Healing Sound

ヒーリング・エッセイ 第8回 ヒーリング・セレブレーション・リポート(中編)

 今回、夫の一行がセレブレーションで伝授したヒーリング・アーツ修法の中には、一見すると音とは何の関係もなさそうな、「手首の角度」に関する学びも含まれていました。以前、ディスコースで詳しく扱われた内容です(グノーティ・セアウトン第2回・鎮魂)。「一体、手首と音楽に何の関係があるのか?」と思われるかもしれません。ところが、おおいに関係があることが、セレブレーションが進むにつれて解明されていったのです。
 手首の角度は、本来前腕(肘から手首まで)を斜めに切ったような角度になっていますが、私たちはなぜか「前腕、手首、手は一直線である」と無意識のうちに頑なに思いこんでいます。その思いこみ(仮想)が、身体にかなりの負担をかけていて、ひどくなると手が慢性的に固くなり、痛みを生じるまでになります。それが全身に波及して、身体の流れが分断され、五官のはたらきも鈍り、動きもギクシャクしてくるのです。私が昔、無理な楽器演奏の練修で腱鞘炎になってしまったのも、やはり手首の仮想が原因でした。
 セレブレーション中、夫が参加者1人1人の手首とヒーリング・タッチで触れあう時間がたくさん設けられました。夫のヒーリング・タッチを受けたとたん、受け手の手首の意識が独特な感覚を伴ってパッと目覚める。実際に体験したことがない人に説明するのはとても難しいですが、目が覚めた状態からさらに目を覚ますような感じで、何度受けても毎回新鮮な感動があります。そして術を受ければ受けるほど、体験は深みを増し、自らのヒーリング・タッチ能力も向上していくのです。
 受け手の顔を観察するのも面白いものです。驚きと感嘆とが入り交じった何ともいえない表情を浮かべる人もいれば、慣れた人などは瞬間的に瞑想意識にシフトし、柔らかなエクスタシーの海に浮かび漂うように恍惚としています。ところが、わざと要訣を守らずヒーリング・タッチを行なうと、たとえ夫といえども受け手の心身には何の変化も生じません。見た目には違いがまったくわからないし、実際に触れあってさえほとんど察知できないほどのごく微細な相違ですが、その差は決定的といえるほど大きいのです。
 ヒーリング・タッチにより手首に起こった覚醒は連鎖反応を生じ、前腕から肘、上腕から肩、さらに首を通って頭や全身へと拡がっていきます。その変化が、傍から見ていてもはっきりわかります。まるで、しぼんでいたゴム人形に空気が満ちていくかのようです。手首の角度が無意識になっている時には、身体の中のエネルギーがとどこおって淀んだように流れなくなっています。それが、手首の正しい角度が手首そのもので意識されたとたん、命が吹きこまれて内的動きが生じてきます。こわばりが解体されて、身体のあらゆる部分がガクガク音を立てるように本来の位置へと収まっていきます。
 この手首の角度については、頭で考えて、あるいは眼で見て「こういうものだろう」とわかったつもりになっても、あまり意味はありません。ヒーリング・タッチによる触れあいのみが、それを真に理会する道です。
 こうして手首が開き、前腕と手が内的に通じあった状態であらためて音を聴いてみると、以前は壁1枚隔てて聴いていたように感じられるほど、はっきりとクリアーに聴こえはじめます。手首の角度の仮想は、聴くことに限らず、人間のあらゆる行為に影響を与え、私たちの可能性を知らず知らずのうちに阻害し歪めています。それを一言で表現するなら、「囚われ」という言葉がもっとも適切と感じます。
 人を拘束するために手首をつかみ、縛り、あるいは手錠をはめたりするのはなぜかといえば、手首の動きを制限されると人間は自由に動くことができなくなるからです。手首を硬く固定しながら体をあれこれ動かしてみれば、簡単に確認できます。つまり手首の仮想とは、私たちを囚われの身にする不可視の手錠なのです。

 手首を拘束していた見えない手錠(仮想)が解除されると、音楽演奏においても大きな変化が実感できます。
 今回のセレブレーション中、私はマリンバ(木琴)やヴィブラフォン(鉄琴)、オルガンなどを演奏しました。たとえばマリンバを演奏しながら手首の正しい角度を意識するだけで、突如としてマレット(バチ)と手、手首と腕、全身がひとつの大きな流れとなり、全身丸ごとで演奏している状態となるから不思議です。マリンバはやさしく私を抱いて包みこんでくれるかのようで、「楽器と一体となる感覚」とはこのことではないかと感じます。そして舞を舞っているように流れに身を任せると、「演奏」が自然に起こります。このように演奏すると、一音一音に生命がこもり、自分の発する音が自分自身に共鳴し、音によって体の中が清められ、洗われるのが生理的に感じられます。そして会場全体に音が響き、それが自分に反響して、音を通して参加者と一体となっていく感覚を味わうことができるのです。
 それにくらべて、手首を真っ直ぐと思いこんで何の疑念も抱かなかった昔の演奏は、何と無味乾燥で機械的なものだったかとしみじみ思います。
 オルガンの演奏も、手首から手が真っ直ぐ生えていると仮想していると、5本の指が1本の直線の上に並んでいるように平面的な動きしかできません。ところが手首の仮想を正すと、各指がそれぞれ伸びたり曲がったりしながら、立体的な扇が開閉するように思いもかけない方向へと動きます。その時には、手も指も含めて全身すべてが非常に自由で楽です。難しくて弾きづらいパッセージも、余裕を持ちながら弾けるようになります。鍵盤楽器を演奏する人に限らず、これは途轍もなく重要な教えではないかと私は思います。手首が正しく意識されれば、腱鞘炎などで体を痛めつけることもなくなるはずです。

 CD『アルテミス』の2曲目、「バイヨン」の生演奏では、夫によるディジュリドゥーの演奏もクロスオーバーされました。ディジュリドゥーは、オーストラリア先住民アボリジナルが神聖な儀式のために1000年以上前から使用してきた人類最古の管楽器といわれています。基本はただひとつの音であるにもかかわらず、途切れることのない循環呼吸奏法(息を吐いて音を出しながら同時に息を吸う)や、唇や舌、頬、咽喉、腹の内側の筋肉の微妙な使い方、身体各部との共鳴、息の量、循環の速度などを変えることで、驚くほど多彩な音色が奏でられます。大自然の息吹ともいえるような深い低音と、細やかでメロディアスな倍音とが織物のように複雑に組みあわさり、原初の野性的なヴァイブレーションが紡ぎ出される、シンプルでありながらとても奥深い楽器です。
 夫はこのセレブレーション当日まで、前回一体いつ演奏したか忘れてしまうほどの長い期間、ディジュリドゥーにまったくタッチしていませんでした。「大丈夫だろうか?」とこちらが心配になってしまうほどでしたが、当人は「私は音楽家ではない」と平然たるものです。ところがいざ本番となると、ディジュリドゥーはこれまでで最高の出来栄えと思えるほど繊細かつダイナミックな音で鳴り響き、天行院の空間を振るわせたのです。
 練修を一切していないのに、楽器演奏が熟達するのはなぜなのか、まったく不思議としかいいようがないのですが、事実だから仕方ありません。器としての人間の心身を磨き上げていくことですべての行為が熟達してしまう、そんな夢のような現実が、夫と一緒に暮していると日常茶飯事のように展開されていきます。夫によれば、これもすべてヒーリング・アーツの実践による賜物(たまもの)なのだといいます。夫のディジュリドゥーや、その他楽器演奏に関わる神秘については、今後機会があれば詳しく書いてみたいと思っています。

<2008.09.24>