Healing Discourse

ヒーリング随感2 第19回 せめぎ合う調和

◎前回より、写真をヒーリング・アーツの一表現法として活用する試みに、(私かに)取り組んでいる。
 なかなか評判がよろしいようで、ヒーリング・ネットワークの友人たちからも、心のこもったいろんな反響が寄せられている。

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 ヒーリング随感2の第18回を拝見しましたが、美佳先生がすごく可愛くて惹き付けられました! 少女のようなキュートさがありながら大人の女性の美しさもあり、美佳先生の魅力が溢れているお写真だと思いました。
 スライドショーもメドゥーサ修法で拝見すると、様々な動物が目の前にいるかのように立体的に迫ってきました。
 水面が鏡のように美しく森の景色を映した写真を拝見していると、視野がどんどん広がって、その森に自分が入り込んでしまったかのように感じ、耳を澄ませばその森に響く鳥の声などが聞こえてきそうなほどで、内面が静かになり神秘的な気持ちになりました。
 キナバタンガンの自然の美しさが見事に映し出されている作品の数々に感動しました。<N.S 女性・神奈川県>

 そのリアルさに思わず声が漏れてしまいました。特に、川に沿って茂る密林の葉の重なりや、空間の奥行きの中にまるで吸い込まれてしまいそうで、何度か普通モードに切り替えてまじまじと写真を眺めて確かめたほどでした。本当に想像を絶する美しさで、写真という二次元の情報媒体に秘められた情報量を、普段いかに見落としてしまっているかを実感しました。
 そういえば、最近私は日常のふとした瞬間、心を休めたくなった時にメドゥーサ修法で辺りの景色を眺めます。すると、何の変哲もない景色がその装いを変え、時さえもその歩みを止めてしまったかのように、しばらく佇んで眺め入ってしまうことがあります。
 今回、思いがけなくもメドゥーサ修法の重要性を再確認し、もっともっと観て取る能力を磨いていかなければならないと痛感しました。素敵な感動をありがとうございました。<S.M 男性・宮崎県>

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 あれらの写真を私が斬り撮った、その際の感性に、彼女/彼らは超時空的にかなり肉薄し、ハッキリした共振・共鳴を起こしている。私が感じ・動いたところの本質[エッセンス]を、素直にダイレクトに、あっけらかんと感じ取ってしまっている。
 これは、ある種の呪術的共感といえるのではないか?
 森に響く鳥の音[ね]について言及した箇所があったが、事実、様々な種類の鳥のさえずりと空間的に触れ合いながら、ヒーリング撮影という新たな試みに、私は腰を入れ臨んでいた。
 密林があんな風にうっそうと生[お]い茂っているような場所では、エキゾティックな鳥の鳴き声が往々にして響き渡っているものではあろうが。

◎スライドショーの第2弾だ。
 前回同様、キナバタンガン河を旅[トリップ]しながら目にした様々な風景、風物の、刻々と移り変わる表情を、ヒーリング・アーツ・モードで、ただ感じるがままに、順不同で任意に切り取ったスナップショット(瞬間写真)。

◎毎日、毎日、朝から晩まで、小舟でキナバタンガンを上[のぼ]り下[くだ]りしているうち、ものの見(観)方、見(観)え方がどんどん変わっていった。
 観の目に映る河の景観は、超立体スペクタクルだ。特に、川幅が数〜十メートルくらいにまで狭まる支流が圧巻だった。
 息をひそめるようにエンジンを低め、ゆっくり静かに河の面[おもて]をかきわけて進みつつ、メドゥーサ修法を使って観の目へとシフトする。
 ・・・と、ジャングルが波のように左右の河岸へと押し寄せ、河の上にはみ出し、せり出しながら、空中で不可思議にも静止している・・・そんな有り様が、圧倒的な細やかさと立体感、空間性、輝きを備えて、眼前で活き活きと、次々と連続流動的に、展開され始める。
 プラント・キングダムの聖殿の、有機的な巨大割れ門[スプリット・ゲート]。それを、下から遥かに仰ぎみるが如くにして、順々にうやうやしくくぐりぬけていく。
 生命[いのち]の参道の巡礼。

◎キナバタンガンでは、水面[みなも]に鏡のように映った映像をも、観の目で処理できることを学んだ。すると、まるで水中にもう1つの別世界があるみたいに、リアルに奥深く「観え・感じられ」てくるから凄い。
 このようにして、目を通じて全身の空間性が新たに、豊かに、脈打つ微細粒子的に、開かれていった結果、これまでよりもさらに精妙に、もっと立体的に、ヒーリング・アーツの術[わざ]を運用できるようになっていることに、帰国後、多数相手に武術的な稽古をつけていて気づいた。
 ヒーリング・アーツ Boleh!! 
 ボルネオ Boleh!!
 マレーシア Boleh!!

◎スライドショーを、さらにもう一幕。
 これらの写真を撮る際には、腰腹を相照させて姿勢を極め、観の目モードを常に心がけた。
「表現しよう」「伝えよう」「良い作品を創ろう」「皆に喜び楽しんでもらおう」・・・そういった想い・はからいをも、いったんカメラを手にしたなら、斬って斬って斬りまくるようにレット・オフしていく。そして、「撮(ろうとす)る」ことさえもレット・オフし、レット・オフでシャッターを「斬る」。そういう風に、今回、初めて試みた。注)

注:これまでは、オートフォーカスのプログラム・モードで、ただファインダーを覗いて適当に構図を定め、シャッターを「押す」だけだった。慚愧[ものすごくはずかしい]。

◎蒼天の高みを目指すもの。
 地を這うもの。
 うねるもの、伸びるもの、くねるもの、広がるもの、のたくるもの、絡むもの、垂れ下がるもの、つつむもの、結ぶもの、散るもの。
 巨大なもの、微細なもの、緑のもの、茶色のもの、赤いもの、黄色のもの。様々な色あいのもの。
 揺らぐもの、振るえるもの、動かぬもの、軽いもの、重いもの。分厚いもの、薄いもの。
 太いもの、繊細なもの、奇妙なかたちをしたもの。
 光に面[おもて]を向けるもの、背を向けるもの。固いもの、軟らかなもの。鮮やかなもの、可憐なもの、みすぼらしいもの、堂々としたもの、武骨なもの。
 獲るもの、獲られるもの。喰[くら]うもの、喰われるもの。相争うもの、協力・協働するもの。
 飛ぶもの、跳ねるもの、滑るもの、歩き走るもの、泳ぐもの、潜むもの。
 熱帯の森とは、様々な勢い(生き負い)と力とが、せめぎ合いつつ高度に調和しているところだ。
 そこは、<マナ(形に宿る生命力)>が充ち満ちて踊る、野生の世界。

◎相手に明らかに非がある場合、あるいは自分に明らかな利がある(と自分で思う)ようなケースでは、往々にして、私たちは居丈高となる。普段大人しい人が、突如豹変し、自他共に驚く。
 そんな時、動物界から引き継いだ生存のルール——弱肉強食の法則(=弱いものには襲いかかれ)——に自分は従っているのだなと自覚する人、気づける人は、まだまだ少ないようだ。
「人は、動物と神の間にあって葛藤し、苦悩する」と述べたのは、インドの神秘家・OSHOだ。
 弱いものを容[ゆる]すことは、ある意味で神の領域へと近づくことだ。ただし、徳[スピリチュアル・マイレージ]が貯まるから弱者を許容する、というのではダメだ。効かない。
 ここに修養の道の難しさがある。いつの間にか計算が、微妙な損得勘定が入り込んでくる。しかも、スピリチュアルな欲は、物質的な欲と比べ非常に巧妙・微妙でわかりにくく、貪欲さにかけてはいかなる物欲もはるかに及ばない(永遠の生命とか無限の快楽、などなど)。

◎欲抜きで「容す」ことは可能だ。それが、レット・オフだ。
 どうしても誰かを(あるいは自分を)ゆるせない、その状態を最大限に肌身で感じ、それをわずかに強め、ふっと手放す。あとは、マナ(生命)の力があなたを解放へと導いていくに任せる。静かに待つ。
 自[おの]ずからほどけ始め、「ゆるせない」とは「こわばり」にほかならない事実を体感的に理会できるようになれば、レット・オフを神界の叡知とか恩寵などと私が呼ぶ訳が、あなたにもきっとおわかりになるはずだ。
 内面的なある種の「調子」が、波動的に正反転され、裏返っていく。それをレット・オフと、私は仮に名づけて呼んできた。
 レット・オフとは、容しだ。「まろばし(転ばし、円ばし、丸ばし)」だ。外側に転がすのでなく、それ自身の内面へと円やかに正反転させる。より正確にいうと、内転「させる」のではなく、反転が自ずから生じる状況を用意して待つ。変容の機縁を芸術的に創り出すわざ。
 レット・オフとは、虚の世界への出入り口だ。それがなければ、ヒーリング・アーツは完全に精彩を欠いてしまう、それほどに重要・緊要・肝要なもの。
 そして、「要」とは扇の軸であり、「腰」という漢字を「にくづき」に「要」と表記することには、重大な意味・意義がある。

<2010.09.19 玄鳥去(つばめさる)>