一緒に叫んだことだろう。
 ほどければほどけるほど、ピーンと張りつめた、しかしどこにも滞らない澄明な意識が、自らの裡で多層的に目覚めていく。これをブッダフッド(仏性)という。仏(ブッダ)とは個人名ではなく、ほどけた者・覚醒した者たちを指す尊称だ。
 ヒーリング・アーツには、ヒーリング・メディテーションという側面もある。それは、自らの真実を探求することで全(まった)きいやしを体現しようとする、覚醒への道だ。

<2007.04.25 霜止出苗(しもやんでなえいず)>