Healing Discourse

たまふり [第7回] パンタレイ(万物流転)

 過去数年間、ある時はプライベート道場で、またある時は沖縄の離島や人里離れた山中で、ヒーリング・アーツを少数の人々に指導してきた。<たまふり(ヒーリング)>を実体験した人たちから寄せられた感想文、リポートは膨大な量にのぼる。『たまふり』と題して論じてきたディスコース最後の締めくくりとして、今回はそれら体験談の一部を、読者諸氏の参考用にご紹介したいと思う。
 初めてヒーリング・アーツに接した初心者から中級者まで、様々な人々からの報告を適宜ピックアップしたが、凝集・拡散感覚が各自の言葉で綴られている部分は独習者の助けとなろうし、<たまふり>の様々な応用・可能性について想像力の翼を羽ばたかせるのも楽しいだろう。
 これまで<たまふり>入門者用のシンプルな修法を解説してきたが、粒子感覚をさらに深め、他者へと応用する方法については、今後段階を追って説いていく予定だ。

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<体験談1(抜粋、以下同)>
 高木先生のヒーリング・タッチを受けると、体がふわりと軽くなって自然に緩み始め、その流れに乗って動き出してしまいます。まるで透明な空気と一体となってしまうかのようです。あるときは柔らかく、どこまでも溶け広がっていくような気持ちよさに満たされ、あるときは最初さざ波のようだったヒーリングの波紋がだんだんと大きくなり、胸の奥深くがその波に揺さぶられてどうしようもなく大粒の涙が溢れてしまったり、またあるときは自分でも驚くほど目が見開かれ別世界のように明るい世界が目前に現われる・・・。高木先生と触れ合ってそうした不思議な体験をする度に、「いやされるとはこういうことなのか」という新たな気付きがあります。
 ヒーリング・タッチを受けることで触れ合った体そのものの形がはっきりと感じられたとき、自分の意識がぴったりと体と一体となって収まるべきところに収まっているように感じられます。自分自身が今ここにあることを明瞭に感じられる体験であり、深い寛ぎや安らぎに包まれ、自らが満たされていることを実感する瞬間です。高木先生がその手を離されても、しばらくはその部分がとても明確に、そこだけポッと灯りがついたかのようにはっきりとその場所を感じられていて、その度にその明晰な感覚に驚いてしまいます。
 ヒーリング・タッチで自分の体と触れ合うことは、内面を含めた本当の自分自身を知ることに直結していることを実感していくうちに、それまで自分の体に対してどれだけ無頓着で、無意識だったのかを思い知るようになっていきました。体に隠された神秘に、ヒーリング・タッチによってたとえ僅かでも気付くことができたときの感動は計り知れないものがあります。
 見たり、聞いたりして外側から得た知識や価値観より、自分の体を通して感じ、知ったことの方がはるかに価値があると思えるようになってきました。ヒーリング・タッチを学び始めてからの自分の考え方や価値観は、大きく変わり始め、それは人生全体の変化に及んでいます。<N.S. 女性・神奈川県>

<体験談2>
 先生は私の肺尖部周囲の胸郭の固さを一瞬で見抜かれてしまいました。ヒーリングを受けたとき、先生は鎖骨周囲に手を自然に触れられ、わずかな時間だったと思いますが、あっという間に身体が解(ほど)かれ、息苦しさが消えていくのを感じました。その過程は痛みを伴うようなものでなく、ごくごく自然にいつの間にかいやされているという感じで、まさに真のいやしとは自然に近づくことであると再認識した次第です。私達は「自然体」という姿がどのようなものなのか本当にはわかっていないのだと思います。<Y.S. 男性・岩手県> 

<体験談3>
 先日、母が足がだるいと脚を引きずるようにして歩いていたので、ヒーリング・タッチを行ないました。
 片足を終えると、行なった方の脚と全く違うと言い、両足を終えると、本当に楽になったと喜んで感謝されました。
 以前から母にヒーリング・タッチを行なっていて、軽い物を持つのも大変だった腕がすっかり痛みがなくなったと言っているのですが、改めてこの効果に驚き不思議がっていました。
 本日は、仕事中に職場の仲間が背中が痛いと辛そうにしていたのでヒーリング・タッチを行なったのですが、終えると「あれ、痛みが消えた、不思議だ、なんでだろう」と言って2人で喜んだのですが、その直後に、かなり重い荷物を運び、再び痛みだしてしまい、仕事を終えてからヒーリング・タッチを行なうと、痛みはだいぶ取れたけど微かに残っていると言っていました。
 自分の未熟さを痛感し、もっともっと磨き高めたいと思いました。<H.M. 男性・東京都>

<体験談4>
 先生が手を添えて、ヒーリング・タッチにおける凝集、拡散の感覚を伝えてくださると、その軽さと柔らかさに驚きました。これは実際に感じてみないことには分からないと思いました。全身が緩み、身体の内側がタッチされているかのようにフワーッと開き、そのなかに不思議なエネルギーの伝達を感じました。こんなにも気持ちよく、繊細で精妙な感覚があるのだろうか?と感じました。まさにいやされる体験でした。
 凝集、拡散での、粒子が密になったり、拡散して粒子の間に隙間ができるような感覚で、というのが分かりやすく感じました。凝集では粒子が密になって反発して膨らむような圧力が確かに感じられました。練習していくなかで、拡散の時はゆっくりでないと、開く感覚がついていけなくなるということも実感でき、しだいに膨らむような力に自然にのっていく感覚が感じられるようになっていきました。そのような感覚でヒーリング・タッチを相対練修で行なうと、凝集と拡散感覚のなかで精妙な波がおこるのが感じられ、両者が渾然一体となった気持ちよさを感じました。
 ヒーリング・タッチ、凝集、拡散の感覚は、生活のなかで、疲れた時、身体が滞っているなと感じた時、すぐ行なえ、またたく間に開放感と喜びに包まれるので、ほんとうに凄いと思います。<Y.S. 男性・東京都>

<体験談5>
 日々、妻とともにヒーリング・タッチの凝集・拡散の実践を行なっております。最初は、自分のペースで拡散してしまいがちで、それに注意しすぎると、今度は手を固めてしまい上手くいかないことがあります。上手くいくと、お互いが、一緒にフワァーッと膨らむように感じます。実際にその箇所が腫れ上がっているのではないのですが、膨らむ感覚があるのです。そして凝集から拡散にて広がる感覚は、凝集された箇所から2人に波紋が広がっていくようでした。さらに、そこに感じるもの、即ち、凝集されたところが外側に戻ろうとする力は、受け手自身のものであるということを感じました。
 元に戻ろうとする力は、本来、人1人1人が持ちあわせているもので、拡散にて開かれているのは、恣意によって開かれているのではなく、その人が持っている元に戻ろうとする力を利用して開かれていることを実感しました。1人1人の内側にある力で開かれていくわけですから、身体にとってたいへん自然な開き方をしていくように感じました。日々の実践を通じて、この凝集・拡散の修法は物凄い極意のように思えてなりません。<S.H. 男性・大分県>

<体験談6>
 自宅にて、高木先生より教えていただき伝えていただいた感覚をもとに母親にヒーリング・タッチを行なったところ、最初はあまりにも軽く触れ合っているためか「まじめに、やって」と怒るほどでした。しかし、そのまま行なっていると痛みがとれたようで、さかんに「軽く触れているだけなのに、不思議」とか「ギューギューと痛いことをされないで痛みがとれるので、こちらのほうがよい」などと感想を洩らしていました。それに味をしめたのか、身体に不調があるたびにリクエストされ行なっていましたが、ヒーリング・タッチを受ければ受けるほど、受けた本人の感受性があがるようにも感じます。先日などは「腰が痛い」と言ってきたので、指先でわずか数十秒ほどのヒーリング・タッチを行なっただけで「楽になった」、「痛みがとれた」と喜んでいましたが、あまりに絶大なヒーリング・タッチの効果に、こちらが驚きました。<M.T. 男性・東京都>

<体験談7>
 先日実家に帰った際、数ヶ月前からぎっくり腰で、いつも腰が痛い痛いと言っている伯母にヒーリング・マッサージを行ないました。すると伯母は、優しく手を腰に置いただけで「あったかくてすごく気持ちいい。こういうのを<いやしの手>って言うのね」と言い、十数分のマッサージで「あ、もう全然痛くない。効いたわ!」と喜んでおりました。その後、両親、弟にも施し、全員が全員「楽になった」と声を揃えて言うのを聞き、「ヒーリング・タッチは本当にすごい!」と心底感動した次第です。先生から伝えていただいた「いやしのヴァイブレーション」は、確実に周囲に伝播しているようです。<M.T. 女性・広島県>

<体験談8>
 シュノーケリングで海に浮かびながら<たまふり>を実践すると、重力のある地上とは異なり、拡散感覚を非常に掴みやすく、全身がふわふわに緩んでいきました。水にただ浮かんだままで、身体の一部分を凝集し、凝集した個所が波に揺られるのを感じてからレット・オフすると、身体がどこまでも拡散していって、波と一体となり、水の中に自らの存在感が溶け込んでいきました。ただ波に揺られるがままに、海中の光景はただ眼に映るが如く、思考は消えうせて、静けさだけがそこにありました。波を受け容れて一体となる・・・海中の<たまふり>は、ヒーリング・アーツの本質と一体であることを実感しました。
 水中でのヒーリング・マッサージも素晴らしいものでした。水に浮いた状態で、数人から手足を同時にマッサージされると、触れ合っている部分から、身体が解体されていき、水に溶けてしまいました。古事記には伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が海で禊(みそぎ)を行なう場面がありますが、まさに海によって身心が洗い清められていくことそのものを体験させていただきました。
 今回、まったく初めてのシュノーケリングであったわけですが、凝集とレット・オフの応用が、シュノーケリングにおいても直ちに熟達を促すことが実感できました。初めは、思うように前に進まず、先生や他の参加者についていくだけでも大変だったのですが、足首、膝、股関節等を凝集し、レット・オフすると、関節にかかっていた負担がフッと軽くなり、直ちに楽に泳ぐことが可能となりました。
 またある時、他の方についていこうとして前へ前へ進もうとするあまり、全身に力が入ってしまっていることに気づきました。そこでそれを強調すると、ますます全身が重くなり「下手になる」のですが、レット・オフすると、突如として悠々と前へ進むようになるばかりか、精神的にも落ち着きを取り戻して、海中の風景がクリアに見え始めました。
 そして泳げば泳ぐほど、身体が緩みほぐれて楽しくなり、気づいてみれば約6時間も海中で泳いでいました。初めてのシュノーケリングで、これほどの時間泳ぎ続けてなお余力があるというのは、考えてみると大変なことだと思うのですが、凝集とレット・オフの応用がなければおそらく不可能であり、その応用範囲が無限であることを実感いたしました。<R.S. 男性・東京都>
 
<体験談9>      
 波打ち際で波に揺られながら、身体各部をレット・オフで開放していくと、今まで自分が抱いていた「波」の概念が、まったく貧弱、単純、単調なものであったことに気づかされました。粒子的に開放された身体で感じる波は、細かく輝きながら、ぶつかり合い、砕け、また流れ、泡となり、うねりとなり、無限に重なり合い、折り重なり合っていく多様さをもっていました。その波の多様さ、方向の豊かさ、自由さ、無限の方向性は、海、波が、意識を育み、豊かにするものであることを実感させるものであり、生命が海から生まれたことを実感しました。波である世界、その本質に、浮かび揺られる存在である自分が感じられ、大いなる流れがあり、この身体があり、どう抵抗したって流されることを感じ、それなら積極的に流れに乗ろうという感覚が湧き起こりました。途中から手袋を脱いで手を開放していくと、まるで手が海に溶けてしまったかのような感覚が生じ、しだいに波と自分を隔てるものが無くなっていくかのようでした。波に身体を委ねていると、意識は途切れることなく、ただ波へ委ねていく感覚の連続でした。一瞬一瞬が、生きている感覚であり、流れそのものとなっていくように感じられました。
 この時浅瀬で先生が舞われた超越的な舞は、今でもあの感動とともに蘇ってくるようです。先生の舞は男性的優美さに溢れ、まるでその場に海の神が降臨したかのようであり、先生の身体の動きの1つ1つが、波となって、我々を突き動かすようでした。先生の周りに舞う波のしずく、1つ1つが生命の躍動をもって、先生の舞は、どんな芸術もかなわない完璧なる美しさと輝きをもって我々の心に迫ってきました。先生と波と、参加者それぞれの波が一体となって、命のきらめきと、生きる悦びがその空間にはち切れんばかりに、充ち満ちているかのようでした。
 皆が笑い、こんなにも楽しく、波と一体となって舞う・・こんなに楽しいことはない、こんな喜びはまたとない、全員がこの時を祝福している。なぜこのいやしの学びが素晴らしいのか、楽しいのか、喜びなのか、理屈ではなく、まさにこの瞬間に答えがありました。皆が大いに笑い、声をあげ、「ヒーリング」の素晴らしさを味わいました。「日本人には海洋民族の血が濃厚に流れている」という先生のお言葉も深く心身の裡に響き、海洋民族の血がたぎるかのようであり、皆で一体となって、喜び合うこの光景が、とても懐かしく、自然であるように感じられ、心の底からの感動に打ち震えました。
 海での学びを終え、浜辺にあがると、彩りに満ちた自分の身体感覚に驚きました。見慣れたビーチが、光を帯び、まるで別世界のようであり、1歩1歩新たな身体感覚を実感しながら歩きました。
 先生のあとについて、浜辺から少し高くなった木陰のそばに皆で座りました。見慣れた、ホテル前のビーチであり、その毎日見ていた何気ない光景が、今は光を織りなして壮麗な輝きに満ちているのには、ただ目を見張るばかりでした。
 仰向けに寝ころんで空をみると、木漏れ日が輝き、空には圧倒的な触感をもって雲が動いており、その流れが心身の流れと連なって、生命のエネルギーを動かしていました。私はこの光景を忘れない・・こんな生命の輝きはみたことがない・・まさに至福の体験でありました。
 海を前に座り、瞑想を行なうと、風が皮膚をなで、海でみそぎはらわれた身体の内側に波紋を起こして、心が踊るような気持ちよさ、清々しさでした。内と外の全てが流れ、全てが自然でした。海を前に瞑想していると、そこに宇宙の精妙壮大なる運行を感じ、大いなる大自然に向かって屹立する感覚があり、心身に満ちてくる生命の力が感じられました。<Y.S. 男性・東京都>

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 これらはすべて過去の記録のごく一部であり、すでに過ぎ去り、流れ去ったものであって、あくまで「参考」のためにご紹介したに過ぎないことを、最後に改めて強調しておきたい。ヘラクレイトスが言ったように、同じ川の流れに再び足をひたすことはできない。2度目に足をつけた時には、すでに新しい流れがそこにある。万物は流転するのだ。
 私は日々、<たまふり>の新たな境地を拓いている。<いやし>は常に新鮮でみずみずしい。

——たまふり・終——

<2007.05.02 八十八夜>