Healing Discourse

対話篇1 第七回 対極のダンス

編集:高木一行

【渡邊】

 これまで何度も先生と手合わせをさせていただき、触れ合わせていただきましたが、自分が感じるレット・オフというものは、流れとか微振動のような感覚であり、波紋とか波打つという感覚ではあまり捉えることができていませんでした。
 そのため、先生がおっしゃられるレット・オフ波紋とは一体どういう感覚なのか、それを知りたい、理会したいという思いで学んできた部分があります。

 そのような中、レット・オフが波打つ感覚をはっきり理会することができたのは、出所後初めて開かれた大阪での伝授会で、先生と触れ合わせていただいた時でした。
 先生から龍宮道のわざをかけられると、身体の裡で激しい水流が巻き起こり、体内が激しく波打つ感覚がありました。自分の中に初めて海を感じた、と言うことができるかも知れません。

 今回、観の目のバージョンアップ法を練修していると、レット・オフによる揺らめきを波紋として認識し、感じることができました。 
『鳩間島巡礼:2020』のタイマイ(ウミガメ)のお写真を観ながら稽古したのですが、視線の凝集、拡散を何度も繰り返していると、帰神フォトの隅々までクリアに観え始め、立体感と奥行きが増し、本当に目の前でタイマイが泳いでいるようでした。
 また、タイマイやサンゴからこちら側に訴えかけてくるような感覚も感じてしまいます。

【道上】

 オンをレット・オフしてオフに→オフをレット・オフしてオンに、という流れについては他のことでもご教示いただいていたはずですが、観の目については見の目をレット・オフして観の目に、という方向性だけを強く意識し気味で、観の目がレット・オフされると見の目になるという逆の方向性については、おろそかになっていました。
 静止画を前に実行してみると、観の目と見の目の間で波紋が往還し、自分の存在が波間に揺らめき続ける感覚が生じてきました。

 その後、出勤して仕事の合間合間に、作業に集中して自然と凝視していることが強く感じられる時に、レット・オフで観の目になり、それをレット・オフしてまた見の目に、と繰り返す修法を挟んでいくと、日常の中での静と動の間を波としてゆらめき、この世界の時間と空間の流れの中に自分がまたひとつの波として存在しているような、不思議な感覚が生まれてきています。
 修練を続け、よりいっそう深めていきたいと思います。

【佐々木】

 観の目のバージョンアップ法を執り行なわせていただきました。
 他の方々同様、これまで帰神スライドショーを観照しつつ、見の目を強調→レット・オフすることは行なっていましたが、その逆の見の目への移行は粒子的でない、せわしないものでした。
 レット・オフの波に乗るように観え方をシフトしていきますと、一つのお写真が宇宙的拡がりをもち、それそのものと一体となって呼吸しているような神秘的な感覚に包まれました。
 心身が洗われ、短時間で濁った水が透明になったようなヒーリング感覚があります。
 マナを伝授いただき、ありがとうございます。

【東前】

 先生のご指摘通り、レット・オフが波打つ感覚をとらえきれていなかったことに気づきました。先生にわざをおかけいただいた際にはそれを感じていたと思うのですが、自分でいざ修する際には凝集をレット・オフして拡散するという、拡散の方向性にばかり囚われていたのだと気づきました。

 自分の状態を観察しますと、握ったものを手放す感覚(凝集→レット・オフ)はわかりやすいのですが、手放したものを再び握りしめるという感覚がややわかりにくく、レット・オフで凝集していく際に、作為的なオンで凝集しているように感じてうまくできない感じがつきまとっていました。
 自分で入れた力のスイッチをオフにすることはできても、レット・オフで自らの意志を放下したところで起こってくる拡散のスイッチをオフにできるのか? などの考えがあったからではないかと思います。

 このたびのマナを執り行なってみて、拡散の際に、中心への意識(観の目の場合は視点を固定することだと思います)を忘れて、拡散していく波の周辺に偏って意識が動いてしまっていたために、レット・オフで凝集していく際に中心を見失っていたのではないか?! と感じました。
 このようなマナやご指摘がなければ、中途半端なままで諦めていたのではないかと思います。
 新たに取り組む足がかりをいただいたようでもあり、またわかったつもり、できたつもりになって我流に陥り、進歩が止まることの恐ろしさを教えていただいたようにも思います。

 最近、ヒーリング・ネットワーク1のヒーリング・ディスコースを改めて通読しております。
 通読は3回以上になりますが、先生の出所後に新しい内容の加筆が所々に織り込まれており、こんなに深い内容が無償で公開されているのは他に例を見ないのではないかとつくづく感じます。
 読み返すたびに毎回新鮮な驚きがあり、古さや慣れを全く感じないのは不思議なほどです。直接のご伝授を受け、また日々マナを修していく中で読み返すと、同じ箇所から全く新しい宝を発見するような多層的構造を実感いたします。
 この度『ヒーリング随感』第12回のマナを修していて、どうしても実感が湧かないところがあり、レット・オフや観の目の本質と関わることと感じられるのでご質問させてください。

「右の感覚」と「左の感覚」は、全く違う正反対のものである、とのご指摘があります。「オンとオフが、正反転の鏡像関係に置かれるようにすること。力の向きだけでなく質も」、という記述もありますので、左右の感覚にも質的な違いがあるのかと思うのですが、方向感覚の違いは理会できますが、質に関しては実感することができずにいます。
 この点に関してヒントなどいただけましたら幸いです。

【高木】

 右と左の質の違いがわからないとしたら、右と左を互いに相照させていないのだ。右、といえば、右と私たちが呼んでいる方向を頭が意識し、左といえば、右へ出ていた意識をいったん頭へ戻し、そこから改めて左方へ注意を注ぐ、そういうやり方をしているのではないか? 
 それでは、質の違いは感じられない。ということは、同質なのだ。右と左とを正確に対極に置いてないから、そうなる。
 が、この東前君の質問はとても重要だ。
 意識の本質と関わる、呪術的意識の操作法(の入門修法)について尋ねているからだ。

 右と左を、対極に対置するためには・・・? 
 まず右へと感じておき(腕・手で練修するとよい)、それにリンクしながら掌芯を凝集→レット・オフするなどして、右がそれ自身の裡より自ずから左を産み出すに任せる。左が満ちてそちらに主体が移ったなら、またそれを凝集→レット・オフにより反転させ、左の裡より右を招く。
 つまり、こういうことだ。両腕の中の流れを感じながら聴いてほしいが、私が言おうとしているのは、右から左へ流れてゆき、それが終点で反対向きになり今度は左から右へ流れる、そういうスイングを繰り返す、という意味じゃない。
 確かに流れが変わるのだが、それは流れの始まりと終わりが入れ替わることによってではなく、始まりから終わりへと至る、その流れの1点1点において、「同時に」反対方向への転換が起こるのだ。
 右の流れがふわーっと粒子的に消えてゆきながら、それ自身の裡にまったく正反対のものである左への流れを、粒子的にはらみ・育て、やがて自らは完全に消えてしまって左にすべてを明け渡す。
 気楽にこうして書いているけれども、改めて考えてみれば、右とか左といった「方向感覚」ですら、粒子状に分解して波紋として操作できるというのは、これに熟達したら一体どんなことが(人類や地球全体に対し)できるようになってしまうのだろうと余計な詮索をしたくなるくらい、凄いことなのではあるまいか?
 正反対のものへと「まろばす」、この未知なる原理を使って動くことは、身体のどこかからどこかへ、という順次的な感じ方・伝わり方をしないため、武術的に観ても極めて有効な身体の使い方といえる。
 速いのでもなければ遅いのでもない、それが龍宮道の動きの特色だ。

 このようにして、身体をベースにしながら自らの意識と、「血まみれの真剣・誠実な遊び」を遊んでいるうち、「質」の違いが自然に感じられるようになってくるだろう。
「並置」した時とは違って、方向性そのものに「質」と呼ぶしかない独自の属性が感じられるはずだ。
 この質は方向性と不可分なので、当然ながら正反対の対極関係をなす。

【道上】

 レット・オフによる左右の切り替えでは、右からだんだん左に意識が流れて移ってくるという感覚ではなく、右をレット・オフし続けていたら「右」という意識がどんどん弱くなり、ある地点で急に「右」がなくなると同時に、突如「左」の意識が生じるという感覚に、不思議さを覚えます。

 ネッカーキューブを観る時も、立方体の奥と手前の面が入れ替わる、その際(きわ)のゼロの部分がなく、ポンと入れ替わるように転換が起きているように感じます。

 鳩間島巡礼の記事内に掲載されている静止画の帰神フォトで確認したのですが、左右のエクササイズを行なってから観ると、立体性が以前よりも増しているのが感じられます。目に写ってくる画像に奥と手前があり、その間の空間が波打ちゆらめくような観え方をしています。

<2021.04.15 虹始見(にじはじめてあらわる)>