編集:高木一行
以前述べた、暗闇の中で自分の「手の動き」を観る稽古に習熟すると、「ヒーリング・タッチを内的に観る」こともできるようになって面白いのだが。
目を閉じて観えるのは、体性感覚が視覚として認知されているわけだが、となればタッチ感覚も、そのつもりで観ようと思えば観えるのだ。
タッチ感覚のみならず、凝集感覚もオフ感覚も、観えるようになる。
その観えた状態を言語化したものが、「粒子の凝集と拡散」だ。
長期断食による感覚の超鮮明化に伴い、オンとオフの体性感覚そのものを、私は粒子の凝集・拡散として観た。粒子とか凝集とか拡散というのは、単なるイメージとか喩え、シンボルなどではない。
以前、暗闇の中で自分の「手の動き」を観ることを試した時は、手の動きに合わせて青白い光の流れのようなものが観えました。
それ以上の進展がなかったので、その後放念しておりましたが、改めて暗闇でヒーリング・タッチを執り行なってみました。
すると、青白い光が膨らんだり縮んだりするのが、おぼろげながら観える時がありました。
今後も修して深めて行きたいと思います。
ヒーリング・タッチが観えるだなんて、よく考えてみると、結構凄い境地だと思うのだが。
しっかり練修するといい。ヒーリング・タッチそのものも深まる。
暗闇の中で自分の「手の動き」を観る稽古を執り行なった時、目の前でどのように動かしても動きそのものを捉えることができませんでした。
しかし、暗闇を観ているはずなのに、光の粒子のようなものが視界に広がって観え、暗さよりも明るさを感じたことは大変不思議でした。
これと関連して思い起こされるのは、先生のヒーリング・タッチを初めて本格的に体験させていただいた時のことです。
最初に手合わせをさせていただき、先生が手を凝集し、レット・オフされると、私の身体の中から粒子状のものがふわっと舞い上がるのを感じただけでなく、それが内的なビジュアルとして観えてしまいました。
次に先生から、氷のように固まるのではなく、水面を波立たせないような状態で静かに受けるようにと言われ、再度、先生のヒーリング・タッチを受けました。
1回目の時は粒子が外へと拡がることを感じましたが、2回目の時は砂時計の砂が落ちるように、自分の中心へと粒子が落ちていくように感じ、これも内的なビジュアルとして観ることができました。
体験会に参加する1~2週間ほど前に先生から、毎日15分ほど手振り、身振りをして準備すると良いというアドバイスをいただきました。
そのアドバイスを守り、毎日手振り、身振りを励行したことで、先生のヒーリング・タッチを驚くほど感じ取ることができたのではないかと思っています。
わからぬ、観えぬ、と言い張る割には、渡邊君は「ビジュアルで観えてしまった」などとあっけらかんと発言しているが、「それ」のことを私は言っているのだが。
もう一度暗闇で観ることを試してみるといい。
何か、予測したような形が観えるわけではなく、例えば渡邊君が明るさを感じた、それならばそのふわっとした大まかな拡がりのところに手をかざし、指を(ランダムなリズムで)ひらひらやりながら観察してみるのだ。
明るさは一定だろうか? 何か、もやもや動きが起こっているのではなかろうか? そして、あれこれやりながら指の動き、タイミングと同時に観えるものを意識していると、観えている動きと指の動きとがシンクロしていることに気づくだろう。
すると、さらに観えるようになってきて、指らしきもの(実物の指とぴたり大きさが同じものではない。もっと拡がりがあって、最初は形も定かでない)が観えてくる。
やればやるほど、だんだん明瞭になっていって、掌を返すとその動きがハッキリ観えたりする。
ここまでいくと、手を背中に回してもやはり観えるから、奇妙・不思議、ということになってくる。
触覚(体性感覚)と切り離して、ただ「観」ようとばかりしてはダメだ。
感じることを観る(あるいは観ようとする)のだ。感じることと、観ることを、同時に意識する。
すると、本当に、「観える」ようになってくる。
これは、心眼を煉る稽古法だ。
それから、渡邊君が伝授の場に参加する前の準備について述べていたが、非常に重要なことであり、他の人も参考にしてほしい。
準備のやり方は、いろいろある。例えば、ろうそくの炎を数分からはじめて5分、10分、30分、じっとまばたきせずに見つめる練修は、観の目を開き、深めるため非常に役立つ。
ろうそくの炎を見つめる練修は、昨年にひと月ほど継続して行なっておりましたので、ご報告させていただきます。
最初は10~15分程度から開始して、最終的には30分まで伸ばして行ないました。
なるべく瞬きせずに見つめ続けると、最初はまぶたの痙攣が起きたり、目から涙がどんどん流れ続けるという状態になりました。目の浄化過程ということですが、終えた後は確かに目がスッキリします。
これを過ぎると、目に映る光景が眼球の内部に引き込まれてくるかのような感覚が起こり、それが頭部の内側に拡がり、さらに胸郭の中まで降りて入ってくるような感覚まで進みました。
外界と内界が繋がってくると同時に、視線などの動きに同調して身体内部にも流れが生じるのを感じられるようになってきます(この感覚は現在もあります)。
先生のアドバイスを受け、再度、暗闇で自分の手を観る稽古にトライしました。
最初は目の前で手を動かしても何も分からなかったのですが、光のようなモヤッとしたものをじっと注意深く観ていると、指を動かした時に、何か揺らめきのようなものが観えました。
あれっと思い、手の動きに沿った揺らめきを観察していると、ボヤッとした指のようなものが観えました。これのことなのだろうかと思いながら、さらに観続けていると、おぼろげながら手の形が観え始めました。
先生がおっしゃるように、実際の手よりも大きく観え、ぼやけて判然としない部分もありました。
色々と手を動かしながら、暗闇の中の揺らめきを観ていた時、とても不思議な感覚が起こりました。指の丸みそのものを感じ、観ていることに気づいたのです。
光の中で観る手指にも丸みはありますが、それよりも立体的で、光の中では観えない陰の部分も含めた、手指の輪郭全部が観えたように感じました。
その時、今、目の前にある手を私は目を通して観ているのだろうかという疑問が湧き起こりました。
もしかしたらこれが、先生がおっしゃられるように、感じることを観るということなのだろうかと思いました。
誤解なきよう改めて書いておくが、目を閉じた状態で、「目でみろ」などと無理なことを求めているわけじゃない。
目を通さずにみる、あるいは触覚が脳内で再構成され視覚として体験される、そういう状態について述べているのだ。
さて、対話篇第1弾の幕を、このあたりで引くとしようか。
改めて振り返ると、初心者には少し難しすぎる内容となってしまったが、ヒーリング・アーツ、龍宮道では基本が確かに奥義に通じているのだということが伝われば、それで充分だろう。
初めての企画だったわけだが、なかなか面白かったよ。
ありがとうございました。
<『対話篇1』 完>
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