「楽器の王(King of Instruments)」といわれるパイプオルガン。キリスト教会では「楽器の女王」と呼ばれることもあります。
私とオルガンとの出会いはちょっとした偶然でした。
数年前、夫と一緒に広島市内を歩いていて、ある楽器店の前を通りかかったのですが、折しもそこでオルガンのデモ・コンサートが開かれていたのです。
私はパイプオルガンというものを、それまで観たことも、音を聴いたこともありませんでした。そのオルガンには、縦に3段並んだ鍵盤と、その横にズラリといくつも連なっているボタンがありました。そのボタンはところどころ明かりが点灯しており、まるで蝋燭の火のごとく神秘的に光っていました。演奏者の足下には足で踏む鍵盤が左右に拡がっています。
奏者が1番上の鍵盤を弾くと、キラキラ転がるような可愛らしい音が響きます。次の楽想に入って2段目の鍵盤に奏者の手が移ると、突然荘厳な大音響。足鍵盤からは、思いもかけぬ重低音が轟きました。何とバラエティーに富んだ音が、たった1台の楽器から出てくるのだろう! 私はオルガンから紡ぎ出される音色に釘付けになってしまいました。
その後すぐに申しこんだ体験レッスンで実際にオルガンと触れあい、自分の指で音を出してみたとたん、私は完全にオルガンの虜になってしまったのです。その音色を聴いているだけで、とても幸せな気分に満たされました。
私と同期でオルガンを学んだレッスン生たちも、皆オルガンに夢中でした。オルガンには、そういう抗いがたい魅力があるのです。
「このオルガンに<念>をかけて引き寄せよう」と夫はいいました。嘘みたいな本当の話ですが、楽器店で私が恋に落ちたのとまったく同じモデルのオルガンが、間もなくわが家にやってきたのです(現在は、プライベート道場である天行院に据え置かれています)。
パイプオルガンというのは、大小さまざまな規模があり、私が使っているのは3段鍵盤で、音色(ストップ)は57個あります。つまり、1台のオルガンの中に、57種類の楽器が入っているようなものです。その音色ひとつひとつが、非常に特徴的で個性があります。単音(ひとつの音色)でも美しいですが、ストップを重ねていくと、自分だけのオリジナルな音を創れます。その音創りがまた面白い。同じ楽曲を演奏するのでも、選択するストップを変えると、全然違う雰囲気の曲になってしまうのです。
鍵盤の左右にズラリと並んでいるボタンが、ストップです。ドローノブ式になっているストップを引っ張ると明かりが点灯し、鍵盤を押すと割り当てられている音色が発音します。ストップを押すと明かりが消え、鍵盤を押しても音が鳴らなくなります。ストップの数やデザインは個々のオルガンによって異なり、音色とあわせてデザイン的な面からオルガンを比べるのも、マニアにとっては楽しみのひとつです。また同じ名前がついているストップでも、個々のオルガンによってかなり異質な音色が出ます。
ストップの組みあわせによって曲の印象がどのように変わるものか、その実例をいくつかご紹介しましょう。まずは、私の最新CD『たまふりオルガン』(3月20日リリース)の6曲目に収録した、「主よ、人の望みの喜びよ」を2種類の異なる音色で演奏してみます。
ちなみに、この曲の題名には違和感を感じる人が多いことと思います。それもそのはず、原語であるドイツ語の正式な題名は、「Herz und Mund und Tat und Leben(心と口とおこないと生きざまもて)」といいます。英語の誤訳「Jesu, Joy of Man's Desiring」が日本語に直訳されて、このような妙な題名が定着してしまったらしいです。英語の題名はブリッジスという英国詩人の訳がもとになっているといいます。詩人の豊かな想像力で、こうした訳がなされたという説もあります。
演奏1では、フルート系のストップ2本というシンプルな音色を選びました。フルート系のストップは、柔らかくやさしい音がします。
演奏1:
演奏2は、演奏1と同じ2本のストップですが、別種のストップを使うと印象がこのように変化します。
演奏2:
演奏3は「小フーガト短調」で、ストップの数は3個です。私がとくに気に入っている、プリンツィパルという音色が入っています。プリンツィパルは、オルガンの中でももっとも重要な音色とされており、人の声に近い響きがあるといわれます。
演奏3:
演奏4は3とストップ数は同じですが、種類をすべて入れ替えたため、毛色ががらりと変わりました。玄人好みのマニアックな音です。
演奏4:
ここでご紹介した以外に、幾通りものストップの組みあわせが考えられ、どういうコンビネーションを選ぶかは演奏者の好みとセンスに委ねられています。
ここでは一般の方にもわかりやすいように、できるだけ音色が異なるストップを比較対象として選びましたが、普通の人が聴いたらほとんど違いがわからないような、ごく微妙で繊細な音色の違いに、オルガン奏者は非常にこだわるのです。オルガン・マニア同士が音色やストップについて話しはじめると、つい時間が経つのを忘れてしまいます。
1曲の中で何度もストップの組みあわせを変え、つぎつぎと音色を変化させていくこともよくあります。『たまふりオルガン』の1曲目、「トッカータとフーガ ニ短調」はその好例です。約13分の曲の中で、6回以上ストップ・コンビネーションを変えています。
それにしてもオルガンはむずかしい。
あらゆる楽器の中で、これほど難解な楽器も珍しいのではないでしょうか。レッスンを受けはじめたころ、ピアノであれば初見でスラスラ弾けるレベルの簡単な楽譜を演奏するのに、大変苦労したことを思い出します。
曲の冒頭2小節を演奏するだけでも、50分かかってようやく、やっとの思いで、弾けるか弾けないかというレベルに、文字通り「汗だく」になって達しました。レッスンが終了するころには、疲労困憊して体中あちこちが筋肉痛になっていたほどです。
このむずかしさは、手と足で、それぞれ別のメロディーラインを演奏することによるものです。右手・左手の指10本、右足・左足のつま先と踵を、それぞれ別個に独立して動かせるようになるためには、かなりの訓練を要します。
それだけでなく、1曲の中で音色を変える際には、ストップ、あるいはストップを記憶させておくメモリー・ボタンを、演奏しながらタイミングを計って、素早く手や足で押さなければなりません。
ヨーロッパの著名なプロの演奏家が、学生時代には1日8時間以上(オルガン演奏を)勉強したという話もあります。それを聞いて私は深く納得できました。オルガンの練修をはじめると、1時間などはあっという間に過ぎ去ってしまいます。まだ10分くらいしか経っていないと思ったら、すでに1時間近く経過していることもよくあります。それほど、演奏自体にエネルギーが必要です。1曲を完成させるのに費やすエネルギーの量は莫大になります。しかしオルガン好きにとっては、何時間練修しても、まったく飽きることがないのも事実です。
レッスンを開始した時点では、バッハのオルガン曲を弾けるようになることは、はるか彼方の遠い目標でした。ところが、驚くほど短期間のうちに、その目標が射程圏内に入ってきたのです。
私がどんどん熟達していくので、オルガン講師や同期のレッスン生からとても驚かれ、「何か秘密でもあるの?」としばしば聴かれました。言うまでもなく、「秘密」はヒーリング・アーツです。
オルガンの練修に取りかかる前に、ヒーリング・アーツで全身をよくほどいておくことを心がけました。遠回りのようですが、これをよくやった時とそうでない時とでは、修得や熟達の度合いが大きく違ってきます。そして、練修や演奏そのものにも、ヒーリング・アーツをさまざまなやり方で応用していきました。
全身の余分な力みが抜けて演奏が滑らかになれば、手と足が変な具合に絡まって呂律(ろれつ)が回らなかったのが、突然正確に弾けるようになったりします。それ以前にはなぜできなかったのかと思えるくらい、垂直次元(質的レベル)での変化が起こるのです。最初手も足も出なかった難解な音符も、いつの間にか弾きこなせるようになっていました。
心身の調律ポイント(労宮、丹田、命門などのツボ)をヒーリング・タッチで活性化させることで、姿勢が整い、長時間演奏しても全然疲労しなくなりました。初期のころ、筋肉痛や脚のむくみで悩まされていたのが嘘のようです。
また、オルガン練修をたんなる技術の習得でなく、ヒーリング・アーツの実践と同じように「祈り」の行為として位置づけることで、通常では考えられないような熟達が頻繁に起こりました。
オルガンに向かいあってかしわ手を打ち、神々への奉納として、1音1音に祈りと感謝をこめながら演奏します。元来オルガンはキリスト教会でさまざまな儀式のために使われ、祈りを具現化する音として結晶化したような楽器です。キリスト教徒でなくとも、<敬虔>という言葉がぴったりあてはまるオルガンの音を浴びていると、おのずから祈りの感覚が湧き上がってきます。
過去の私は、「祈り」以前に、音楽に対する「敬い」が決定的に欠如していました。自分の楽しみのため、技術の向上のためだけに演奏していたころは、どんなに時間をかけて練修してもある一定以上のレベルを超えることができなかったのです。いつも壁に突き当たり、限界を突破できず苦しんでいました。
「自分が」演奏するというエゴを解き放って空っぽの器となり、音楽がみずからあらわれ出ることをゆるせば、限界などまったく感じることなく、たまふりに満たされて心底楽しみながら演奏できます。
かつての私の演奏は「苦」の波動で充満していましたが、今は音楽を味わう余裕ができてきました。演奏することで心身が躍動し、自然に音とのヒーリング共鳴が起こる。音によっていやされることを、心と体で感じられるのです。
<2009.03.20>