Healing Discourse

ヒーリング随感5 第17回 金剛不壊[ふえ]の心

◎「同房者」が次々変わるのだが、3人目がいけなかった。
 一見おとなしそうな青年だが、トイレで小便をまき散らし、それを申し訳ないとも、迷惑をかけているとも、まったく感じないらしい。注意しても「はい」と気のない返事が返ってくるだけだ。
 仕方ないから、私が毎日トイレットペーパーで後始末していたが、次第にひどくなって、トイレの床は小便の海と化し、監房内にすえた小便の匂いが充満して、夜もおちおち眠れぬ次第と相成った。

◎この青年、一応人の形をしてはいるのだが、観の目を使うと、タヌキみたいな姿が重なって霊眼に映る。小便をかけ散らすのは、ある種のマーキング行為なのだろう。
 こうした場合、指先にヒーリング作用を強く込め、相手の眉間へ向け「凝指」すると、暴れ出したり、別人(霊)格が現われ語り出すなど、興味深い現象を呈するものだ。
 が、監房内で「除霊」でもあるまい。
 そして数日が過ぎたが、さしも我慢強い私も、ついに忍耐の限界に達し、看守たちに(自分を)独房に移して欲しいと申し入れた。
 何せ、まともに息ができない。
 水と空気だけで命をつないでいる身にとり、これは致命的となり得る。

◎そうしたら・・・・何と諸君、少年用の1人部屋に移ることになったぞ!
 そこへ入った途端、ああ何たる素敵な天国よ、清潔な極楽よ、と一気に呼吸が深まるのがありありとわかった。
 これまで昼食後と夕食後、私の房の前に置かれたラジオから大音量で垂れ流されていた音楽番組も、ずっと遠くなった。

◎これでまた心身修養に専念できる。
 1人部屋だから、同室者に気がねすることなく、あれこれ動き回ったりも、できる。
 有り難い。

◎この特別な措置に感謝の意を表するためと、私の身を心配して「どうか食べて下さい」と哀願までする顔なじみの護送官への慰めとして、本夕、重湯(おかゆの上ずみ)をわずかな量(大さじ2~3杯程度)いただくこととした。
 私は死を覚悟してこの断食行に臨んでいるが、死を目的とし、ただ闇雲に死なんがため、食を断っているわけではない。
 死の上に据[す]わりつつ、「生きる」。
 これが私の基本スタンスだ。
 ところで、重湯を飲んだら・・・・気分が悪くなった(呵々)。さらに、胸から喉にかけ、たくさんの吹き出物が吹き出てきた。食べない方がずっと気持ちいい。

◎元来、断食しながら、裁判で私の主張を堂々と述べたいと思っていた。
 弁護士も、その機会、時間を設ける、と約束してくれた。
 が、これまでのプロセスを観察してわかったことだが、元来絶対公平でなければならぬはずの裁判官は、検察官が見せたいものしか見ようとせず、ほとんど検察側の言いなりに等しく、そんなあらかじめ結果が定まっている茶番のような裁判で私が何を主張しようと、耳を傾けるのはごく少数の傍聴人のみであり、まさに焼け石に水であると理会した。
 今年前半に経験した民事裁判の時もそうだったが、日本の司法制度の立ち遅れには心底失望した。

◎私が述べたかったことは、留置生活の中で書き上げた3部作『ボニン・ブルー』『ドルフィン・スイムD』『1万回の「愛してる」を、君へ』の中で、ほぼ言い尽くしたと感じている。『1万回の~』のみ、前に記した理由で発表が多少遅れると思うが、遅かれ早かれ日の目を見ることになろう。
 書き残したことは、こうして本連載に記している。

◎まあ、檻の中へぶち込まれる相応の理由も、過去を振り返ればないわけじゃない。
 とりわけ、たくさんの女性たちを心ならずも泣かせてきたことは、重罪に値する。
 この断食行には、贖罪[しょくざい]の意味も込められている。

◎拉致(逮捕、連行)・監禁され、檻の中という非日常的空間に閉じ込められて、日々厳しい取り調べを受け、先の予定を一切知らされることなくじわりじわりと拘置期間を延長され、弁護士以外誰とも会うことを許されず、誰とも連絡を取り合うことができない状況下で、法の庇護[ひご]のもと、人の心を操る術[すべ]にたけた刑事らがアメと鞭を使い分けながらじっくり時間をかけ責め苛[さいな]めば・・・・それは普通の人間であればいつしか心が折れ、あとは相手の思うがまま、望み通りの供述をしてしまうのも、仕方のないことといえる。
 私は上記のような精神的、肉体的責め苦を、現在、実際に体験しつつあるから、ほとんどの人にとってそれが耐えがたいものであることが、わかり過ぎるほどよくわかる。
 それでもなお、私の「信念」は微動だにしない。
 それは今や「信仰」と呼ぶべきものへと結晶化を遂げつつある。
 私が言う信仰とは、外なる神、仏などにすがり、頼り切り、助けや幸運を乞い求めることではない。

◎人類史上、多くの<道>が、その創成期において「受難」を経験してきていることは周知の事実だ。
 私が今味わいつつある「これ」は、始まりの試練、生みの苦しみなのだろうか?
 私にはわからない。
 1つだけ確かに言えることは、これら諸々の火の試練がなければ、私が現在得ているような理会と術[わざ]へは、決して到達できなかったであろう、ということだ。

◎さて、こうした状況でもまだ<樂[たのし]!!!>と叫ぶことができるのか ・ ・ ・ ・ ???!!!

 勿論[もちろん]だ。
 新たなる芸術作品(修法の進化を含む)が次々と生まれている、これはものすごく楽しいぞッ!!!
 これまで本ウェブサイト内で繰り返し述べてきた通り、芸術的創造(新たなるものを生み出す営み)が生きることに活気を与え、人生にいやしをもたらす。
 ・・・・これを Art for Art's sake. ・・・・芸術至上主義とでも呼ぶのだろうか?
 いかなる主義[イズム]も持たないことが私の主義だが。

<2013.10.18 蟋蟀在戸[きりぎりすとにあり]断食 Day25>