ボートであちこち連れていってもらうことは楽しいけれども、他のツアー客がいたりすると、せっかくスパイラル・ムーヴメントの達人たるウミヘビが現われ夢中になって帰神撮影している真っ最中に、「次へ行きますよお!」とボート上から声をかけられる、などを耐え忍ばねばならぬこともままある。
 ボートを借り切ったなら借り切ったで今度は、この機会を最大限に生かさねば、と撮影対象をあちこち探して精力的に泳ぎ回り続け、のんびりゆったりくつろいとまなど全然なかったりする。

 撮ることを含め、何もかも忘れて海に我が全存在を委ね切り、波紋を心身の奥深くまで受け容れ、海と戯れ、海と遊び、海から学ぶ、そういう時間を持つためには、やはりビーチからエントリーし、遠浅の海中でじっくり楽しむに限る。
 撮影のことは忘れるといっても、あれこれ被写体をアクティヴに探し回ったりしない、という意味であって、ちゃんとカメラをストラップで手首のところにとめてある(呵々大笑)。何か面白いものが「あちらから」目に飛び込んできたなら、すかさず帰神撮影だ。

キリンミノ
キリンミノ(ミノカサゴの仲間)。
背びれに毒棘がある。クリックすると拡大。

 帰神撮影においては、「撮影されるもの(対象)は即、撮影者」だ。自分が何かを撮る、のではなく、撮られるものと撮る者とは対等、否、一つだ。
 ただし、これらの撮るもの・撮られるもの、は、並べて置いて1+1=2と数えるような並置関係にはなく、あたかも互いに鏡に映し合っているかのような相照関係にある。どちらが実体でどちらが鏡像であるともいえない、対等性(1×1=1)。
 食う者は食われる者であり、私は世界であり、世界は私だ。
 海は私であり、私は海だ。
 頭で考えてそのように思うのではなく、誰かにそうだと言われたから無理やり信じ込もうとするわけでもなく、ただそれがあるがままのの真実であると「わかり」、「感じられ」、「意識され」る状態・・・。この<瞑想>が、水中に限らず帰神撮影の基礎となる。瞑想は、龍宮道の大切な要素だ。
 そして瞑想は、エコロジーの基本でもある。よごし、けがし、乱雑にし、壊す、外部の対象であった世界が、くるりと反転して自分自身の裡にあると感じられるようになれば、あるいは自分は世界の分かち難い一部なのだと神経的に感じられるのであれば、それ(世界=自分)を好んで悪くしようと誰がするだろう。

 世界から分離された「自分」が、世界を意識している。それを満身で感じ取り、その感じ取ることによって世界への認識の向き、自分から外界へと拡がる外向きの方向性、を強調し、その強調した分を、ふわっと手放す。
 うまくいくと、自分の「存在感」が精細な粒子にばらっとほどけ、宇宙がトータルにひっくり返るが如き意識転換が発生する。前回述べた「観の目」の原理の応用だ。

 今度は世界がこちらを観ている。
 世界から観られている。
 自分は世界の一部だ。世界の一部として吸収される。
 これまで優勢であった「外へ」という意識の方向性が、その質を含め、正反対の向きに反転している。
 これまで気づいたことがおありだろうか? 我々が「外側」と呼ぶ方向の<質>は、「内側」とはまるで異なっている。「右」と「左」もまったく違う。方向が正反対なだけでなく、その質(我々が内面的に感じる質感、言葉を越えたクオリア)も正反対だ。それらは対極をなし、互いを支え合っている。
 だから、真の「外」や「右」を知るためには、「内」や「左」との関係性を通して探求する必要がある。
 力を抜くことも同様だ。ただ抜こうとすることによっては、実は力は抜けない。力を入れることとの関係性の中でのみ、本当の意味で力を抜くことができるのだ。

 このようにして、龍宮道は人の「感じ方」を変えてゆく。感じ方が変われば、自ずから姿勢や身体運動が変わり始め、それはやがて人生にまで及んでゆく。
 世界は私であり、私は世界だ、と骨の髄から感じられるようになれば、自ずから行動が起こる。
 そのような人々が増えて祈りを結集し、行動していかない限り、地球の調和は決して起こらない。

帰神スライドショー4 『浅瀬にて』

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<2020.12.27>