Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第2章 超越へのジャンプ 〜田中守平(太霊道)〜 第4回 上奏

 明治36年11月19日。東京、皇居。
 この日、天皇が中国地方における大演習を視察した後、大纛(だいとう:天皇旗)を還すと聞き、大勢の人々が道端に並んで待ち受けていた。
 鹵簿(ろぼ:天皇の行列)が粛々として桜田門に入ろうとした時、水を打ったような静寂を破って飛び出してきた者がある。
 言わずと知れた、我らが田中守平だ。
「慎んで陛下に上奏し奉[たてまつ]る!」と絶叫し、群衆を排して鳳輦(ほうれん:天皇の乗り物)に近づき、ひざまずいて、うやうやしく一封の書を捧げる。天皇は、車の中からチラッとこれを見て、通り過ぎていった。
 守平は、直ちに捕らえられて警察署に連行され、厳しい取り調べを受けることになる。
 何しろ天皇の地位が今とは比べ物にならぬほど高かった時代の出来事だ。この上奏事件は、全国民を驚嘆させ、日本国中を震撼させるところとなったのである。

上奏直前に撮影された写真。守平の覚悟のほどが、緊張した表情や姿勢から伺える。

 上奏文の中で彼は、政府が主張する平和的解決策では、現状の打開は図れないであろうこと、このままロシアの暴挙を許し続けるならば、日本帝国の権威失墜は目に見えていること、などを巻菱湖(まき りょうこ:幕末三筆の1人)風の見事な手跡で理路整然と説き、直ちに戦端を開くべき必要性を切々と訴えている。
 当時の新聞雑誌は、そろってこの事件を伝えたが、朝野をあげて日露開戦論議の急な時なるがゆえに、ことに世上は騒然となったのだ。
 帝国史学会編纂の『日露戦史』は、その「国論沸騰」の条項において守平のこの挙を評していわく、
「その上奏文の文字、何らの凱切(ぴたりと当てはまる)ぞや。これ国民の声を代表せるというも不可なきなり。一青年の身をもって孤憤おくあたわず、進んで当死の大罪を冒す。その心情は、世人の皆、諒とせるところなりき」(一部、送り仮名や句読点等を現代風に改めた。以下同様)
 各新聞雑誌に掲載された論評も、守平の愛国心を称揚するものが多かった。今、ここにその断片を集めてみると、
「・・・その奏文なるものを見る。文辞修整、筆路穏健、いたずらに辞気を厲[れい]して(声を張り上げて)慷慨(憤ること)を事とせるにはあらで、よく時弊の肯綮(こうけい:ものごとの急所)を穿[うが]ちてほとんど国民が言わんとするところを言い尽くせるものの如し」(雑誌『日本人』)
「政治家も新聞記者も内閣を攻撃し、当路者を怒罵するのみにして、策の出ずるところを知らざるの秋[とき]、彼が祖先より受け継ぎたる熱血が迸出[へいしゅつ]したるものならんか、・・・中略・・・彼は誠心に国を憂い、誠意に時局を慨するものならざるべからず」(『萬朝報』)
 また『日本』新聞は、「彼は少年の頃から愛国忠君の精神に充たされた男で、今日の熱誠乏しき青年の気風に比し、大いに珍として称賛すべき精神を持っている」と述べ、同紙の「詩林」で、当時の政客たちを痛罵一蹴し去っておいてから、「堂々たる六尺の大丈夫[だいじょうふ]、及ばず青年一守平」と結んでいる。

 もしかすると、天皇自身も、守平の上奏文に密かに目を通したかもしれない。新聞・雑誌で内容が公表され、全国的なニュースとしてあれだけ騒がれたのだから、その可能性は高い。
 守平がそこまで計算していたかどうか、それはわからない。が、少なくとも彼は、天皇が直接読むことを想定して上奏文を書き上げたはずだ。
 ちょっと、リアルに感じてみていただきたいのだが、もし、あなたが天皇、しかも現在とは比較にならぬほど権威づけられ、神格化された天皇に、直接「意見・嘆願書」を書くとしたら・・・・どうか? 
 よほどの信念と自信がない限り、あるいは精神に異常でも来[きた]していない限り、絶対君主に手紙を書いてメッセージを伝えようなんて、そもそも思いつきもしないのではないか?

 実際、世間一般のやや無責任な称賛とは裏腹に、麹町署に拘留された守平は、精神異常者としての扱いを受けることになる。
 明治36年11月21日付けの『萬朝報』紙は、国家権力のこうした態度について、次のように論評した。
「直訴者、田中守平を処分するには、精神病者と決定すること最も軽便なるべし。当局の有司も、これによりて満天下より、この直訴をもって国民の声と解さるるを免れて、自己らの優柔不断を罵らるるを避け得べし。彼らにして自己の安を偸[ぬす]まんと欲せば、彼らは是が非でもこの少年を狂者とするに限るなり」

 誇大妄想狂か、ファナティック(偏執狂)か、はたまた稀代の愛国者か? あるいは、祖先・田中與市の行跡に憧れる軽率なお調子者か? 
 上奏文は長文であり、しかも難解な言葉が多用されているため、ここに転載することは避ける。
 私は、ヒーリング・アーツで心身を全開しながら、それを何度も音読してみた。そのたびごとに、真剣さ、誠実さ、献身、明晰な理知性、洞察力・・・などを「感じ」た。
 心身のバランスが崩れた者には、ああいう文章はとても書けまい。

 結局、彼は罪に問われることはなかったが、故郷に送還され、当局の監視下に置かれることになる。守平1人のために巡査1名が岐阜県庁より特別に派遣され、地元の駐在所と軒を並べて新たに別の駐在所が設置されるという奇観を呈したそうだ。
 こうした厳しい監視に身動きもままならず、守平は山中に1間(約1.8メートル)四方の草庵(草葺きの小屋)を結んでこれに篭もり、ひたすら謹慎の意を表すると同時に、大いに勉学に努めた。

 かくて多事なりし明治36年も過ぎ去り、明けて37年、ロシアの極東経営の手はますます急速に展開されていった。が、これに対する日本政府の対応はグズグズとして決断力に欠け、草庵に座す守平を長嘆息させた。
 しかし、時局はついに転回の気運を迎え、2月初旬、旅順及び仁川に砲声が轟き、ここにいよいよ開戦の火蓋が切って落とされたのである。守平の上奏から、わずか3ヶ月足らず後[のち]のことであった。

 捷報(戦勝の知らせ)、また捷報の中に明治37年も過ぎ行き、翌38年劈頭[へきとう]、旅順開城の吉報に接した国民は、上下をあげて歓声に沸き返った。
 同年5月、守平は翻然として悟るところがあり、書物のことごとくをなげうち、天照大神降誕の霊地と称される恵那山中での篭居[ろうきょ]を決意した。
 彼は、生来形而上の問題に甚大な興味を抱いていたが、人生の究極の意味は、煩悶に煩悶を重ねても、ついに解き明かすことができなかった。
 そこで、生きることの根本に横たわる大問題に光明を点ずべく、深山奥深くにリトリート(隠遁)した守平は、恵那の山霊を欲しいままに浴びつつ、端然として正座黙行を積んだのである。

 当時守平が考えるには、「生命は物質と霊、あるいは肉体と精神との結合だ。唯心論と唯物論は、2つの両極端に過ぎない。
 精神と肉体は相反するものではなく、互いに依存し合って存在している。それでは、両者の源泉とは何か? 生命の基礎、その真のエッセンスとは?」
 さらに彼は、思考を展開する。
「生命は、食物と呼吸によって維持されている。人は食物がなくても数日〜数十日は生きられるが、空気なしでは数分ともたない。ということは、生命を維持する第1の要素は空気である。
 それなら食物なしで空気だけを摂取した場合、人間の生命にはいかなる影響が現われるのだろう? そして絶食を続けた場合、人はどれくらい生きていられるのか?」

 こうした疑問に解答を見出すべく、守平は無謀とも思える断食を実行したのであった。
 その期間は、明治38年(1905)2月上旬より、同年6月上旬にわたる、前後合算90日に及んだ。
 それは、彼の生涯に一大転機をもたらすと同時に、幼児に萌芽した霊能力が、さらに発達する端緒ともなったのである。

<2010.04.30 牡丹華(ぼたんはなさく)>