高木一行:編
これは『太極拳論』(王宗岳)をテーマとした、一種の「対話篇」だ。龍宮道メンバーシップ「流心会」のチームコミュニケーションツール上にて、『太極拳論』が話題となったことをきっかけとして、あらゆる太極拳修行者にとってのバイブルとされてきた有名な一書に、龍宮道の観点から新たな光を当ててみようとする試みへと発展していった、そのプロセスの記録である。
王宗岳の『太極拳論』を、随分久しぶりに繙いてみた。諸君も知っていると思うが、太極拳の聖典とされる書だ。著者の正確な生没年は不詳だが、清の乾隆年間(1736~1795)頃の人で、拳法や槍術を得意としたと伝えられている。
かつて十三勢とか長拳などと、ぞんざいかつ適当に呼ばれていた田舎拳法の一派が、『太極拳論』以降、太極拳の名で広く天下に知られるようになり、深遠で神秘的な精神性に魅了されて入門する文人や貴族たちが後を絶たなかったそうだ。
青年時代に太極拳を熱心に修業していた頃、『太極拳論』を何度か熟読したことがある。何か大切なことが書かれていると感じられはするものの、ではそれを実際に体現するためには一体何をどうすれば良いのか、皆目見当がつかず、そのまま捨て去って長い間顧みなかった。
今回改めて向かい合ってみると・・・、おや? 記されている一言一言が、何だか妙に、深くしみ込んでくるではないか。そこに記された「現象」(武術的境地)のあれやこれやも、以前は遠い別世界のことのように感じられたのに、今は、自分自身の体験を通じて深く共感できる。
だからといって、『太極拳論』の内容はすべてわかったとか、オレにもできるとか、あるいは龍宮道と太極拳の本質は同じものであるとか、そんな大それた傲岸不遜な言辞を弄するつもりなど、もちろん・さらさら、ない。
が、諸君もゆっくり味読してみればわかると思うが、響き合ってくるところがいっぱいあるはずだ。
『太極拳論』を読んでおりまして、色々と感じるところがありました。
一番興味を惹かれたのが、「多くの人は誤って近きをすて、遠きを求めている。心構えのわずかな差が、修練に千里の隔りをもたらす」というところでした。修練の根本とも思えましたので、近きとはどこで、遠きとはどこなのか? と自問しておりました。
本日ふと、龍宮道の体験から、「近き」とは自分の皮膚に囲まれた身体の内側、「遠き」とは技をかけようとする相手など、自分の皮膚の外側ではないか? と思いつきました。
もちろん様々な段階もあると思いますし、解釈に正解というものがあるのかわかりませんが、私なりに響き合うところがあったのは、龍宮道を修してきたればこそと思えました。
例えば寝わざで相手に上から覆いかぶさられ、しっかり抑え込まれた態勢を想像していただきたい。その際、手足をばたつかせて暴れたり、海老のように跳ねてみたり、あるいは相手をひっくり返すべく頑張ったり、・・・普通、人が一生懸命やろうとするそういった諸々のことは、すべて相手と自分とのインターフェース(接触面)から意識が「外」へと、はみ出(そうと)している。すると重く・鈍く・不自由で・疲れる、その割に、効果は極めて薄弱なのが悲しい。
これを『太極拳論』では「近きを捨てて遠きを求める」と言って戒めているわけだが、私が龍宮道のわざを使う際には逆に、「遠きを捨てて近きを求める」ことを、常に心がけている。
「近き」とは、東前君が述べていたように、自分の皮膚の内側だが、その身体内の空間に流動循環作用を起こせば、巌のように重くのしかかっていた相手が意外なほどあっけなく、波打つように崩れてゆく。
この「波打つ」という言葉も、本当に誤解されやすいから要注意だ。自分の体を(外側へ)スイングさせるようなこととは「まったく」違って、龍宮道で波打つと言う際には、身体内(皮膚で囲まれた空間の内側)が水として実際に揺らぎ・波打つのである。
肝心なのはそれを、武術のわざとして武術的シチュエーション(命がけの状況)の中で自由に使えるか、ということだ。それができれば、人生のあらゆることに応用できる。
ところで唐突だが、『太極拳論』と龍宮道のコラボレーション企画を思いついた。
それに先立ち、きちんとしたテキストを用意せねばならぬ。ネット上でいくつか紹介されているようだが、栁田君がみて翻訳の正確さはどうなのだろう。
ウィキペディアにある『太極拳論』ですが、漢語の原文を文語読み下しにして、それを口語訳にしています。
みたところ、口語訳には無理があるように思えました。
例を挙げると、「人、剛にして、我、柔なる、これを走という」を「相手が力強く己が小力の場合は、逆らわずに流すこと、これを走という」と訳していて、剛が「力が強いこと」で、柔が「小さい力」と解釈していますが、これは「剛柔」というくらいで、「相手が頑強なら、こちらは柔軟」と解釈したほうが自然に思えます。
そして、「走」は日本語では走るという意味に使われますが、中国語では「歩く」「出かける」「表れる」など、多くの動作を示す言葉で、うまく訳せませんが、あえて言えば「動き」そのものが生じるという感じでしょうか。
「我、順にして、人、背なる、これを粘という」は「己を有利な立場におき、相手を不利な方向や体勢におくことを粘という」としていますが、これも、順は「自然に従った状態」を指す言葉で、背はその反対ですから、こちらが自然で相手が不自然であり、それによって動きや流れが生じない膠着状態にあるといった意味合いになると思います。
このように、口語訳に関しては注意が必要です。この口語訳の場合、武道を好きな人が戦闘理論として解釈している印象を受けました。
『太極拳論』・『十三勢歌』といった太極拳の重要な文献は以前にも目にしたことがあり、その時は想像で内容を推し量っていただけなので、実技がどうの・理屈がこうのとあれこれ余計なことを考えていたのですが、今読むとかなり率直に、ありのままが書かれているように感じられて驚きました。
もちろんレベルはまったく違うとしても、そこに書かれていることの一端が、自分自身の身体を通じて今、現われつつあることに不思議さを感じます。
漢文の和訳に関しては、中国語の専門家の間でもよく議論されてきました。
漢方医学に関する著作の多い台湾の張明澄氏がそのことに関して述べていて、日本人の漢文の訳には誤訳が多いことを示す著作『間違いだらけの漢文』『誤読だらけの邪馬台国』もありました。アマゾンで「張明澄」を検索にかけたら、これらの著作が原価の何倍もする稀覯本扱いになっています。
漢文学者や歴史家でも誤訳しやすいとなると、翻訳は困難を極めそうですから、信用できる専門家を探す必要がありそうです。
張明澄氏はもう亡くなられましたが、ネット時代なので国境を越えて研究している人達を探すことも可能なはずです。
まず自分たちでできるところまでやり遂げ、その上でどうしてもわからないことがあれば外部に助力を求めればよいのであって、最初から他者をあてにしようとするのは筋違いだ。
私は、言葉を正確に翻訳することはもちろんだが、その上で龍宮道の観点からそれを読むとどう感じるのか、どのように読み取れるのか、そういうことを<身体>に基づいて検証してゆきたいと思っている。あるいは、身体感覚から言えばこれはこういう意味のはずだ、など、我々独自のアプローチ法で翻訳に取り組むのも面白いではないか。
この企画は、別に新しいチャンネルを設置し、興味がある者のみがアクセスすればよいが、そこで栁田君に最初に頼みたいのは、正確な原文を得ることだ。ウィキペディアを基本として、他のソースもいくつか調べ、大きな違いがないか、確認してほしい。
『太極拳論』について勉強する、という謙虚な気持ちで、身体をベースに読み・解いてゆこうとする試み。その過程で、新しい修法が顕われることもあろうし、太極拳の精髄とされる書と、身体を通じて触れ合うことで、また新たな創造の機縁が生まれるのではあるまいか?
確かに、まずは自分たちでやれるところまでやってみるべきと思います。
原文をいくつか当たってみます。いくつかみると、日本ではウィキペディアを転載したものが多そうです。
中国語版では、簡体字のものは注意がいるかもしれません。
現在の中国では簡体字の徹底化の結果、例えば「鬆」に「松」の字を使ってしまっていますが、植物の松ではなく「緩める」という意味です。
他にも「谷」など、地形で使われるとは限りません。「穀物」という意味になる場合があります。谷と穀は同音のため、谷で統一してしまっているからです。
だから仙道の行法「辟穀」が「辟谷」などと書かれ、日本語版でもそのまま使われたものを見たことがあります。
他にも、何か注意すべき点があるかもしれませんが、一通り調べてからご報告いたします。
栁田君はまず、『太極拳論』の原文を掲げてほしい。異説がある部分は( )で示すように。
それを元に、読み下し、口語訳、実際に検証、という作業を組み合わせつつ、少しずつ進んでゆく。
太極拳論をいろいろ比較してみました。特に、台湾の旧字体で書かれたものを重点的に調べました。
文章自体は、どれもほとんど同じでしたが、中には「而理唯一貫」が、「而理惟一貫」となっているものや、「然非用力之久」が「然非用功」とか「功力之久」になっているものもありました。
句読点の使い方も、人によってつけ方が違っていました。原文は何百年も前の句読点のない時代のものなので、文を区切る際に「、」にする人もいれば「。」にする人もいるといった具合です。
原文と同時に口語訳も目に入ってくるのですが、多くの人が様々な解釈をしているので、これは混乱する人も多いのではないでしょうか。
最初は意味がよく分からなくても、龍宮道のわざを実践しつつ、原文に向き合うほかなさそうです。
不思議なもので、原文を何度も読んでいるうちに、著者が「単純明快に説明しようとしている」ということが伝わってきました。
特に、声に出して読むとそのように感じられるのです。「太極」ですから、「剛柔」とか、「緩急」などの対になっている言葉も多いし、読みやすく、学びやすくする気遣いがあるからでしょう。
その偉大な先達の思いのこもった名文に対し、龍宮道訳で答えたいものです。
<2022.03.07 虫啓戸(すごもりむしとをひらく)>