Healing Discourse

たまふり [第6回] ヒーリング・サウンド

 極微の粒子感覚に基づいて凝集や拡散の波紋を起こせるようになると、これは果たして肉体(物理)的力なのか、それとも精神(マインド)に属するものなのか、という疑問が自然に湧き起こってくるだろう。
 注意深く観察してみるといい。力を微分的に小さく、柔らかくしていって、力として感じられる限界をさらに突き抜けた地平で働くのは、「力を込める(凝集させる)」、「力を抜く」という肉体の作用でもなく、「力を込めよう」、「力を抜こう」という精神(思考=言葉)の作用でもないことがわかるはずだ。それは両者を超越して、両者の根源となる働きなのだ。

 この「小さく、柔らかく、ゆっくり、粒子状に」という要訣は、私がかつて90日間の連続断食を行なった際に発見したものだ。
 食を断ってしばらくすると、だんだん体に力が入らなくなってくる。一月が経ち二ヶ月が過ぎる頃になると、水を少し入れたガラスのコップが異様に重く感じられ、窓をそっとゆっくり開け閉めするだけでも、動悸が速くなって息切れしそうになる。自分が生きているのか死んでいるのか、それすらも判然としない奇妙な感覚も、しばしば経験した。
 このようにして全身の余分な力みがすべて抜け落ち、身体感覚が想像を絶するほど研ぎ澄まされた状態において、粒子的単位を媒体とする波動こそ、肉体・精神の根源にほかならないという事実を、私は確かめたのだ。
 粒子の凝集・拡散という表現を初心者のためにこれまで使ってきたが、ほんのかすかな力みさえも一切加えることなく、純粋な意図のみを働かせる段階へと至れば、現代科学においてはいまだ定義不可能とされている「意識」の本質も、おぼろげながら見えてくるかもしれない。しかし、先に進み過ぎるのはやめておこう。今は<たまふり>の実体験が最優先事項だ。

連続断食90日目。2002年8月26日撮影。

 手の粒子感覚をさらに活性化させ、錬磨するための修法を1手ご紹介しよう。
 方法自体は、いたってシンプルだ。かしわ手を打ち、手の粒子感覚に音声を響かせるのだ。例えば「あー」とか「いー」と長く発声しつつ、手の粒子を凝集させ、そしてレット・オフする。最後まで声を止めない。
 あ、い、う、え、お・・・すべての言葉で、粒子の振動感覚(振るえ方)がそれぞれ違っていることがすぐに感じ取れるだろう。一息の中で「あーいーうーえーおー」などと変化させるのも面白い。このように様々に異なるヴァイブレーションと響き合わせることで、粒子感覚はさらに細やかに、活発になっていく。
 次は、発声を微分的に小さく、柔らかくしていく。そしてついに無音となり、心の中ですら何の音も響かない根源的状態へと沈潜していく。その深みにおいてあなたが出会うものが、言霊(ことだま)だ。それは言葉のスピリット(霊、たま)とでもいうべきものだが、言霊もやはり粒子(たま)を媒体としており、光のようにタマには粒子的側面と波動的側面があるらしいことが体験的にわかってくる。
 慣れてきたら、「うつくしい」とか「ありがとう」といった様々な言葉の扉を通って、裡なる探求の旅へとテイクオフしていくといい。訪れたそれぞれの世界で、驚くような発見がいろいろあることだろう。

 私は新しい修法を授かろうとするにあたり、まず斎戒沐浴して心身を清め、ヒーリング・アーツによって全身の粒子的振るえを全開にし、静かに待つ。ある意味で、巫女やシャーマンが、精霊や神に意を問う姿勢に通じるものがあるかもしれない。
 特定の形式に従わない、こうした儀礼なき儀礼にあって、私は必ず妻の美佳が創作した曲をかける。自宅での個人的練修や他者に指導する際にも、妻のヒーリング楽曲がいつもかかっている。実際のところ、これらの曲なしではヒーリング・アーツの様々な修法など、そもそもこの世に存在し得ないのかもしれない。
 妻を通じて現われ出る音楽は、ただ何となく無意識的に聴いても美しく、いやされるが、その真価を味わうためには、——クラシック音楽の専門的なトレーニングを積んだ人や、音への特別繊細な感性を生まれつき備えている人以外は——ヒーリング・サウンドの術(わざ)が必要となる。

 私がここで述べているヒーリング・サウンドとは、誰かが作った曲をただ受け身で聞くというものではなく、音に揺さぶられ、音と一体となって舞い、歌い、あるいは自らも演奏するなど、音楽とともに戯れながら楽しく学び、実践する<いやし>の道だ。音楽という形式をとった<たまふり>だ。「楽しい音」という、音楽本来の姿、人類の根源的欲求と密接に結びついた、ニューワールド(新しき世界)の音楽だ。
 自分に音楽の才能があるかどうかと気にする必要など、一切ない。あなた方1人1人の中で、驚くような音楽の才能が、あなた自身も気づかないままに眠り続けている。あなたは価値ある素晴らしい遺産の継承者なのだ。あなたに必要なのは、財宝の輝きを覆い隠しているスクリーンを取り除くことだけだ。そのためには、ちょっとしたコツ、一般には知られざる心身と意識の特別な使い方をマスターする必要がある。
 誰もが生まれつき備えている音楽の感性を開くために、ヒーリング・サウンドには数多くの修法が備わっている。例えば、今の読者諸氏にはまだちょっと難しいかもしれないが、音楽を聞きながらヒーリング・タッチで耳に凝集・拡散の作用を起こす、という方法がある。これを行なうと、耳の粒子的感覚が拡散するのに伴って、「音感」がたちどころに変化する。
 ところで「音感」とは、一体どのような感覚を指すのだろう? あなたは考えたことがおありだろうか? 「これがそうだ」と、今、直ちにその感覚に自らの意識をチューニングして味わうことができるだろうか?

 まず、片方の耳を指先でそっとつまむ。そして、つまんだ各指をそれぞれ意識化し、両者を同時に、均等に意識する。こうすると、指の間の「空間」として、耳が触覚的に感じられる。その状態を保ちつつ、指を凝集し、そしてレット・オフ——。

 以上のフォーミュラは、耳の音感を一気にレベルアップさせる修法の一例だ。私が説くすべての修法は、皆フォーミュラになっている。1つ1つの言葉の意味を伝授され、そのプロセスに忠実に従えば、生命力の微細粒子的爆発を引き起こすことができる。
 では音楽を聴きつつ、耳に凝集→レット・オフの作用を響き合わせるとどうなるか? 

「オフによる拡散の位相において、音が粒子的になる」
「その粒子と粒子の間の空間が拡がるのを感じる(拡散)」
「立体的な粒子(音)の広がりを、上下左右前後のすべての方向に感じる」

 すぐに気がつく変化は、こんなところだろうか。行なった側とそうでない方との聴こえ方の違いは大きいだろう。その違いがすなわち、「音感の差」だ。音感は一定レベルに固定されたものではなく、極めて短時間のうちに多層的に変化し得る流動的なものだ。音感が豊かになる時には、開いて拡散する感覚が伴う。すなわちレット・オフによってホドケている。何であれ、熟達する時には必ずレット・オフが起こっている。
 音は耳のみで聴くものではないから、身体のいかなる場所であれ、そこが開かれると音感にはそれぞれ独自の変化が起こる。凝集→レット・オフのメソッドを活用し、全身各部を徐々にほどいて再統合していけば、音楽への感受性が劇的に変容し始める。例えば・・・、

◎絵のように平面的だった音楽が、彫刻のごとき立体感、空間性を備えるようになる。
◎モノクロからフルカラーに変わったような鮮烈さが加わる。
◎ドット数が少なく粗雑だったものが、細やかな粒子状となり、細部の精緻なニュアンスが聞き分けられるようになる。
◎壁を隔てて聞いているような不透明感が消えうせ、音そのものとダイレクトに響き合っている実感が生まれる。
◎耳だけで聞いていたのが、全身の皮膚で触覚的に感じられるようになり、自分が音楽そのものとなったような一体感を味わう。
◎無機的だったものが有機的になり、音に生命がこもっているような艶やかさが感じられる。

 ヒーリング・サウンドを学んでいく過程でこういった体験をした人はたくさんいる。彼らは音楽によるヒーリングを味わったのだ。精細に振るえる「たま」と音楽とが響き合い、生命のハーモニーを奏でたのだ。
 そういう得難き経験をした人たちは皆一様に口を揃えて、「こんな感覚を日常生活の中で頻繁に味わえるようになれば、人生はさぞかし豊かなものとなるでしょう」と熱意を込めて言う。それまで音楽に大して興味もなかったような人が、音楽への深い関心を示すようになる事例も多い。

 今回、手の粒子感覚によって言葉のヴァイブレーションを感じ取る修法を皆さんと一緒に練修したが、これをさらに発展させれば、音楽による<たまふり>も可能となる。
 裡からあふれる生命力によって花びらがそっと開くように、全身で柔らかく粒子的に音楽を受け入れると、あたかも曲そのものに導かれるように、身体の裡より不思議な舞のごとき動きが自ずから顕(あら)われてくる。それは音楽に合わせて手足を動かすのとはまったく違う、人と音楽とが分かちがたく融合し、一体となった絶妙境だ。

 こういう状態がさらに極まると、舞の中にある種の情報が含まれるようになる。身体運動というユニヴァーサルな言語を介して、超越的なるものから授けられるかのごとくに立ち現われてくるもの、それがヒーリング・アーツの各修法だ。
 そういう意味では、ヒーリング・アーツとはコズミックな舞であり、身体運動によって表現された超宇宙的叡知であるともいえる。

<2007.04.30 牡丹華(ぼたんはなさく)>