ディスコース『ボニン・ブルー』でご紹介した小笠原巡礼に先立ち、私たちはクジラ肉を食べることをやめた。
クジラ肉なんてとりたててうまいと思ったことはないが、外国の反捕鯨団体などがクジラを食べるな、と頭ごなしに、一方的に、意見を押し付けてきたといったニュースを耳にするたび、生来の反逆精神がむくむく頭をもたげてきて、「ならば食ってやる」と、時折り、半ば意地で、クジラ料理を食していた。
が、小笠原、利島巡礼を経て、クジラ(イルカ)肉に対する食欲はゼロ、どころかマイナスとなった。
イルカやクジラは人間並みに頭がいいから食べるべきではない、といった安直な理由によるものではない。イルカたちは、人類とはまったく違う形態の知性、文化を、おそらくは発達させている。
イルカは可愛い、とも思わない。くちばしの先端で、サメの弱点である肝臓に体当たりし、サメを殺してしまう凶猛な破壊力を、イルカは秘めている。
野生のイルカと一緒に泳ぎ、生命が高揚する歓びを味わった結果、他に食べ物はいくらでもあるのに、わざわざイルカやクジラを残酷な方法で殺して食べる必要などまったくない、という気持ちに、自然になっていったのだ。
反捕鯨を唱える人々は、自らの考え方をゴリ押し的に他者に強要しようとするのでなく、もっとフェミニン(女性的)で柔らかな方法で、イルカやクジラを食べる人たちをドルフィン・スイム(やホエール・スイム)へと誘[いざな]ってみてはいかがだろう?
それではスライドショーだ。
利島巡礼の最終日、午後遅い時間に利島を発つという日の早朝、最後のドルフィン・スイムへと妻と共に臨んだ。
利島での、6回目のドルフィン・スイム。「連日、ごくろう様」とでもいったところだろうか。これまでは毎回数分程度のエンカウンター(出会い)だったものが、ある時は15分間以上も、延々、イルカたちと交流することができた。
これは1つの奇跡なのだと思う。
イルカたちは、いまだに盛んに狩られ、殺され続けている。
イルカにとり、人間は「天敵」なのだ。
無心にイルカたちと戯れる妻と違い、最終日のドルフィン・スイム直前まで、何か釈然としない、もやもやした感じを私は覚え続けていた。
まだ充分つかみ切れてない。
重要な何ごとかを、取り逃がしている。
そんな、ある種の焦慮。
腹にゴマ斑[ふ]模様のあるイルカが、ドルフィン・スイムのたびごとに私のそばに泳ぎよってきて、お互い目が合うのだが、次の瞬間「まだわからないのか」とばかりに、プイと横を向き、さっさと泳ぎ去ってしまう。「朴念仁[ぼくねんじん]め」といわれているみたいだった。
最終日、いつものようにボートが港を出て、数分後、イルカの群れと遭遇。イルカたちを驚かさないよう、そっと海へエントリーし、静かに待っていると、例のゴマ斑模様のイルカが近づいてきた。
その瞬間、「何ものかを是が非でも得て人々と分かち合わねば」と、知らず知らずのうちに深刻となり、余計な力みが心身に入っていたことを悟った。と同時に、サァーッと、狭い枠に閉じ込められていた意識が解放され、無限の彼方まで拡がっていった。
くだんのイルカと目が合うと、にっこり優しくほほえんでいるかのようだ。
「ようやくおわかりかい」
「リラックス、リラックス」
「すべては遊び。神の遊びだよ」
・・・と。
<遊び[アソビ]>というキーワードに心と体を開いたとたん、すべてのものごとがもっと自然に、楽に、滑らかに運ぶようになった。
接触してしまうのではないかと心配になるほどの至近距離まで、イルカたちが近寄ってくることもあった(が、イルカは完璧に自らの動きをコントロールしているので、決して互いに触れ合うことはない)。
3頭のイルカが象形文字を成すように絡み合い、その後ろから多数の仲間たちが観[み]守るようについてゆくシーンとも出会った。
何か、イルカの神聖な儀式のような感じがして、近寄ったり、カメラを向けたりすることは控えた。
・・・・・
利島を去り、東京で一泊した夜。
なぜか予約しておいた部屋が手配できなかったとのことで、2部屋続きの豪勢なスイートルームに格安の値段で泊まれることとなったのだが、特大のベッドに横になって目を閉じると、ピーピー、キリキリ、イルカ語(?)が身体内のどこからか盛んに聴こえてくる。
相当大容量の情報がダウンロードされたらしい。
広島へ戻ってそれらを少しずつ繙[ひもと]き、これまでの全人生の体験と照らし合わせつつ統合してゆくことで、私はヒーリング・アーツの奥義となる<生命[いのち]の対等>という究極の哲学、思想・・・否、ヴィジョンへとたどり着いたのである。
他の命を奪って食べることは是か非か。
弱肉強食が生き物の世界(人間社会も含む)を統[す]べる原理であるとしたら、この世とは地獄に他ならないのではないか。
それら諸々の疑問に対する自分なりの解答を、自分自身で探し求めるための明快な指針。
<生命の対等>という理会へ悟入した途端、あらゆるものと共振し、響き合えるようになった。
私は太陽であり、月であり、地面を這う1匹[ひとり]の蟻であり、あなたであり、そしてすべてだ。
万物斉同・・・・。
天地万有の生命[いのち]とダイレクトに共感し合う境地を目指し、30数年間ひたすら努力と研鑽を重ねてきた。
日暮れて道遠し。・・・日が暮れてあたりはどんどん暗くなりつつあるのに、見知らぬ寂しい山道で独りぼっち。
・・・・才能乏しき私は、そんな寂寥感[せきりょうかん]をこれまで幾度味わったことだろう。
進めども進めども、まったく出口が見えない。
絶望に襲われ、打ちひしがれそうになったことも1度や2度ではない。
愛する妻に支えられ、友人たちの励ましを受け、しまいにはイルカの教え、導きまで受けて、ついに・・・。
遥けきも来つるものかな(はるばる遠くまで来たものよ)。
そしてそこは、ゴールというよりは、むしろ出発点と呼ぶべきものだった。
ただあるがままの、自然・・・。
「生命の対等」という根本ヴィジョンについて、ここで多くを語る余裕を持たないことを遺憾とする。
今後その機会が私に与えられるものか、否か・・・私にはわからない。
術[わざ]、芸術としてのヒーリング・アーツに<生命の対等>なるヴィジョンがクロスオーバーされたことにより、新たな<道>が開かれた。
人間による人間のための芸術、術[わざ]を超えた、いわば普遍的な生命[いのち]の法。
生命[いのち]とは、死の反対極としての生とは違う。それは、生と死を共に超越し、生と死の源泉となるもの。
あらゆるものはそこから来て、そこへと還ってゆく。
命の根源世界。それを私は龍宮と呼ぶ。
龍宮道の開門を、今、ここに宣言する。
イノチの歓喜に満ち充ちて。