Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第4章 心身統一 〜中村天風(心身統一法)〜 第1回 自由奔放な少年時代

[ ]内はルビ。

 明治の末、インドの秘境に単身潜入し、日本人として初めてヨーガの秘儀に参入した男がいた。彼の名を中村天風(なかむらてんぷう:1876〜1968)という。
 その棲惨な修行体験に基き、天風が新たに創始した「心身統一法」は、運命を望み通りに切り拓き、実り豊かな人生をもたらすためのユニークな修養体系であるといい、原敬(元首相)、山本五十六(元帥)、倉田主税(日立製作所元社長)、飯田清三(野村証券元社長)、素野福次郎(元TDK社長、会長、相談役)、松下幸之助(松下電器産業<現パナソニック>創業者)、稲盛和夫(京セラ、第二電電<現KDDI>創業者・日本航空会長)、越後正一(伊藤忠商事元社長)、砂野仁(川崎重工元社長)、内海倫(元防衛事務次官・元人事院総裁)、園田直(元厚生相・外相)、ロックフェラー3世、松本幸四郎7世(歌舞伎俳優)、6代目三遊亭円生(落語家)、宇野千代(作家)、広岡達郎(野球評論家)等々、各界の頂点を極めた人々がその教えに深い共鳴を示し、「生涯の師」として天風に心服したのだ。
 まずは、天風自身が折りに触れ時に触れて語った断片的な体験談をもとに、その驚くべき波乱万丈の前半生と、彼が心身統一法を編み出すに至った経緯をたどってみることにしよう。

中村天風。ヒマラヤ山中での苛烈なヨーガ修業によって、不治の病を克服し、心身統一法を創始。

 中村天風は、明治9年7月30日、東京府豊島郡王子村(現東京都北区王子)で呱々の声をあげた。幼名中村三郎。中村家は九州柳川藩主と血縁関係にあり、三郎の祖父・立花鑑徳は初代の伯爵であった。
 華族の子として生まれ、何不自由ない恵まれた日々を送っていた三郎だが、彼は幼少の頃から自分を取り巻く環境に強い反発心を抱いていたようだ。何かと束縛の多い大名生活は、自由閥達な三郎の気性とは根本的に相容れないものだったのかもしれない。
 抑圧された不満が、人々を驚かせるような行動へと三郎少年を駆り立てていく。例えば蛇の上顎と下顎に手をかけ、真っぷたつに引き裂いてしまったりとか、喧嘩をしても、相手の耳を引きちぎったり腕をへし折ってしまうのである。三郎は6才の頃から柳川藩に伝わる古武道・随変流を厳しく仕込まれたというが、それもこうした傾向にますます拍車をかける要因になったのかもしれない。

 小学校を卒業すると同時に三郎は家族と離れ、父親の郷里・福岡県の修猷館に入学する。この修猷館という学校は、漢文と国語以外の授業をすべて英語で行なうという、異例ともいえる独自の教育方針をとっていた。「日本語は一言も使ってはならない」という徹底ぶりで、5年の間に少しずつ落第留年して、無事卒業までたどりつけるのは3、4人に1人というありさまであったという。生徒だけでなく、教師たちも英文の教科書を読みこなすのにはずいぶん苦労していたらしい。
 ところが三郎が生まれ育った王子では、近所に印刷技師として来日した英国人夫婦が住んでおり、毎日のようにその家で遊んでいたおかげで、彼はすっかり英語になじんでいた。それが思わぬところで役立つことになったわけだが、本格的なロンドン調の発音で自在に英語を操る三郎に、教師も他の生徒たちも最初どぎもを抜かれたということだ。

 こうして相も変わらず粗暴な振る舞いが目立つ三郎ではあったが、特に問題を起こすこともなく、1年、2年と時は過ぎていった。
 そして明治24年のある日のこと、福岡歩兵第24連隊の隊列が修猷館の前を通りかかった時、何者かが校内から連隊の旗に投石するという事件が起きたのである。
 ただちに連隊は、学校をすっかり取り囲んでしまった。「犯人を引き渡すまでは、誰1人として学校の外へは出さない」というのだ。
 生徒のなかに故意か偶然かはともかく、実際に石を投げた者がいたとしても、「私がやりました」と名乗り出ていけるような雰囲気では到底ない。ことは単なるいたずらを通り越して、「天皇に対する不敬」という問題にまで発展していたのだ。天皇から親授される軍旗は、連隊の象徴であることはもちろん、一種の神格化された存在だったからだ。
 夕閣が迫り、やがて夜のとばりが降りても、生徒は開放されなかった。教師たちはぶるぶる震えて右往左往するばかり。そうこうするうちに三郎は、ふとあることを思いついたのである。
『こうなれば誰が出ていっても同じだ。自分がやったと言えば皆帰れるし、どうせ投げた奴は恐ろしくて出てこれないだろう』
 いかにも軽率ではあったが、義侠心から発した行動だったことには違いない。

 こうして自ら名乗り出ていった三郎は、早速連隊本部に引き立てられていき、副官らからきびしい取り調べを受けた。
「貴様か、投げたというのは?」
「はいそうです」
「どこから投げた」
「・・・忘れました」
 言葉に詰まって三郎はそう答えてしまった。そんなことを尋ねられるとは思ってもいなかったのだ。
「自分の投げたところを忘れる奴があるか。何の意趣遺恨があって帝国軍隊の軍旗に向かって石を投げた?」
「軍旗に向かって投げたわけではありませんが、表に向かって投げたら当たったんでしょう」
 ここまでのやりとりを黙って聞いていた連隊長が、おもむろに口を開いた。
「・・・貴様、罪を背負っているな」
 ここでばれてしまっては何にもならないとばかり、三郎は意地になって言い張った。
「違います。俺が投げたんです」
「軍隊では本当の証拠がなければ、それを罰することはできない。ただ俺が投げただけじゃいけない」
「では悪いことをすればいいのですか?」
「悪いことをすれば、それは罪になる」
 次の瞬間であった。三郎は机の上にあった灰皿をつかむや、連隊長めがけて投げつけたのだ! 望み通り(?)彼はそのまま営倉(罪を犯した兵隊を収容する留置場)へ放りこまれてしまった。

 ところでこの時分には、軍隊を指令する権力を県知事が握っていた。そして当時の県知事は、安馬男爵といって、三郎の父親の義弟にあたる人物だったのだ。この一件が安馬の耳に入るや、彼は「全校800人の犠牲になって、投げもしないのに私が投げたと言うなら、その気持ちをなぜ買ってやらない」と、あべこベに連隊長を休職処分にしてしまったのである。
 三郎は2日間営倉に泊められた後、ようやく家路につくことができたのであった。
 この投石事件以来、三郎は修猷館はもとより、近所でも知らない者はいないというほどの名物的存在になってしまった。腕っぷしは強いし、勉強もできるところへもってきて、多少なりとも自分を英雄視するものが出てきたのだからたまらない。三郎のうぬぼれは留まるところを知らず増長していった。そしてこの直後、彼は決定的ともいえるある事件を引き起こしてしまうことになるのである。

 それは明治25年3月末のことであった。三郎は福岡に来てから明道館という道場で柔道を習っていたが、折りしも春休みを利用して行なわれた九州の中学生柔道連合試合に、彼は明道館の大将として出場することになったのである。
 対戦相手は熊本の濟濟黌で、試合そのものは三郎たちの勝ちに終わったが、問題はそのあとに起こった。試合に負けた遺恨に、相手側は三郎1人を呼び出し、大勢で寄ってたかって彼を袋叩きにしてしまったのだ。
 そのままおとなしく黙っている三郎ではない。翌日、連中の自宅を調べあげ、たった1人で「個別訪問」にでかける。つまり勝手に家のなかに土足でどかどかと踏み込み、目指す相手を見つけると、「昨日の礼に来たぞッ」という次第。1対1の喧嘩となれば、三郎の相手となる者はいなかった。
 こうして最後に「訪問」したのが、昨日の試合で大将を務めた18才くらいの青年だった。それが三郎の姿を見るなり、いきなり台所に駆け込んだかと思うと、出刃包丁を振りかざして襲いかかってきた。
 無我夢中でもみ合ううちに、三郎は包丁を奪い取り、それで相手の腹部を刺してしまった。青年はただちに病院に運ばれたが、出血多量で死亡したのであった。
 三郎は20日間ほど警察に留置されたが、結局正当防衛で無罪放免となる。まだ年端もいかぬ少年が、素手で凶器を持った相手に立ち向かい、逆にこれを刺してしまった——警官のなかにはそれを誉めたたえる者さえいたというのだから、「時代」の違いを感じざるを得ない。

 さて無罪にはなったものの、当然退学処分は免れなかった。三郎の行く末を案じた両親は、親戚の紹介で彼を頭山満[とうやまみつる]の玄洋社に預けることにしたのであった。
 頭山満は国家主義運動の大御所的存在であり、明治・大正・昭和にかけて広く政財界に隠然たる勢力を振るった人物である。彼が組織した玄洋社は、日本における右翼の源流であり、その後日清・日露の両戦争、日韓併合などで軍部と結び、志士として活動することになる。三郎に「天風」という名を贈ったのも、この頭山満であった。これは随変流抜刀術の中で、三郎が最も得意とした「あまつかぜ」という型に由来するものだという。
 この年、三郎——天風は頭山の命により、陸軍中佐・河野金吉の鞄持ちとして満州に渡っている。

随変流の使い手だった天風による見事な抜刀術。

<2012.01.31 鶏始乳[にわとりはじめてにゅうす]>

※『ムー』誌(学研)1990年6月号への寄稿記事に加筆修正。
※ 写真提供:公益財団法人 天風会