◎昨日は、妻と共に宮島(厳島)巡礼を楽しんできた。
七十二候の「桃始笑(ももはじめてわらう)」。うららかな早春の陽射しに照らされてゆったり横たわる弥山(みせん)の頂を目指す。この霊山は、かつて弘法大師空海により修業場として開基されたといい、以来千二百年間、空海が神霊仏尊を勧請するため使った火が、山頂近くの堂内で今も絶えることなく灯し続けられている。
厳島が歴史書に初めて登場するのは9世紀成立の『日本後記』だが、それ以前の遥か昔から、人々はこの島を「神が居憑(いつ)く島」、「斎(いつき:つつしんで祀ること)の島」として崇めてきた。古代の祭祀場跡である巨大な磐座(イワクラ)を、弥山山頂付近でいくつも観ることができる。
◎見上げるような大きな巌(いわお)に、かしわ手を打った手でそっとヒーリング・タッチ。そして、アルテミス修法で掌の粒子感覚を柔らかくそっと労宮へと引き絞っておいてレット・オフ。静中求動。
ゆっくり、ゆっくり、・・ゆっくり、・・・・ゆっくりと、人間のタイムスケールとはまったくレベルが違う時間感覚を伴って、意識が岩の奥深くへと染み渡っていく。松尾芭蕉が「岩に染み入る・・・」と詠ったのは、この感覚/意識だったのだろうか。
◎弥山(みせん)には、古来より様々な神、仏が降り立ってきた。そういうスポットには、特別な「何か」がある。ヒーリング・アーツに長じてくると、聖なる「場(フィールド)」と響き合い、自らの生に新たな質をクロスオーバーすることができるようになる。
その結果として、私の場合は新しい<道>が拓かれる。それ以前の流れからは思いも及ばないような意外な展開が、具体的修法とともに一気に、多元的に、「あしかびが燃え上がる如く」(『古事記』)、菌糸的ネットワークとなって拡大していく。そういう創造(クリエーション)のはずみが、ヒーリング・トリップ(巡礼)によってもたらされる。
古来より、武芸者や宗教家たちが各地の聖地を旅して回ったのも、同様の理由に基づくものであったに違いない。
◎厳島巡礼を楽しむコースはいくつもあるが、昨日は弥山頂上から大野瀬戸に浮かぶ島々を一望した後、山腹にある御山(みやま)神社へと向かった。
ここには現在、厳島神社と同じ三柱の女神が祀られているが、元々は「三鬼(さんき)さん」と呼ばれて人々の篤い崇敬を集めた特別な礼拝所だった。三鬼(山鬼)とは、あらゆる天狗を統べる神であるといい、伊藤博文もこの神を熱烈に信仰したそうだ。
苔むした石段を辿り、御山神社に到着。あたりはひっそりして、時折小鳥のさえずりが聴こえるのみだ。
早速、靴を脱いで裸足となり、かしわ手を打って合掌・・・・ヒーリング・ステーツに入る。・・・・・と、直ちに霊的感応が起こってマナの示現が始まった。
まず、前回ご紹介した一指禅の耳孔への応用−−観音修法と仮に名づけておく——を行ないつつ、肺一杯に霊地の精気を吸い込む。
別に聖地まで出向く必要はない。今すぐやってみれば、左右の肺の膨らみ具合がどれだけいびつでアンバランスなものとなっているか、ハッキリ実感できて驚くだろう。それが胸郭の歪みだ。胸椎1個1個があれこれ好き勝手な方向にねじれているし、肋骨も歪みひねくれ放題といった具合だろう。骨格だけに注目してこの無秩序状態を何とかしようとしても、とてもじゃないが私には無理だ。
しかし、観音修法で三半規管を意識化しつつ、大きく胸に息を吸い、しばらく留めておけば(無理のない範囲内で)、胸の中のこれまで使ったことがない場所に息が入り始め、みるみる肺の膨らみ方が満遍なく整っていく。これ以上はもう吸えないと思った息が、さらに入ってくるかもしれない。
肺の圧力により、胸郭が内側より張り伸ばされる。アンバランスだった部分がどんどん正されていく。自分で整正の動きを引き取り、あちこち伸ばし拡げようとしてはいけない。ただ胸に入っている息の圧力を感じながら、耳の奥を意識し続ける(左右を均等に)。
息を留めようとするコマンドをレット・オフ・・・・大いなる開放感、バランス感が沸き起こって全身を楽しく巡る。この間、わずか10秒足らず。
御山神社までの1時間弱の山道を、わざとヒーリング・アーツを使わず上り下りして来たのだが、観音修法と胸式呼吸をクロスオーバーして修すること2度、3度・・・・・、あちこちの関節、筋肉にへばりついていた疲労感がサッと一掃され、清新な気が心身に漲(みなぎ)ってきた。
ヒーリング・アーツというのは本当に大変なものだと思う。凄まじいまでの変容力を秘めている。こういう風に自然と対峙し、真の効果が全身まるごとで問われる状況においては、単なるイメージや小手先の技法など絶対に通用しない。
◎観音修法を行ないつつ、神前でゆっくり礼をする。・・と、礼の動作の一瞬一瞬における姿勢(骨格構造)が組み替わっていく。必要なら、好きなところで静止して、思う存分観音修法を味わう。
一礼するのみで、どれだけ全身が爽やかに整えられるものか、実際に味わってみなければとても信じられまい。
◎どんなに心を込めたつもりでも、内的アンバランスを放置したままの礼であるとしたら、残念ながらそれは虚礼でしかない。
そういう礼(頭を下げること)しかできない人間は、礼節の本質の何たるかを決して知り得ない。ゆえに、いつまでたっても熟達できない。何を習ってもモノにならない。
◎山中、人が訪(おとな)うことも稀な神社境内で裸足となり、次から次へとマナを授かりつつ、さらに軽霊に、身軽に、元気に、楽しくなっていった。聖地と足裏で触れ合い、時折踵で大地を踏みつけ、ズシーン・・・と弥山丸ごとに地響きを響かせ、大地の女神に礼を捧げる。
足の踏みつけ方も、ちゃんとマナになっていて、こういう風に練修してこうやる、ということがサッと一瞬で「わかる」のだ。
足を強く踏みつける際には、正しく行なう必要がある。要訣を知らないと、動作がバラバラになって力が中心にまとまらない。
バラバラになるとは、足を持ち上げ、踏み落とす動きのたびごとに、全身のバランスが崩れて足元が微妙にグラつくということだ。そういう状態で力任せに、闇雲に踏みつける・・・と、何の効果もないどころか、膝や腰などを傷めて後で大変苦労することになる。
正しく行なえば、トンと踏むのにシンクロして腰腹が自動的にキュッと気持ちよく大緊張する。そのためには、踏みつける足だけでなく、軸足の方にも注意を払う。片足で立ち、踏みつけるまでの全プロセスにおいて、軸足のバランスを変えない。つまり、軸足を一切ぐらつかせない。
◎楽しさが次々と炸裂する。神と共に楽しみ、神と共に踊り、神々に奉納する神楽舞。
◎動きはさらに切れ味鋭くなり、和らぎはかつてなかった程の深みを増す。
烈しく動き回り、飛び跳ねても、足裏はピタリと地面に吸いついているかのようだ。動けば動くほど、呼吸が静かに、ゆったりしてくる。
動中求静。動きの真っただ中において、常に「不動」を感じ求め続ける。
そんなことが可能となるのは、レット・オフを使って動きを呼び起こしていくからだ。体の外側の空間に動きを投げ捨てない。常に、自らの身体内空間の裡へと委ねていく。
すると、体内を何頭もの龍が泳ぎ巡るような感覚が自然に起こってくる。これをヒーリング・アーツでは「流身(りゅうしん)」と呼ぶ。
◎上記以外にも、素晴らしい修法をどっさり授かって厳島土産として持ち帰った。が、やや高度な内容であり、基礎から順を追って説明していくと、優に1冊の本が出来上がってしまいそうだ。それに危険な応用もいろいろ可能なので、もう少し整理してから徐々に発表していこうと思っている。
弥山山頂近くの磐座にて。
<2009.03.11>