太靈道断食法講義録 第2回

第3章 断食と靈理

 すべて我々人類の生命体は、その一面が肉体であり、一面が精神であって、さらにその根底に靈子を認めることによって、完全なる解釈ができるのである。その靈子の活動の方面には、微妙なる靈理作用が行なわれているのである。
 この靈理と断食との関係について述ぶるにあたり、まず断食によりて靈子作用が旺盛になることを挙げておかねばならぬ。この靈子作用によりて、肉体の働きも精神の働きも行なわれているものである以上、靈子作用の旺盛なるにしたがって、肉体ならびに精神の作用が旺盛敏活になるのは、縷説[るせつ]を須[もち]ゆる要のないところであろう。
 食物の咀嚼、消化、吸収、排泄等の生理作用の方面に向かって、靈子作用が要求さるること多きに至る時は、精神上の活動は微弱となるものである。「腹の皮が張ると目の皮が緩む」なる俗諺は、満腹の時には眠くなることをいったものである。
 要するに満腹時においては、その食物の消化吸収等のため、消化器に向かって靈子作用が旺盛に働くべき必要が起こってくる。したがって脳の方面におけるその発動が微弱となり、外放作用が減退されるために、睡眠を催す結果となるのである。
 また満腹時、あるいは食後直ちに精神を使うことがあったとすれば、第三脳室の天蓋に位しているところの全枢(フォルニックス)の作用が精神作用の方面に活動を為すべき必要が起こり、外放作用を強いらるることになり、生理作用の方面の活動、すなわちその内放作用が微弱となり、消化吸収等の上に不良の影響を及ぼすことになるのである。
 かくのごとくして、食物を多く摂取した場合には、靈の作用は生理作用を営む方面に発動して行って、精神作用は微弱となるのであるが、これに反して断食を行なう時には、生理作用のうち消化吸収等に用いらるべき靈の内放作用が不要になるゆえ、ほとんど全部に近い靈子作用が外放さるることとなりて、精神作用として働くに至る。古来、法術の修業者が断食を必要としたのは、たまたまこの事実に適合したものと言い得るのである。
 断食中において、しばしば身体の動揺するのを感ずることがある。それはまさしく、靈子顕動作用が発動したものである。予自身、恵那山中において断食修業中、たまたま身体の動揺を感じたのが元となり、ついに靈子顕動作用を発見するに至ったのである。当時においては靈子顕動作用の何たるかを知っていたのではなく、偶然それが発動したので、自らその絶妙現象に驚嘆したのであって、もちろん研究的、実修的のものではなかったのである。しかして、断食中における身体の動揺なるものは、古くよりこれを認められていたものである。
 断食の際におけるこの現象は、前にも述べたごとく胃腸に働くべき靈子の作用が休止するため、体内に溢れて外的に働くに至り、意識的によらずしてまったく靈的に身体の動揺を来たすのである。この場合に物事を考うることあらば、その動揺は起こることなく、起こっていても休止するに至るものである。何となれば物事を思考するため、靈子作用が精神的に要求せらるるがゆえに、靈力が肉体に充溢せざることとなるからである。
 こうした理由によりて、断食の目的が靈力、体力、心力そのいずれの増進を期するにあるにせよ、この断食中には肉体及び精神の活動を休止して、靈そのままの発動を待つように心がけなければならない。
 もしこれに反して、体力、心力を濫費すれば、断食の効果を没却するのみならず、不測の禍害を招致しないとも限らないのである。

第4章 断食と心理

 次に、断食が心理作用に及ぼす影響の概略を述べることにしよう。
 断食の場合においては、靈子作用が生理作用の方面に用いらるること少なきため、精神の活動力は従ってますます旺盛になるのである。世に「餓腸奇策を生ず」という諺がある。これはまったく如上の理によるものであって、空腹時には靈の活動が精神の上に集中さるるの致すところである。
 これに反して、飽食時には容易に奇策は出るものではないのである。それのみならず、飽食時において物事を考えるということは、生理作用の方面に働きつつある靈力を、精神作用の方面に横取りする形になり、その結果完全なる生理作用を遂げしむることが不可能になるものであるから、特に注意を要する事柄である。
 以上の理由によりてこれを観れば、精神を要求する人士にありては、飽食することは慎むべきである。また精神上の労作に従事する著述家、芸術家、政治家、教育家のごとき人々にありては、常に飽食せざるように心がけなければならない。
 断食すれば、心理作用も生理作用も回復され、かつ旺盛になることは驚くべきものであるが、特に心理作用に及ぼすところの影響は、実に偉大にして顕著なるものである。

第5章 断食と生理

 前章においてすでに述べたるがごとく、断食が心理作用にもたらすところの効果は、実に大なるものであるとともに、生理作用に及ぼす効果も驚くべきものがある。ことに胃腸の機能は著しく回復され、増進されるものである。
 胃腸における消化吸収の作用が完全に行なわれざるときには、いかに優良なる食物を摂取すといえども、それが栄養化されることが不充分である。しかし、ひとたび断食によりて回復せられたる胃腸の働きによるときは、優良なる食物は充分にその栄養価を発揮し、健康を増進すること、むしろ想像の外にありというべきである。
 病者にしても、食物を摂らざるときは、極めて治療しやすいものである。普通の胃腸疾患ならば、1週間くらいの断食によりて、著しく快方に向かい、または全癒するに至るのである。
 以上は、断食そのものが胃腸と直接関係があるをもって、主として胃腸疾患について、断食による回復力の顕著なることを述べたのであるが、それは単に胃腸のみに限らず、すべての内臓及び体組織においても同様の効果を及ぼすものであることは、毫末も疑うところのない事実である。

第6章 断食と人生

 幸福観念は、従来の思想、宗教及び現代のそれらについても認め得るところのものであって、そのすべてが、競うて幸福ならしむることをもって目的とし、標榜して立っている傾向が見受けらるるのである。
 しかし、この幸福ということは考えようによりては劣悪なるものであって、そう追求すべきものではないと思う。
 太靈道においては、人生を幸福ならしむるということは説かないのみならず、むしろ幸福を目的として行動するということは、避くべきものと見做している。
 太靈道において、唯一の目的とするところは全真である。人生、国家、社会をして全真ならしむるのが、唯一の目的なのである。
 説きてここに至れば、生をまっとうするために断食するというのも、いわゆる幸福の追及ではないかという疑問も起こるが、それは見解の相違である。前にも述べたごとく、太靈道は全真を目的とする。しかして生命現象そのものは、全真の一発現である。したがって生をまっとうすることは、全真の体現であって、幸福の追及と同一視すべきものではない。
 人間は常に生に執着するがゆえに、生命そのものが物質的幸福の対象の一つなるがごとくに考えらるるが、必ずしもそうではなく、富、権力、名誉等とは全然違った性質のものである。しかるに、それを得ざる時は幸福にあらずと考えている現代思想は、絶対と直融することによって生をまっとうさせることを教え、それを唯一最後の目的とする太靈道とは、霄壌[しょうじょう:天地]の隔たりがあるものである。
 ここにいう人間と絶対との融合は、人生の基調となるものである。この点より観察すれば、断食は何物よりも深甚なる意義を人生に投入するものである。億万の富よりも、1日の断食は実に尊いものである。
 しかるに物質に囚われたる現代人は、この尊い断食の味を知らない。1日の断食が、生理、心理の上にもたらす靈効・靈果がいかに大なるものか、また尊きかを知らないのである。
 1週間にわずか1日の断食を行なう人も、肉体において無病なることを得るのみならず、精神の活動においても常に普通人を凌駕するの位置に立ち得るのである。肉体精神においてかくのごとく恵まるるのみならず、さらに靈に近づき得ることになるのである。
 人生において、生理的にまた心理的に、全真であることほど尊いことはない。そして全真を体現するためには、断食を最も適切なるものとみなすのである。

第2編 断食の方法

第1章 季節の選択

 断食は前編において述べ来たれるがごとく、人類の生活上極めて必要にして、また効果著しきものではあるが、適当なる季節を選びてこれを行ない、季節に応じてこれに処する方法を心得ざるときは、危険弊害を伴うこと絶無とはいいがたいのである。
 そこで次に、季節についての注意を述べることにする。

第1節 春季

 およそ一般には、立春からを春の季節と称せられているが、ここにはそれにこだわらないで、人が春陽の気を感じてくる2月の末よりのこととして解説する。
 2月下旬より3月上旬にかけては、断食を行なうのに適しているのである。しかし3月の終わりから4月に渡っては不適当である。
 その理由はというと、この時期においては、人体を組織する細胞の働きが自然と旺盛になって、靈の作用が外散さるる傾向になって来るからである。即ち、断食に最も必要とするところの、内面的な沈着冷静を保ちがたい心身の状態にあるときなるがゆえである。
 かかる心身の状態にある時には、一面から見ればかえってその心身をして沈着冷静ならしむるために、断食が必要であるといい得るのであるが、時期としては断食の実行に適当ではないのである。
 適当でない時ほど、人間は自然から離れる状態になるのであるから、その時こそ真に断食の必要は感じられるのであるが、それは窪地に土を運ぶようなもので、運んだだけの効果は認められるが、実際に人の目に触れるような効果をもたらすに至らない。
 これに反して、適当な時を選んで行なう時は、平地に土を盛るごとく、それだけの実績があがるとともに、人の目にも触れるような効果があるのである。
 されば晩春の候は必要ではあるが、断食実行の時期としては、著しき効果を見る上において適当ではないということを、実修者は心得ておく必要がある。

第2節 夏季

 夏季といっても、初夏と盛夏とは気温において非常に差異があって、一様に論ずることはできない。
 初夏すなわち5月6月の候は、断食の実行に非常に適しているのである。すなわち内面的には、晩春において外散されやすい生命機能が沈静に帰し、外面的には気温、湿気、光線等の関係が断食するには甚だ適当であり、したがって著しい効果を収め得ることになるのである。
 しかし夏季の中でも、7月の初め頃は、断食に適さない。
 この時期は断食を行なうよりも、むしろ減食を行なうことによりて、心身に好影響を及ぼすものである。その理由は、気温が高いので体温を消費すること少なく、したがって体温を化成すべき食物を胃腸より摂取する必要が乏しくなるとともに、身体各部の機能は自然に対抗すべく、胃腸以外の方面に活躍を必要とするがゆえに、内放さるべき靈子作用は胃腸において著しく節約され、微弱となる。この時に際し、減食して胃腸の機能を過労せしめないということは、身体各部の機能をして敏活旺盛ならしむることとなるのである。

第3節 秋季

 秋季は、初秋晩秋を通じて、断食には適した時期である。
 この時期において断食を実修し得た者は、その経験と時節の関係上、長きに渡りて断食を行ない得ることになるのである。
 すなわち、夏季における断食と秋季における断食とを比較するに、夏季において行なう方は比較的容易であって、秋季においてはやや困難を感ずるのである。それは、夏季は一般に食欲の減退する時であり、秋は食欲の進む時である関係に基づくのであるが、その食欲が進むときに断食を断行すれば、断食に対しての自信を強めることになり、冬季に入るもなお容易に行ない得るという、季節上の好位置に置かれることになるからである。
 この食欲の増進する秋季においての断食には、味わうべき真意義が甚だ多く包蔵されている。

第4節 冬季

 冬季は四季を通じて、一番断食に適したる季節である。冬季中においても、小寒大寒の30日に渡っての断食は、その実修者に対して、肉体的に、精神的に、また靈的に、実に顕著卓抜なる効果を与うるものである。しかもそれは単に効果的方面のみならず、実修的方面からいっても、実に適切なる期間であると言い得るのである。
 要するに断食は、冬季において最も適切ではあるが、経験なき者には多少の危険を伴うといえども、長期断食の経験ある者にありては、有益にして無害なるは明らかである。
 断食を行なうにあたって、その実行上の難易、効果の多少等の差は若干あるとしても、春と夏の一部期間を除くほかは、四季を通じて行ない得るということになるのである。