Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第2章 超越へのジャンプ 〜田中守平(太霊道)〜 第6回 獄裡の神人

 恵那山に籠もること約半年。守平は6月上旬、住み慣れた草庵を出[いで]て居村に戻った。
 幼時より一種特異の人として知られていた守平が、霊山で心胆を錬磨し、修養を積んで帰ったことを聞き及び、その門に雲来して珍談を聴き、霊験に浴さんとする者は数限りなかった。
 時あたかも日本海の大海戦に振古未曾有の大勝利を博し、国民狂喜の折から、まず人々が守平にそのことを告げようとする・・・と、彼はそれをさえぎり、おもむろに自ら戦況の顛末を語って細大漏らすことなく、人をしてそぞろ神智の感をなさしめた。
 さらに、「米国大統領の勧告によって和を講ずるに至れども、おそらくその結果は我が方に利[よろ]しきものにあらざるべし」と語れば、果たして事実ポーツマスの談判は、その予言通りの結果に終わった。
 だが、守平が入山中に獲得した霊能は、この程度にとどまるものではなかった。
 例えば、慢性リューマチのために悩んでいた一婦人は、恍惚として彼の談話を聴いているうち、知らず知らず十数年来の苦痛を忘れるに至ったという。あるいは、かたわらにいた一少女が数日来の歯痛に苦しんでいたところ、わずかに守平の手が患部と触れ合っただけで、たちまち痛みが去ってしまった。
 こうした彼の治病能力は、村里父老の好奇心と崇敬心を喚起して、評判はそれよりそれと相伝わり、数十里外よりその名を聞いて来る者は引きも切らず。いずれも、その絶妙なる効験に感嘆せざるはなかったという。

 長期断食すると、いろんな「異能」が発現することが、実際にある。私自身もあれこれ経験してきている。
 現在、私がごく当たり前のように示し、人々に授けているヒーリング・アーツの様々な術[わざ]でさえ、何も知らない部外者の目には、あるいは理解を絶する異現象と映るかもしれない。
 霊能(超越的能力)発動の種類・程度・頻度・確実性は、人によってそれぞれ異なる。が、全員に共通してあらわれるのは、生命力そのものを活性化させる能力だ。
 私が思うに、「いやす力」とは本来、人類という種に普遍的に与えられた、ある種の生物学的資質ではなかろうか。誰もがジャンプする力や物を持ち上げる力を基本的に備えているのと同様、ヒーリング力という「可能性」を付与され私たちはこの世に生まれ出る。
 普通の力と同じく、ヒーリング能力は合理的に訓練すれば発達し、使わないまま放置しておけば、さび付く。
 通常の力の数千分の1、数万分の1、あるいはもっともっと小さなレベルで働く力ならざる力(一般的な力の体感範疇に属さない力)について、私は語っている。くれぐれも誤解なきように。そうした秘め隠されし力の地平では、あらゆる力は純粋な波紋として体感される。
 すべての力の大元であるエッセンシャルな海。そこでは、超微細粒子のマトリクスで様々な波紋が、繊細にエクスタティックに輝きつつ、悦ばしげに楽しげに踊っている。 
 守平は、この粒子性を「霊子[れいし]」と名づけ、「精神と肉体を相互補償的に産み出す実体子」と定義づけた。そして、この霊子(微細粒子的な振動感覚/意識)に対し意図的に働きかけることで、肉体と精神の根源レベルから覚醒・変容の作用(ヒーリング)を引き起こすことができる、と主張した。
 
 守平は明治39年(1906)、名古屋に出て大日本帝国青年会を創設する。日露戦終結後、ややもすれば淫靡惰弱に流れんとする青年たちを覚醒させ、教化・指導しようというのだ。このとき守平22歳。
 会の主旨と主張に共鳴する近県の青年たちは少なくなく、たちまち数千の会員を得るに至った。紀元の佳節(2月11日)をもって、機関誌も発刊された。
 同年5月、鉄道の記念式で児玉源太郎大将(1852〜1906)が来名した際、守平はその元を訪れ、自らの事業について熱く語った。児玉はすこぶる賛同の意を示し、その勧めによって翌6月、青年会は事務所を東京に移した。
 守平は、会の事業として蒙古探検隊を組織し、未開の地の奥深く踏み入って精査すると共に、全国民を刺激し、青年たちの志気を鼓舞しようと図る。
 名古屋での青年会結成からここに至るまで、わずか6ヶ月。すごい行動力だ。祖先・輿市[よいち]譲りの資質だろうか。あるいは、彼の「時間」は、周囲のそれとは異なる密度で動いていたのかもしれない。
 守平の企図は、児玉大将の賛助・後援を得、実現に向け一気に動き出した。隊員40名を引率し8月中旬に東京を出発、と決定した。
 だが、その準備に忙殺されつつあった7月、児玉が脳溢血で急逝。探検計画は惜しくも頓挫した。
 同時に、当局の監視が厳重となったため、やむなく守平は青年会を解散し、再び山中の人となったのであった。

 故山の草庵に帰った彼は、明治40年より41年の半ばに至るまで、霊力の修養に努めると共に、遠近より訪れる病患者の治療施術などに従事しつつ日を送っていた。
 しかし、世上青年の志気が日に衰え、月に頽するのをみるに忍びず、また男児ひとたび計画したことの挫折したまま止[や]みなんことを嘆いて、守平は再び青年会の復興を図る。
 上京して八方に運動奔走したことが功を奏し、ようやく機関誌発行の序に至ろうとした。その時、突如として彼は逮捕され、鉄窓に呻吟する身となってしまうのだ。
 例の上奏事件以来、守平は常に警察の監視下に置かれていた。
 彼が名古屋に青年会を設立すると、2名の角袖巡査が相交代して未明より夜半に至るまで警戒を絶たず、旅行に際しては必ず2〜3名の巡査が同行し、旅宿の玄関前に昼夜立ち番して営業を妨げる、という状況であったという。
 警察は職務上の面倒から、各管轄区域内に守平が存在することを至極やっかいと心得、非常な干渉妨害を試みて甲区域より乙区域へ、さらに丙区域へと順次転々追放の策を講じていた。にも関わらず、会の事業はどんどん盛大におもむき、人の出入りが日に多くなるのをみて、当局の干渉はますますその度を増していき、ついに不当なる逮捕へと至ったのだ。
 年がまさに暮れんとする明治41年12月中旬、青年会の事業に忙殺されて機関誌発刊の準備を急いでいた真っ最中の出来事であった。

 警視庁の薄暗い、「みるからに地獄の入り口と思われる」一室で彼は一夜を過ごし、形式的な予審の取り調べを受けた。その際、係官の言葉づかいが妥当ならずとして、守平が、「自分は左様な非人格的な言葉を用いたことはありません。自分の家に飼養している動物をも、さんづけにしております」と従容として話したところ、相手は突然態度をやわらげ、それ以降、彼に対し丁寧に対応するようになったそうだ。
 守平をファナティック(偏執狂的)な直情径行タイプのアジテーターと見なす者が、霊術研究者の中にはいるようだ。が、私が彼の著作から体感的に受けるイメージはまったく違う。
 生前の彼をよく知る人によれば、「穏やかで、とてもやさしい人だった」そうだ。高弟たちに対してさえ、常に敬語で接していたという。
 と同時に、道に外れた言動は絶対に容赦しない苛烈さも、また備えていたようだ。弟子を叱るなど滅多にないことだったが、いったん真理の利剣が抜き放たれるや、相手が青ざめ、心の奥底から謝罪して改心するまで、非難の矛先が納められることは決してなかった。  

 逮捕の翌朝、守平は東京監獄未決監に収監される。
 もとより無実の罪であるから、青天白日の身となって直ちに出獄できることは期して疑いなきところだったが、当局の手続きは遅々として進まなかった。
 監房は6人を定員とする特待室で、無罪となって放免される者、有罪となって既決に送られる者、あるいは保釈で一時出監を許される者など、ほとんど毎日のように人の入れ替わりがあるのに、一人守平に限っては何らの取り調べもなく、年が暮れ、新たな年を迎えても、そのままずっと放置されっぱなしだった。
 だが、田中守平のような人は、地獄にあってさえ、そこを極楽に変えてしまう。
 収監すらも人生体験として活かすべく、すこぶる平静な心情をもってひたすら修養に余念のない守平だったが、温厚謹直な彼はたちまち自己の監房に感化を与え、そこはまもなく「模範監房」と呼ばれるようになった。
 やがて、彼に不可思議な霊力があるとの噂が拡がり始めた。実際に、驚くべき神秘現象を守平がしばしば現わしたため、彼は全監房中で「神様! 神様!」と敬い恐れられるに至ったのである。看守でさえも、「獄裡の神人」なる尊称を守平に奉ったという。
 こうして冬を過ぎ、春を迎え、その春もまさに過ぎゆかんとする4月末となっても、いまだ1度の取り調べすらない。そこで守平は1通の上申書を裁判所に提出し、事件取り扱いの進行を速やかならんことを促した。
「裁判所開設以来、無類」と称された、その長文(全9360字)の上申書には、彼の性格、経歴、思想、抱負、識見、事業のすべてが網羅されていた。理路整然、ある時は法の本質に触れ、あるいは応法刑思想から保護刑思想への推移について論じ、神武天皇以来の日本建国の旨趣を総括し、それを自らが自覚するところの天与の大使命と関連づけた上で、最後に「・・・顧みて自己が天に享[う]くる所の鴻大[こうだい]なる職命を果たして以て君国に報ぜざるべからざるを思ふてはまた徒[いたずら]に悠閑として監房に日子を空過するに忍びず、乃[すなわ]ち敢えて茲[ここ]に赤誠を披瀝して上申以て命の下るを待つ」と訴えかけている。
 一片の資料もなしにこれだけの文章を短時間で書き上げるには、相当高い知性と教養が必要であることだけは確かだ。
 上申書の全面に横溢する憂世熱烈の気が、法官の心を強く動かしたのであろう。形式的な取り調べを1度受けただけで、 6月初旬、晴れて守平は放免の身となった。
 彼は郷里に帰って、三度[みたび]山中に籠居することとなる。この3度目のリトリートにより、太霊道の教義および修行体系は完成へと至るのである。

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 第1回でご紹介した霊子顕動法[れいしけんどうほう]の研究はお進みだろうか?
 偽りの我流顕動を、自分で無意識のうちに起こしてしまいがちなので、注意が必要だ。無意識的な「はずみ」(惰性と慣性)を使ってぴょんぴょん飛び跳ねながら「できた」「わかった」と勘違いする、そういう呑気&無邪気な人が決して少なくない。
 間違ったやり方では、満足すべき効果も成果も、決して得られない。本物の顕動が出ると、それ以外の我流のやり方とは明らかに異なる状態が、その場で直ちに身体内に発現する。
 以下にご紹介するのは、太霊道オープンセミナー(平成15年4月)受講者による報告からの抜粋だ。

◎今までの(自己流)顕動では霊子作用が身体の内にみなぎるまえに、自分で中途半端に動いてしまっており、なにか物足りないものだったのですが、初めてこのとき顕動が生命力に満ちたものへと変化したのでした。頭骨を開いていると、当たり前のように煩悶苦悩があっさりとはれ、清々しい気持ちになりました。また試しに何か考えようとしてみると、頭骨の振動は途端に感じられなくなりました。<東京都 Y.S.>
◎沸き立つような活力に「オーッ」と声を上げそうになりました。<愛知県 S.T.>
◎今までにない爽快感や活力を感じ、唖然としてしまいました。<神奈川県 K.Y.>
◎要訣に則って行うと、止めようにも止まらない激しい顕動が起こり、頭の中が真っ白になり何も考えられなくなってしまった。いらぬ思考や、故意に動かそうとしている無駄な動きを捨てれば捨てるほどスムーズに、そして激しく動くようだった。「これが真の顕動か・・・!」 激しく動いたのだから息切れはするが、確かに活力がふつふつと湧いてくるようだった。<岡山県 M.K.>
◎オープンセミナー前に自分で行っていた霊子顕動法では全身を固めて動いていたため、楽しいというよりも疲れたという感じを受けていたため、本当の顕動との違いに驚いてしまいました。<愛媛県 M.N.>

 両腕前伸[りょうわんぜんしん]から両肘を左右に張り(手そのものを直接に胸へ近寄せるにあらず)、胸前で合掌しようとする際、「中指を上に向ける」という要訣に、特に注意を払っていただきたい。何気ないちょっとした一言のようにみえるかもしれないが、非常に大切なポイントだ。
 顕動が全身的ジャンプへと至る・・・と、手の骨と全身の骨がダイレクトにぶつかり合い、響き合って、あちこちが堅くこわばった骨組みを、内面から打ち砕き、粉々にすりつぶし、液状化していく。
 そういう実感が起こらず、ただ一塊としての体が跳ねているとしか感じられないとしたら、あなたにはまだ本物の顕動が起こってない。
 顕動誘発のためには、とにかく手の中央を真っ直ぐ立てて合掌することだ。
 ちょっとやってみて、「ああわかった」などと、どうか早合点することのないよう、伏してお願いする。
 私も、連続断食50日目あたりで、ようやく天啓的に理会・悟得した。それ以前に、15年以上も霊子顕動法の研究・研鑽・実践を積み重ねたあげくに、だ。

 中指を真っ直ぐ立てる・・・・・・と、そのつけ根の下にあるとされる「真点」が、にわかに実在感を増してくる。
 真点とは、中指のつけ根より約1.5センチ下にある、顕動誘発のための重大ポイントだ。ヒーリング・アーツでは、東洋医学の名称を借りて「労宮」と呼んでいる。
 自分の掌を見ながら、中指つけ根の横じわから1.5センチ下・・・なんて、どうかおやりにならないでいただきたい。
 そこは、中指のつけ根ではない。ご不審にお思いの方は、中指を「つけ根」から倒したり起こしたりしながら、手を表(甲)、横、裏(掌)から比較しつつ、しっかり観察なされよ。
「えっ!?」「わーっ!!」と声(驚きと喜びと嘆きの混じり合ったもの)が出る時が、あなたが「わかった」時だ。
 手は全身と対応する、と私はこれまでディスコース各論でずっと主張してきた。そのことを、顕動によって如実に実感することができる。
 ただし、手の骨格のバランスが取れた状態で顕動を起こすことが、追試のための条件だ。さもないと、先に述べたような、手と全身の骨格レベルの共振は起こらない。
 ヒーリング・アーツに限らず、何かの<道>を極めようとするのであれば、常に「中心」を銘記することだ。
 手の中心、胸の中心、顔(表情)の中心、身体にはいろんな中心があるが、それら諸々の中心のヒエラルキー(関係性、序列)も重要だ。

<2010.12.13 熊蟄穴(くまあなにこもる)>