高木一行:編
引き続き、原文に分け入ってみます。
原「雖變化萬端,而理唯(惟)(為)一貫。」
ウ「変化万端といえども理は一貫と為す。」
「雖」は「いえども」、「〇〇であるけれども」という意味です。
「萬端」は「準備万端」とか「万事万端」などと言うくらいで、「ありとあらゆる」という意味になります。現代中国語でも「変化万端」は使います。「変化極まりない」と訳せるでしょうか。
「而」は、冒頭部分に「太極者無極而生」とあったのと同じく、接続詞で前の句を次の句に繋ぐ役割を果たしています。
「唯」は日本語とほとんど同じで、「ただ」「〇〇のみ」という意味です。テキストによっては「惟」となっているものもありましたが、この文章では「唯」と同じ意味で使われます。
「一貫」も、日本語同様、「一貫している」という意味です。
以上を踏まえると読み下し文は、
「変化万端と雖(いえど)も、而して理は唯、一貫す。」となりました。
ウィキペディア版読み下しではなぜか原文の「唯」が無く、原文に無い「為す」が加えられていますが、中国語版ページでは「為が使われている版もある」と注にあり、その場合は「一貫と為す」と読めます。
ちなみに、「唯」「惟」「為」は中国語ではどれも「ウェイ」と読むので、書き写されているうちに間違いが生じた可能性がありそうです。
原「由著(着)熟而漸悟懂勁,由懂勁而階及神明。」
ウ「着(技)、熟するによりて、漸く勁をさとる。 勁をさとることによりて(理)階は神明に及ぶ。」
この文はテキストによって「著」だったり「着」だったりします。どちらも、動作の継続を示す補助的な言葉です。中国語で「由着」「由著」と言うと「〇〇するままに」「〇〇するにつれて」といった意味になります。
この由着や由著は、『論語』や『老子』など、私たちが学生時代に習った漢文の教科書には無い使い方なので、ウィキペディア版では無理のある読み方になっています。そのため、「着」は「技」のことだと解釈してしまったようです。
「漸」は「次第に」「段々と」という意味です。
「懂」「悟懂」は「理解する」で、「階」は「階段」とか「梯子」とかいった意味になり、修行の道のりを指すのでしょう。ウィキペディア版では「理解」ということになっていますが。
「神明」は、「神のように明晰である」という意味です。
以上を踏まえて読み下すと、「熟するにつれて漸(ようや)く勁を悟懂(ごとう)し、懂(とう)するに由りて階(きざはし)は神明に及ぶ。」となります。
この箇所は読み下しに苦労しました。漢文の教科書では出てこない文法や語彙が使われているからです。
「懂」も、現代中国語では「理解する」「わかる」という意味で頻繁に使う言葉ですが、日本語では日常生活で使うことはなさそうな字で、意味も全く異なり、「みだれる」と読みます。
王宗岳は清朝乾隆年間の人といいますから、18世紀後半ということになりますので、文章も現代中国語に近づいていて、「擬古文」というべきかもしれません。
原「然非用力之久(『用功』/『功力』之久),不能豁然貫通焉。」
ウ「然るも力を用いることの久しきに非ざれば、 豁然として貫通する能わず。
ウィキペディアでは「力を用いる」としていますが、中国語で「努力する」という意味です。
テキストによっては「用功」「功力」となっていますが、それぞれ、「努力」「修練」という意味です。
「豁然」は、日本語でも文語文で使われることがありますが「突然開けること」で、貫通も日本語と同じで「貫き通す」という意味です。
「焉」は文を断定して締めくくる語気助詞で、漢文の読み下し文では省略することがほとんどですが、動詞に続く場合は「之」や「是」と同じように「これ」という意味になる場合もあります。
「然るに用力これ久しくあらざるや、豁然として焉(これ)を貫通すること能わず。」
わかりやすく言えば、「それなのに努力(修練)しないままでいたら、神明の境地まで突き抜けることなどあり得ない。」ということになるでしょうか。
今回は、ここまでにしたいと思います。
前回の続きです。
原「虛領頂勁,氣沉丹田。」
ウ「頂の勁を虚領にして、気は丹田に沈む。」
領は「首」「うなじ」という意味です。頂は頭のてっぺんです。「勁」は中国語では頻出単語で、「力」とか「強い」という意味で使うことが多いのですが、「気概」「態度」「意気込み」という意味になることもあります。つまり、首を力ませないようにして、なおかつ、頭をグラグラさせずに安定させろということでしょう。
そして、「気は丹田に沈める」となります。
以上を踏まえて、読み下しは、「領(うなじ)を虚しゅうして頂(いただき)を勁(つよ)め、氣を丹田に沈む。」としました。
原「不偏不倚,忽隱忽現。」
ウ「偏せず倚よらず、忽ち隠れ忽ち現る。」
「不偏不倚」は、これも四字熟語として中日辞典に「片寄らない」とありました。
「忽隱忽現」は、「隠れたり現われたり」となります。
この文の読み下しは、「偏倚(かたよ)らず、忽(たちま)ち隠れ、忽ち現わる」としました。
原「左重則左虛,右重則右杳。」
ウ「左重ければ則ち左は虚ろ、右重ければ則ち右はくらし。」
ここでは「虚」と「杳(よう)」が対になっています。
杳は「暗い」「ぼんやりしている」という意味です。
「左重ければ則ち左が虚、右重ければ則ち右が杳。」と読み下してみました。
「左に傾いていたら左にスキが生じ、右に傾いたら右が無防備になってしまう」ということなのでしょうか?
原「仰之則彌高,俯之則彌深。」
ウ「仰ぎては則ちいよいよ高く、俯しては則ちいよいよ深し。」
「彌」は「ますます」「いよいよ」という意味です。「之」は「仰」「俯」を強調しています。
読み下しは「仰ぎてはこれ則ちいよいよ高く、俯(うつむ)きてはこれいよいよ深し。」としました。
原「進之則愈長,退之則愈促。」
ウ「進みては則ちいよいよ長く、退きては則ちいよいよ促す。」
この「促」ですが、ウィキペディアでは「うながす」としています。
ただし、ここまでの文で「上を向いたら高い、下を向いたら深い。進んだら長い」と言っているわけですから、「引き返しているのに追われている」と解釈するのが自然ではないでしょうか。
そう考えると、「促す」というより「接近している」「迫られている」という意味になりそうです。実際、中国語で「促膝談心(膝を近づけて心から談ず=膝を交えて話す)」などと言います。
読み下し文は、「進みてはこれ則ちいよいよ長く、退きてはこれ則ちいよいよ促(せま)る。」としました。
このあたり、老子の文章に似ているように思えます。
「明道は昧(くら)きが如し、進道は退くが如し(『老子』第40章)」とありますから。
『太極拳論』の中国語版サイトでよく言われていたのが「『太極拳』論は老子の影響が強い」というものでした。
実際、こうして読み込んでみると老子から受け継がれているものがあるように感じました。
老子ともなると文体が古すぎて、よほど教養を積んだ人でないと中国人でもなかなか読みこなせないと思いますが、王宗岳は読みこなした人なのではないでしょうか。
今回は、ここまでに致します。
「左重則左虛,右重則右杳。仰之則彌高,俯之則彌深」という部分が、どうもよくわからない。主語が曖昧だからだろう。特に、「仰げばますます高く、うつむけばいよいよ深く」とは、武術的攻防におけるどういう状態を指しているのか。
が、今はわからないものはわからないまま置いておき、全体像を明らかにする作業を優先させることとしよう。
<2022.03.29 草木萠動(そうもくめばえいずる)>